哲学のプラグマティズム的転回

プラグマティズム多元主義相対主義はちがう

不変のものは何も存在しないという恐怖。「足を底につけることも、水面に浮かび上がることもできない」という恐怖。氷のような明晰さで、デカルトはわれわれを壮大で魅惑的な二者択一へと導いていく。(略)われわれの存在の寄る辺、知識を支える不動の基礎が存在するか、それとも、暗黒の力にとらえられ、狂気と知的・道徳的混沌に飲み込まれるか、ふたつにひとつだと。(略)ハイデガー風に言えば、デカルト的不安は「存在的」というよりも「存在論的」な不安である。なぜなら、世界内存在の中心に巣くっていると思われるからだ。(略)確実性や不可疑性の追求さえ、すでにお払い箱なのかもしれない。しかしそんな時代にあって、客観主義者のヴィジョンの核をなし、彼らの情熱の理由を教えてくれるのは、“よりどころとなる、安定して揺るぎのない、永遠不動の制約が存在する”という信念なのである。そして、相対主義者のもっとも根本的なメッセージは、“そのような基本的制約など存在せず、あるのはせいぜい、自分たちでこしらえた制約や、かりそめに受け入れた制約だけである”という主張なのだ。相対主義者が客観主義者にむける眼差しは険しい。それはなぜか。客観主義はどれも必ずといっていいほど自文化中心主義に転じてしまう。洗練の度合いに違いはあっても、そうしたものに変わってしまう傾向は避けられない。そして、合理性についての特定の解釈を不当に祭り上げ、根拠もなしにその普遍性を騙るようになる――。(略)今日、客観主義者と相対主義者の闘争は熾烈なものとなっている。
 いわゆる「相対主義」とはどういう意味だろうか? ここでひとつの問題に行き当たる。相対主義の咎で非難をあびた多くの哲学者が、みずから相対主義者であることを否認しているからである。リチャード・ローティが最たる例だろう。実のところ、彼はむしろ相対主義なるものの誤りを暴きたてるがわだった。「“相対主義”というのは、ある特定の――ひょっとしたら、すべての――話題にかんして信念の優劣を否定する立場である。だが、そんな立場をとる者など、実際には一人もいはしない」。ところがローティは、大勢から、相対主義に直結する見方を支持していると噛みつかれた。盟友のプラグマティスト、ヒラリー・パットナムからさえもだ。「相対主義」という言葉の意味は多岐にわたるが、ここでそれを整理するつもりはない。ただ、ウィトゲンシュタイン風にいえば、われわれをとらえて放さないひとつの描像があるという点は強調しておきたい。かつてカール・ポパーが「フレームワークの神話」と呼んだ描像である。その神話によれば、「われわれは理論のフレームワークに、過去の期待に、言話にとらわれた囚人である」。こうしたフレームワークに厳しく拘束されているので、「根本から異なる」フレームワークパラダイムの人とは意思を伝えあうことができない。(略)相対主義を擁護したり攻撃したりするとき、論者の念頭にあるのは往々にしてこのような描像である。
 ここまで、プラグマティズム多元主義について論じるためのとばくちとして、デカルト的不安と相対主義の「脅威」にふれてきた。それには二つ理由がある。ひとつは、「多元主義」を、相対主義の気の利いた別名と思っている批判的論者が少なくないからだ。しかし、この見方は正しくない。もうひとつの理由は、プラグマティズムの思想家たちにとって、デカルト的不安が突きつける大仰な二者択一は成り立たないと論じるつもりだからである。選択肢として許されるのは、究極的な不動の基礎と基礎なき相対主義だけではない。プラグマティズム多元主義は、そもそも相対主義ではない。フレームワークの神話が示唆する相対主義の描像に対して、もっとも力強い答えのひとつがプラグマティズム多元主義なのだ。

ウィリアム・ジェイムズ

 ジェイムズについて流布している神話のひとつに、彼はさほど政治に関心がなく、その多元主義も政治とは無関係だというものがある。しかし実際のジェイムズは、知識人として政治にも積極的にかかわっていた。熱病のように社会を覆い、やがて1898年の悪名高い米西戦争を招くことになる、世の戦意高揚ムードに対して、ジェイムズは憤怒の炎を燃やした。
いまこの国は、公然と、この偉大な人間世界でもっとも神聖なものを押しつぶそうとしている。ひさしく奴隷状態におかれた人びとが、みずからの所有を回復し、法と政府を組織だて、自由に自身の理想にしたがって内なる運命をたどろうとする試みを、台無しにしようとしているのだ。
(略)
ジェイムズの反帝国主義(および反一元論)の姿勢は、次の一言に集約されている。「くたばれ大帝国!ついでに絶対者もくたばれ!………個人と個人の“活動圏”とを与えたまえ」。
 ジェイムズの舌鋒は、アフリカ系米国人に対する「リンチという疫病」(略)にもおよんだ。群衆が血に飢え、悪へとたやすく走るものであることを、彼は痛感していた。たしかに、ジェイムズのいだく人間像はセンチで大甘だという見方もある。けれども、群集心理とリンチについて述べた次の一節を読めば、ジェイムズのなかに、フロイトに(あるいはニーチェにさえ)通じる一面があったことがわかる。
いってみれば、教会通いをする平均的な文明人は、何ひとつわかっていないのだ。人間の本性の奥底で昏く流れているものを。その胸底には、殺戮に目を輝かす原初の能力がまどろんでいることを。宗教、慣習、法律、教育は、何よりもこの殺人の潜在能力を抑制すべく、何世紀にもわたって文明人に圧力をくわえ続けてきた。その結果、はてしなく困難な道のりではあったが、幸いにも最近まで、われわれは公共の安寧を享受することができた。庶民が血に飢えた自分の本当の姿を忘れられる体制、血なまぐさい衝動が例外とされ、新聞や恋愛小説のなかだけの物語に感じられる体制がととのったのである。
(略)
 思想家の重要度をはかる指標に、学生や、著作に触発された人びとへの影響の大きさがある。若い世代へのジェイムズの影響は並外れていた。彼らは、ジェイムズの多元主義をさまざまな新しい方向に発展させていった。そして、20世紀初めの米国の知的風土を作りかえるうえで、重要な役割をはたしたのである
(略)
 第一次大戦の前後は、反移民感情や反黒人感情に米国が染まった。ひどく暗い時代だった。移民へのヒステリー、排外意識の急速なたかまり、暴力的な反ユダヤ主義と人種差別の嵐が吹き荒れた。このおぞましい風潮に抗議した者の多くが、ジェイムズのプラグマティックな多元主義に鼓舞されたのだった。

デューイ

スターリン全体主義が全盛をきわめていた当時のソ連でさえ、「民主主義を伝統としてきた西欧や米国の国民を、民主主義の大義にそむいている」と指弾し、「民主主義を唱えながら実践できずにいる国の連中は、民主主義の理念を代表しているとはいえず、むしろ理念の裏切者である」と責め、自国こそ「民主主義の理念を政策面でも原則面でも模範として実現していると胸をはってみせた」のだった。(略)
[「民主主義の倫理」は]29歳、ミシガン大学の若手教授だったころの評論である。ヘンリー・メイン卿の『民衆政治』での民主主義批判を承けて書かれた
(略)
 民主主義に対するメインの侮蔑ぶりは、デューイの引用からも手にとるように伝わってくる。「〔民主主義の〕立法は、破壊的な理不尽さの荒々しい爆発そのものである。気まぐれにまかせて、現行の制度はすべて破棄される。(略)」。「民主主義を進歩的な政治形態と考えることほど、ばかげた幻想はない」。「大衆の権力獲得は、学識にもとづくあらゆる立法にとって、不吉このうえない予兆である」。
(略)
メインの民主主義観は三つの柱からなる。(一)「民主主義とは、たんなる政治形態のひとつにすぎない」。(二)「政府とは、主権者に対する国民の関係、政治的に上位にある者の下位の者への関係を扱うものでしかない」。(三)民主主義とは、個人の群れを主権者とする政治形態である。デューイは三点すべてに毅然と異を唱えた。メイン流の民主主義観では、政治がたんなる「数の寄せ集め」になってしまう。
(略)
人間は、「一人ひとりが孤立した、社会と無関係のアトムではない」。そのことを見落とした人間論は欠陥品であり、哲学者がこしらえた誤解を招きやすい抽象の産物にすぎない、とデューイは一貫して主張する。
(略)
 民主主義とは、たんに多数派が支配者となる「政治形態」のことではない、とデューイは説く。「その核心は投票行動にあるのでも、票数をかぞえて誰が多数派になるかを確かめることにあるのでもない。多数派形成のプロセスそのものが民主主義の核心なのだ」。
(略)
 デューイが、民主主義の正しい理解にとって重要であるとして強調することがもうひとつある。民主主義とは何よりも倫理的な生き方にほかならない、という点である。
民主主義をたんなる政治形態のひとつといってしまうのは、「家とは、レンガとモルタルをいわば幾何学的に配置したものだ」とか、「教会とは、座席と説教壇と尖塔のある建物だ」と述べるようなものである。なるほど間違ってはいない。たしかに、その限りではそうだろう。だが正しいともいえない。それだけではまったく不足だからである。ほかの政治形態と同じく、民主主義もまた、「過去の歴史の記憶」、「生きた現在の意識」、「来るべき未来の理想」といった美しい名前で呼ばれてきた。一言でいえば、民主主義とは社会的な概念、つまりは倫理的な概念であり、その政治的意味の土台には倫理的な意味がある。道徳的・精神的なむすびつきの形態だからこそ、民主主義は政治の一形態なのだ。
(略)
「民主主義には、貴族政治にはない個人主義がある。だがそれは倫理的な個人主義であり、頭数だけが問題の個人主義ではない。それは自由の個人主義であり、倫理的な理想を引き受け、その実現にむかってみずから行動する個人主義である。無法の勝手気ままな個人主義とは違うのだ」。この倫理的個人主義をデューイは「パーソナリティ」と呼んだ。パーソナリティは最初からあるのではなく、努力によって実現されるものである。

ジェイムズとパース

 ウィリアム・ジェイムズがどの程度パースを理解していたかについては、プラグマティズムの研究者のあいだでも意見がわれている。たしかにジェイムズは、パースへの知的恩義を公言していた。しかし、ジェイムズがパースから学んだと称するものを見るかぎり、ジェイムズの描くパースと実際のパースの言葉とが、ときとして容易に結びつかないのも事実である。彼らの友情は終生変わることがなかったが、二人がかわした書簡は読み手の心をかき乱さずにはおかない。辛辣な文句を吐き、突拍子もない振る舞いに走るパースではあったが、ジェイムズは彼の忠実な友であり続け、支援を惜しまなかった(パースがほとんど無収入だったとき、ジェイムズは援助金を募って彼を支えた)。世間からうち捨てられた孤独なパースは、絶大な人気と成功を手にした友を幾度も繰り返し「教育」しようと試みた。それは痛ましく、胸の締めつけられるような光景であった。パースはジェイムズが深刻な過ちを犯していると考え、辛抱強く正そうとした。一方のジェイムズは、パースのカテゴリー図式の眼目がいまひとつ理解できなかった。とにかく「ピンとこなかった」のだ。しかし、パースのいう「第一性」、経験の質的な直接性の記述となると、ジェイムズの筆は冴えわたった。「事象そのもの」に立ち返ることをうたい文句に掲げるだけでなく、身をもってその方法を示した哲学者がいたとすれば、ジェイムズこそその哲学者であった。(ジェイムズの現象学的記述はフッサールによって高く評価された。のちの多くの現象学者も、そうした仕事ぶりを理由に彼を慕った。)パースが第二性の特徴とみなした野蛮な強制力を、ジェイムズが鋭く見て取っていたことは、多くの証拠が裏づけている。だが彼は、パースのいう第三性には鈍感だった。パース記号学の核心を理解していた形跡もほとんどない。

ハーバーマス

米国の古典的プラグマティズムを真摯に受け止めたヨーロッパの哲学者はごくわずかだが、その数少ない一人がハーバマスだった。彼はプラグマティズムの主題を採り入れ、再構成し、みずからの血肉とした。この関係を「影響」と呼ぶだけでは不十分かもしれない。それだけでは、ハーバマスがプラグマティズムの思想家の著作を丹念に読み解き、そこから学びとったという意味しか伝わらないおそれがあるからだ。もちろん、それが間違いだというわけではない。しかし哲学的に興味深いのはむしろ、ハーバマスが、独自の弁証法的遍歴をたどるなかで、自分の中心的なアイデアの多くが米国の古典的プラグマティストによって先取りされていたことに気づいた点にある。もちろんこのことは、古典的プラグマティストに対する彼の批判的な姿勢と矛盾するものではない。ハーバマスはまた、プラグマティズムの系譜に(それぞれの流儀で)躊躇なくみずからを連ねる現代の米国の哲学者たち、リチャード・ローティ、ヒラリー・パットナム、ロバート・ブランダムとも批判的に向き合ってきた。そうしたやりとりの中で、彼は自身のカント的プラグマティズムを彫琢し、それを貫き通してきたのである。
 プラグマティズムの生みの親であるパースの思想形成には、カントとの出会いがきわめて大きな意味をもっていたことを思い起こそう。パースは、カントのカテゴリーを練り直す試みから――ハーバマスの表現をかりれば、カントを「脱超越論化」する試みから――哲学を始めた。ハーバマスは次のように述べている。「パースからは、認識論と真理論の領域で、掛け値なしに深甚なる影響をうけた。