アメリカ、ヘテロトピア: 自然法と公共性

アメリカ、ヘテロトピア: 自然法と公共性

アメリカ、ヘテロトピア: 自然法と公共性

アメリカにおける「はじまり」

 アーレントは、こんなようにアメリカにおける「はじまり」について語る。「アメリカ革命の人びとが自分たちを「創設者」と考えていたという事実そのものが、新しい政治体の権威の源泉は結局のところ、不滅の立法者とか自明の真理とかその他の超越的で現世超越的な源泉などではなく、むしろ、創設の行為そのものであることを彼らがいかによく知っていたかを示している。ここから、あらゆるはじまりが不可避的にまきこまれる悪循環を突き破るための絶対者の探究は無意味であるということになる。というのは、この「絶対者」は、そもそもはじまりの行為そのもののうちにあるからである」。これは哲学的どころか、ほとんど神秘主義に見える説明である。しかしアーレントは「はじまり」に、どんな超越も認めておらず、「はじまり」はあくまでも内在的で、それ自体が根拠であり、原理であり、その外には、それを規定する根拠も原理もないのである。
 アーレントは「はじまり」について語りながら、もっぱら「構成的権力」を問題にしているのだ。ひとつの政体、憲法、公共性、法的空間を構成する「はじまり」の過程は、別の制度や法や権力によって決定することができない。決定されるとすれば、それは「はじまり」ではない。「はじまり」における構成の力は、はじまりそれ自体から生成されるほかない。どんな革命も、ある記憶、反復、歴史を背景にし、そこから源泉をくみとってくるとしたら、このような「はじまり」の思考は、まったく理念的なものにすぎないのではないか。しかしアーレントは、まさにこの理念を、革命の内在性の基盤そのものとして、もっぱら現実の過程のなかに見ている。
 『構成的権力』というタイトルの本を書いたアントニオ・ネグリは、その冒頭でアーレントをとりあげて、「はじまり」をめぐる彼女の思考の根本性を大いに評価している。けれどもアーレントアメリカの制度に対する「歴史主義的解釈学」に行き着き、ある種の保守主義、契約主義を形成してしまったと非難してもいるのだ。

政治の砂漠 アーレント

 アーレントは一貫して「はじまり」に執着していた。彼女にとって政治とは「はじまり」においてあり、「はじまり」を持続し、あるいは再発見するような試みと行動そのものでなければならない。それは決して一社会の「起源」にさかのぼるといったことではない。たしかに政治学者として、権力、暴力、帝国主義、国家、法について慎重に考え続けたとしても、アーレントは決して制度としての政治を自明のものとして前提とすることがないのだ。彼女は、ギリシアのポリスを変わらぬ範例(モデル)とするのだが、それはポリスが理想的な政治制度だからではない。ポリスは、対等な人間どうしが、たがいの差異を認め、差異を闘わせるような活動の場そのものであって、それは制度として持続するのではなく、そのような場をたえずはじまらせるような活動そのものとして持続するのである。そういう意味で彼女の〈はじまりの政治学〉は、いま〈政治〉として想像されるものを構成する調整、媒介、妥協、取り引き、隠蔽、計算のような要素とおよそ無関係だといえる。〈政治〉はたえず専門家や、技術者や、官僚とともに、ある内部性を、〈うち〉の意識を構成しているが、アーレントはそのような政治のあくまで外部から政治を「はじまり」として考えつづけたのだ。それは単にアナーキズムであったわけではない。アーレントは決して制度も権力も否定するわけではなく、むしろ「はじまり」の活力そのものを維持するためには、制度も権力も必要と考えた。決して政治を否定するわけではなく、ただ「はじまり」の政治を考え続けた。
(略)
 アーレントの批判は、いつも過剰とも思えるほど毅然としている。彼女の批判は、理知的で一貫して、いかにも西欧的と思える。けれども彼女がいちばん問題にしている「あいだ」や「複数性」とは、理知的な伝統のほとんど埓外にある問いなのだ。たとえば「先入見」の機能を批判しながら、アーレントは政治における「判断」は「先入見」にもとづいてはならないばかりか、ほとんど「基準のない判断」でなければならないという。その意味で政治的な判断は、カントが『判断力批判』で問題にしたような美的判断に似ている。アーレントの晩年の大きなモチーフの一つは、カントのいう「判断力」を再考しつつ、政治的思考を基礎づけることであった。
(略)
 アーレントにとって、政治は、複数の人間が平等に、しかも異なるものとして、話し合い、差異を闘わせて公共的に活動するということであり、そのような「公共体」という内容をもつ「自由」そのものであるのだから、政治は決して「統治」ではない。「統治」は、国民の生命と財産を保全することを目標とし、ますますそのことだけに集中し、そのための戦争にそなえ、国家はますます「万人の生存そのもの」に関心を集中して、たがいに脅威を増大させていくことになる。こういうアーレントの指摘は、ミシェル・フーコーが考えた「生政治学」という概念を連想させずにはいない。しかし彼女にとって「生-政治」とはすでに語義矛盾である。生そのものが目標となるとき、そこにはもう政治は存在しえないと彼女は考えたのだ。

ロレンスにとってのアメリ

ロレンスが指摘するのは、やはりアメリカの作家たちの「自由」をめぐる奇妙な両義性である。確かにそこには旧大陸からの自由が表現されているが、「彼らは自由を求めてきたのではない」。ロレンスが、アメリカ文学における自由を診断して見きわめるのは、むしろ根深い不自由であり、屈従である。「ぶすぶすと緩慢にくすぶり続ける腐蝕性を持った屈従」がそこには表現されている。なぜなら「人間が自由なのは活気溢れる故国にあるときであって、そこからさまよい出たり脱出したりしているときではない。宗教的信念から発せられる深い内面の声に従っているとき、自分の内部の力のままに動いているとき、そのときこそ人間は自由なのだ。(略)未開の西部といったところへ向かって脱出しているときに自由なのではない。最も不自由な魂が西部へ行き、自由を叫びもするのである」。
 たとえば、トクヴィルは、同時代のアメリカの「デモクラシー」に、公共性と宗教性のすぐれた調和を見て、フランス革命のテロルを乗り越える道を発見していたが、ロレンスがアメリカ文学に深く共感しながらも、そこに見るのは自由と不自由のはなはだしい不均衡と緊張である。あるいは生命と、それに反する傾向の、激しい葛藤なのである。「ヨーロッパの「自由」は、偉大な生命の脈動であった。ところがアメリカのデモクラシーは、いつも、何かしら反生命を意味するものであった。エーブラハム・リンカーンのような、最も偉大な民主主義者たちでさえ、その声には、常に自己を滅ぼし、自己を犠牲にする響きがこもっていた。アメリカのデモクラシーというのは、常に、自己を滅ぼす一つの形、もしくは他の誰かを滅ぼす一つの形であった」。

ヘテロトピア

ユートピア」ではなく、「ヘテロトピア」としてのアメリカについて語ったのは、ミシェル・フーコーである。
(略)
 1967年に執筆された「他の空間について」(邦訳タイトル「他者の場所・混在郷について」)というこのテクストは、死の直後にようやく発表されることになった。その中に現れる「ヘテロトピア」とは「ユートピア」を批判する概念なのだ。「ユートピアとは現実の場を持たない場所である」。ユートピアは実在する社会に対して、その完成された形、その「裏面」として存在するが、いずれにしてもそれは「根本的、本質的に、非実在である」。
 これに対して、むしろ現実化されたユートピアとでもいうべき場所があり、あらゆる場所の外にあり、現実の場所に抵抗しそれを転倒するような場所がある。フーコーはこれを「ヘテロトピア」と名づけた。
 たとえば「鏡」とはユートピアにすぎないのだ。鏡に映るのは、現実の像が裏返しになったもので、そこに映し出される私は、端的に実在しないからである。しかし鏡の上のこのイメージはヘテロトビアでもある。鏡は確かに実在して、鏡の前に立つ私に反映を送ってくるからである。鏡の中の私は、まなざしを通じて私に働きかけ、私は鏡の前で私を発見し私を再構成する。「私が鏡面に自分を見ている瞬間に私が占めているこの場を、鏡は返してくれる。この意味で鏡はヘテロトピアである。この場は絶対に現実的である。それを取り巻く空間全体に結ばれているからである。同時にそれは絶対に非現実的である。この場が知覚されるには、鏡の中のあの潜在的な地点を通過しなければならないからである」。
 フーコーは様々な例をあげている。たとえば死者が腐敗し聖化される場所として「墓地」とは、都市の現実におけるヘテロトピアである。そして「劇場」、「映画館」、「庭園」、「美術館」、「図書館」、周期的に開催される祭り、縁日の類……フーコーはやがて彼にとって「規律社会」のモデルとなる「兵舎」や「監獄」までもヘテロトピアの列に加え、壮大な「ヘテロトポロジー」を構想するのだ。
(略)
 そこで再び、私たちのアメリカにもどるなら、アーレントアメリカに見出した画期的な〈公共性〉、ロレンスがアメリカ文学に発見した法外な生命力とそれをめぐる激しい葛藤、メルヴィルの文学の中心で揺れ動いていた〈民主主義〉、フォークナーのヨクナパトーファは、決してどこにも存在しないユートピアのようなものではない。しかしそれは歴史的現実としてのアメリカに接しながらも、決してそれに一致するのではなく、接線として現実から遠ざかる異様な線分をもつのである。彼らの思考は、歴史に対して接線を引き逃走線を引くような試みでもある。

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