ヘーゲルとハイチ: 普遍史の可能性にむけて

「欲求の体系」

冷戦の終わりとともに、新自由主義は、地球規模でのイデオロギー的支配思想になるまでに台頭した。経済法則と市場合理性は、あらゆる実際的政策を正当化するために用いられるスローガンとなった。このつかみどころのない幻影、これほど過度の崇敬の対象となった「経済」とは、いったい何なのか。それはいつ、なぜ発見され、さらに困ったことに見えざる手はどのようにして与えられたのか。
(略)
 もっとも驚くべきは、ポリティカル・エコノミーの理論が19世紀初頭のヨーロッパ中でいかに大きな知的興奮をひき起こしていたかということである。それから二世代下ってマルクスが経済学を学んだ時代にもなると、ポリティカル・エコノミーは「憂鬱な学問」と評されるようになっていた
(略)
では、1776年にアダム・スミスが『諸国民の富』を出版したときに巨大な興奮がひき起こされたのはなぜだろうか。(略)
ヘーゲルのイェーナ期のテクストは、1803年当時に『諸国民の富』を読んだときの衝撃をあざやかに記録している。(略)
世界の上に積み上げられていく無数のピンの山というヴィジョン、そして断片化された反復的労働行為が労働者にもたらす息詰まるような影響にヘーゲルは魅了された。いや、ことによると震憾したのかもしれない。彼は、この「欲求の体系」としての新しい経済に集合的生の形態を変える力があることを認めた。彼はそれを劇的に描いている。「欲求と労働」が生み出す「巨大な相互依存の体系」は、「自然の猛威のように盲目的に動きまわるので、野獣に対するようにしっかりときびしく飼い馴らし、コントロールすることが必要である」と。
(略)
1805-6年のヘーゲルは、「ブルジョワ」ないしは「公民的」社会という伝統的概念に代えて(略)この新しいエコノミーを、政治的体制の哲学の基礎としたのである。この哲学は、野蛮で貪欲な動物を飼い馴らす力を国家の側が持つようになることを要求している。

経済とネイション

「外化」とは現実世界における人間の労働を指しており、「否定」とは消費の欲望を表わすヘーゲル用語である。
(略)
 欲求の体系とは、お互いに知りもしないし、気にもしないよそ者たちのつくる社会関係である。消費者の「飽くなき欲望」は、「イギリス人が『安逸』と呼ぶ」「疲れ知らずの果てなき生産」と結びつき、際限のない「モノの運動」を生み出す。
(略)
交換される物が価値においては等しくても、社会的帰結は矛盾に満ちて不平等であるということを、ヘーゲルは認識していた。
(略)
経済とネイションは相容れない(略)経済は無限に拡張を続けるが、ネイションは境界を定め、範囲を制限する。
(略)
ヘーゲルは最終的に、その対立を異なった形態の相互依存としてのある政治体制の導入によって解決する。それは、社会的不平等に対して法律による倫理的調整を施すことで、市民社会と国家という両側面が対立を通して互いを可能にするような政治体制である。

イェーナ時代のヘーゲル

イェーナ時代のヘーゲルは、現在私たちが考えているような偉大な人物とはほど遠いと自分自身も感じていた。『精神現象学』を完成させたとき彼はまだ36歳で、その人生はまだおぼつかなかった。テリー・ピンカードによる最近の伝記は、ヘーゲルの生活上の困窮を描いている。「金もなく、給料のいい定職もなく、夫に捨てられたばかりの女性[ヘーゲルの下宿先の家主!]とのあいだにもうけた子がおり、とヘーゲルの状況はどこをとってもすっかり絶望的なものとなっていた」。

奴隷制啓蒙主義

 奴隷制は、18世紀までには、西洋の政治哲学において権力関係にまつわる悪のすべてを含意する根本的なメタファーとなっていた。その対立概念である自由こそが、啓蒙主義の思想家からは最高の普遍的な政治的価値とみなされた。しかし、この政治的メタファーが根づきはじめた時代は、まさに奴隷制の経済的実践――植民地における労働力としての非ヨーロッパ人の組織的できわめて洗練された資本主義的な奴隷化――が量的に増し、質的に強化され、その結果として、18世紀中葉には奴隷制が西洋の全経済システムを保証するまでにいたった時代であった。逆説的なことに、このような経済的実践が、奴隷制とはそれ自体根本的に矛盾するまさに啓蒙主義的理想のグローバルな拡散を促したのでもあった。
(略)
 何百万という植民地の奴隷労働者の搾取は、自由こそが人間の自然状態であり、奪うことのできない権利であると宣言した当の思想家から、世界の所与の一部として受け入れられていた。

奴隷はファッションの一部

17世紀後半のイギリスでは、奴隷はファッションの一部で上流社会の貴婦人が一家のペットのように連れていた。1756年の『ロンドン新聞』には、「『黒人用、犬用南京錠、首輪等の製作うけたまわります』というマシュー・ダイアーの宣伝広告が掲載されている。

理論と現実

 ヘーゲルが現実の奴隷とその革命闘争について知っていたことは、疑いようがない。ヘーゲルは、おそらく彼の仕事のもっとも政治的な表現のなかで、ハイチのセンセーショナルな出来事を『精神現象学』の議論における要諦として用いたのである。カリブ海の奴隷たちの主人に対する革命が実際に起こり、成功したことは、承認の弁証法的論理が世界史の主題として、つまり自由の普遍的実現という物語として可視的になる瞬間である。
(略)
理論と現実はこの歴史的瞬間にひとつになった。あるいはヘーゲルの言葉でいえば、理性的なもの――自由――が現実的になった。ここがヘーゲルの議論のオリジナリティを理解するための決定的論点である。そこにおいて哲学はアカデミックな理論の限界を飛び出して、世界史へのコメンタリーとなった。
(略)
[『歴史哲学』講義は]『精神現象学』のラディカルなポリティクス(略)からの後退を表している。(略)
 アフリカ文化を非難し、新世界の奴隷制をアフリカ人自身のせいにしたことで悪名高いヘーゲルは、奴隷制が「絶対的」である祖国アフリカにいるときより植民地にいるほうが奴隷たちは裕福である、という凡庸で護教論的な議論を繰り返し、漸進主義を是認している。

カントとフランス革命

 カントは、その生涯の終わりも近づいた1798年の著作において、多くの人びとが人間には自分たちでつくった憲法によって自治をおこなう権利があるという考えを抱くようになったことについて、フランス革命がいかに影響を与えたことかと、彼らしからぬ情熱をもって述べている。革命を観察している人たちは、たとえそれが彼ら自身の利害関心や金銭的利得に反する場合でも、革命家たちの立場に立った。この「大いなる政治的変革のドラマ」は、「悲惨な出来事や残虐行為」があったにもかかわらず、「そこに参加していないすべての目撃者の心情の内にほとんど熱狂ともいえる共感をひき起こした」。こうした集合的熱狂という歴史的経験は、たとえ革命が失敗したとしても「忘れ去られることはない」。というのもそれは、人類の歴史的進歩への希望の源泉となる「人類のなかにある道徳的性向」を証明するものだからである。ここに、「果てしない未来への展望が開かれる」。
 そうした熱狂こそ、サン=ドマングにおける革命に対する若きヘーゲルの反応の特徴であったというのが、本書第1部「ヘーゲルとハイチ」の主張である。ヘーゲルは報道を通した目撃者として(略)、グローバルな展望を垣間見ることができた。ヘーゲルは普遍的な自由の実現こそが歴史の意味と構造そのものであると考えており、サン=ドマングの奴隷たちの蜂起はヘーゲルにとってその普遍的自由の表われとして映った。しかし、ヘーゲルは一度はハイチ革命の意味をそのようにとらえたが、経験主義的歴史学を「怠惰な存在」として相手にしなかったように、それの扱う単なる事実問題について根気よく取り組もうとはしなかった。内容より概念が優先されたのであり、ヘーゲルの哲学体系そのものへの熱中の前には、歴史的事実への関心もかすんでしまった。
 ヘーゲルは大陸の岸を離れたことのない書斎の観察者にすぎず、「世界を哲学的にみた歴史」を展開しようとヨーロッパの地平の外へ目を向けるには適任とはいえなかった。理性の支配する発展過程のなかでつぎつぎと継起する対立と矛盾が世俗のあり方に具体的に表われるという彼の弁証法的綜合のアイデアは、神の国の到来を述べる教会の黙示録的ナラティヴからの離反を示すものではあったが、やはり神の計画にもとづくキリスト教的目的論がその下地となっている。ヘーゲル哲学は理性の衣をまといながらも明らかにプロテスタンティズムを肯定していたのであり、彼が人間の幸福を歴史の主題とみなすことを却下したところにも、キリスト教における現世での禁欲主義の要素が残っていた。へ−ゲルは、政治的実践(そこでは、偉大な人物の行為が奇跡の介入の代わりとなる)を進歩の道具と考え、それがグローバルな規模で現実化していく舞台を心に描いた。ヘーゲルの考えでは「近代」における歴史の主な行為主体はヨーロッパ、およびヨーロッパ人に植民地化されたアメリカであり、植民地化の事業は世界における理性の展開として正当化される。共通の目的に向かって進歩することが必然の全人類にとって、西洋こそが歴史の前衛であると断言された。

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