ほんとうの憲法: 戦後日本憲法学批判

保守合同「行くバカ(池田)に残るバカ(佐藤)」

保守合同の背景には、保守系政党政治家たちの改憲への強い意欲があった。
(略)
 ただし、吉田派の池田勇人佐藤栄作らは、保守合同に反対をしていた。隠居していた吉田茂の指示で大半が自民党に合流するが、佐藤は拒絶した。1955年10月には左右の社会党が統一を果たしており、当時、財界も、アメリカも、世論の大半も、保守合同に好意的であった。「行くバカ(池田)に残るバカ(佐藤)」と言われた世相であった。佐藤が自民党に入党するのは、1957年になってからのことであった。自民党総裁として1960年代に長期政権を達成し、いわゆる「吉田ドクトリン」にもとづく国家運営の仕組みを確立した池田や佐藤は、師である吉田が制定に大きくかかわった憲法の改正に対して、当初から冷淡であった。しかし逆に言えば、1955年の鳩山の保守合同から1960年の岸退陣までの時代は、改憲派自民党を牛耳り、国会で3分の2の議席を得ることを虎視眈々と狙っていた時代だった。
 新たに生まれた自由民主党における憲法調査会の第1回総会(略)[鳩山一郎は]
「このたび保守合同ができまして、日本の憲法の改正のめどがつきそうになったことは、私どもの非常な喜びであります。アメリカがやって参りました当時、日本をどういうふうにする心持ちをアメリカの連中が持っていたかということは、文教政治についてアメリカがとった態度でもって、非常に明瞭であります。とにかく地理を教えず、歴史を教えず、日本の前途をぶちこわしに参ったのであります。結局日本を四等国か三等国にしようという意図のもとに占領政治が始まったのであります。始まった当時でき上ったものが日本の基本法憲法なのであります。この憲法をそのままにして、日本が大きくなろうとか、再建しようとかいうようなことはとってもできない話だと私は思うのであります」。

改憲、下火に

 1955年の保守合同は、日本における安定的な保守党政権の維持可能性を高めたと信じられ、そのために改憲派の勢いも増したはずであった。しかし安保闘争は、日米安保の問題が、依然として大衆動員に影響を与える大きな問題であることを強く印象づけた。
(略)
 保守合同による改憲派の動きは、池田政権下で下火になっていた。国論を二分する安保関係の論争を避けた池田勇人首相は、もはや改憲を標榜していなかった。内閣憲法調査会の会長であった英米法を専門とする高柳賢三は、結局、かなり明示的に、改憲の必要性を否定した。もともとは改憲派であった副会長の矢部貞治ですら、改憲固執する立場を放棄するようになっていた。理由は、改憲がかえって国論を二分してしまう、というものだった。最後まで「押しつけ憲法」論を展開して改憲の必要性を声高に唱えていた内閣憲法調査会の有力委員であった国際政治学者の神川彦松は、会長の高柳に「自己学説を固守してゆずらないという老学者の風貌が顕著」と評される有様で、改憲派は知的権威を発揮することができなかった。

美濃部達吉の愚民観が反感を買い天皇機関説事件

 菊池武夫は、エリート「官吏」が政党政治家のご機嫌取りとなって「堕落シテ、唯利益ニ趨ッテ、利権黄白以外眼中ニナイ」状態に陥っている事を批判し、既存の政党政治の温床となっている美濃部の憲法学説も批判した。(略)
新聞記者たちは、「腐敗した官僚」を、「ソレ(機関説)デ出世シタ人」たちとして位置づけた。
 1936年に美濃部を狙撃した男が持っていた斬奸状には、美濃部の学説それ自体に対する攻撃ではなく、「身は社会の上流に位し、飢餓を知らず、旦に霜を踏みて田を耕す労苦を知ら」ない者が、「千万金の美屋を以てし、皇恩一身に集め、子孫栄達無上の境遇にあ」ることに対する糾弾が書かれていた。実際、名声を集めていた全盛期の美濃部達吉の年収は、現代的に言うと1億1600万円程度だったという。
 1935年当時、美濃部は、政党政治に見切りをつけ、「政治が国民一般の福利のために行はれないで、少数の財閥や、私党のためにのみ行はれる傾向」を見せる「政党政治の弊害」について論じていたが、結局、官僚支配を正当化する論理を展開し、エスタブリシュメント層を擁護する裕福なエリートであると見なされていた。美濃部は政党政治の擁護者と理解されているが、実際には、「人間は其の天性に於て其の能力識見に於て極めて不平等である」などと述べて平等の選挙権を批判し、選挙はただ「多数の民衆を扇動し籠絡する能力のある者」の勝利しかもたらさない、と断じた人物であった。美濃部は、単に代表的な「知性」であっただけでなく、一般民衆からは隔絶した社会エリートだった。
 美濃部の愚民観が反感を買い(略)天皇機関説事件は発生した。美濃部を排撃したのは、「一君の下に万民が平等であるべき」で「身分や貧富の差は存在してはならない」という「一君万民主義=日本型デモクラシー」の信奉者たちであった。美濃部の論争相手だった上杉慎吉こそが、「反資本家、反既成政党、反官僚、華族制度廃止の立場に立ち、貧農や労働者に期持する、普通選挙推進者であった」。

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