脱構築と公共性

脱構築と公共性

脱構築と公共性

暴力はかえって権力を損なう

ベンヤミンデリダと対立するアーレント

服従を求める命令が有効であるためには、暴力が欠かせない。だが問題は、権力とは「暴力という手段からなる人による人の支配を実践するものである」という解釈そのものにあるのだ。もしも権力とは、命令せずに指導し、服従を強要せずに従われるものであるとすれば、暴力は権力にとって非本質的であるばかりか、かえって権力そのものを損なうものとなる。権力と暴カの分離は、アーレントにおいては明快である。

まさにインディアンポーカー

かけがえのない自分がざっくりブサイク判定。

人は、全方位から見られ隈なく判断されることによって、特定の利害がもたらす偏った見方から解放され、すべての人が認めるような姿を暴露する。(略)
ここで重要なのは、まさにあらゆる人びとに開かれている人の「だれ」を、その当人だけは知ることができないという、アーレントの驚くべき記述である。(略)
かくしてアーレントの公共空間においては、私性は徹底的に削ぎおとされ、自己中心性は還元されてしまう。問題となるものは「相互主観性」ですらなく、自他のあいだの非対称性の深淵である。(略)
この事態を「私」の側から見ると、それはラディカルな「自己疎外」にほかならない。私は私でありながら、自分自身がだれかを知ることすらない。それでもなお、まさに計算不可能なままに、人は自分の「だれ」を他者にさらけ出す。

ふりだし。

人間は私的利害関係に圧倒されている。

重要なのは、アーレントが、すべてが利害で規定される戦争の例をとり、「こうした例はむろんつねに存在してきた」と述べていることである。とするならば、人間の「共に在ること」がもうすでに「利害」に汚染されており、私的利害の純粋な切断など存在していない可能性が「つねに存在」しているということになる。(略)
こうして問題は振り出しに戻る。個別の利害を断ち切る人間の集まりは、つまり公的空間は、はたして存在するのだろうか。人間は、ほとんどつねに私的利害関係に圧倒されて生きているのではないだろうか。今日のメディア支配は公共空間を広告空間に変え、そこにさまざまな利害関係がいっそう巧妙に身を隠してすべり込む。シンボル操作や表象の政治はますます活発になり、利害なき空間の成立はますます自明なものではなくなっている。

第三章はわかりやすい西部劇の話。
ホークス『赤い河』土地契約書がなんじゃボケ、どっちにしろ先住民からかっぱらったもんやないけ、こっから北はワシが自分の土地って決めたんじゃ、力のあるもんに権利があるんじゃ、というジョン・ウェインが君臨する前半。

暴力の一般化

すべての起源に(植民地主義的)暴力があるのだから、自分の暴カも許される、これは暴力の一般化であり、あらゆる人間に暴力を権利として認める暴力の共和国の思想である。起源の暴力をのぞいては、いかなる権威も宗教も伝統も存在しないフロンティアでつぶやかれた言葉は、また国王の首と共に既成の権威が地に墜ちたフランス革命直後に書きつけられた言葉とはるかに共鳴している。『フランス市民よ、共和主義者たらんとするなら、もう一歩の努力を!』と題されたサドのテクストは、次のように問いかける。「なぜなら、共和国は戦争によらなければ自分を保つことはできないのであり、そして、戦争ほど道徳的でないものはないからである。そうだとすれば、当然の責任によって「不道徳」である国家において、個人が「道徳的」であることが不可欠だというのは、一体どうして証明することができるのだろうか?サドにとって「不正」とは、犯罪や暴力そのものではなく、そうした暴力的手段がただ一部の人間にのみ専有されてしまっていることを指す。だから、あらゆる人間が暴力に開かれるべきであり、各人の利己心にのっとり、全員が弱肉強食の闘いを実践することが「公平さ」であり、共和国市民の努力の方向となる。

赤い河を渡ってからの後半では養子をリーダーとした反乱が起きてウェインは追放され、養子の民主的体制は牛の売却利益を得る。ラストは怒りに燃えるウェインと養子が対決、和解し、父殺しの罪悪感は消える。

創設行為の起点

「真理」とは、幾何学的なものであれ宗教的なものであれ、不可抗力的な強制力をもち、有無を言わさぬ「専制君主」として振る舞うものである。それがなんであれ、「絶対者」が想定されるところには「命令」が、そして人びとを服従させるための暴力が回帰してくる。かくして革命にはテロルがつきものとなり、暴力的な結末のなかで挫折をみる。ところがアメリカ革命は、この絶対者の問題を首尾よく回避することに成功し、よく組織された複数者のあいだに、命令-服従によらない関係を、すなわち公的自由の関係を生み出すことができた、とアーレントは説く。(略)

アメリカ革命の人びとが自分たちを「創設者」と考えていたという事実そのものが、新しい政治体の権威の源泉は結局のところ、不滅の立法者とか自明の真理とかその他の超越的で現世超越的な源泉などではなく、むしろ、創設の行為そのものであることを彼らがいかによく知っていたかを示している。(略)

アーレントは創設行為の起点を自己創設的な絶対的「はじまり」となすことで、外部の超越的な原理や暴力的な過去と断絶する力を与え、そこに暴力的ならざる関係を開始させる可能性を見ようとした。

しかし「はじまり」だからといって暴力がないわけではと著者

だが、もしも『赤い河』がアメリカ独立のアレゴリーを含んでいるなら、この映画が示すのは「はじまり」がさほど純粋な断絶点ではなく、矛盾をはらみ、暴力の記憶を完全に消し去るものではないということである。いずれにせよ映画では、相互約束への移行が暴力の問題を決着させてしまうには至らない。ここで問うべきは、暴力的な関係を解消する絶対的な始点として「はじまり」をアーレントが定位することで、過去の暴力の記憶やそれ自身が含む暴力性を結果的に隠蔽しているのではないか、という問題である。

独立宣言のやり口。やっぱり横暴な支配からは独立したいよね、皆さん、と一般論。そして聞いてよウチの英国王のロクでもなさと愚痴を展開、同情をひく。こうなったら独立っきゃないでしょ、して当然でしょ。そして最後に先住民虐殺の言い訳。だからあ英国が凶暴な先住民を扇動して僕等にぶつけてきたからサクっとやっちゃったわけですよ。悪いのは仕向けた英国ですね。もうだからアメリカだし、アメリカであるべきだし。

「この連合せる植民地は、自由にして独立なる国家であり、また権利としてそうあるべきである」
these United Colonies are,and of right ought to be,free and independent states
デリダの分析が明らかにするのは、国家のすべての基礎となった独立宣言が、じつは自己言及的なものであり、その意味で自己以外のものに根拠をもたない、循環のなかで宙づりにされた宣言であるという問題である。それは、自己引用し自己参照しながら、自己を言いつつ産出する出来事である。

反西部劇的な『リオ・ブラボージョン・ウェインは超人ではなく、「没利害的な公平性という公的正義を実行する」という点において、周りから助けを受けてヒーローとなる。

西部における公共性

よく知られていることだが、ホークスはこの映画[『真昼の決闘』]が「嫌い」で、だからそれとは正反対の仕方で自分の西部劇をつくろうと思い立ったのだ、と後年のインタビューで述べている。ゲーリー・クーパーが演じる保安官もまた、悪に屈せず正義を守りとおすのだが、彼は最終的に完全に孤立してしまう。(略)保安官の存在は、町の住人たちのエゴイズムを否応なく際だたせてしまうがゆえに、彼は疎まれ嫌われる。すべての人間が自己保身や経済的利害のために動いており、この「死んだ町」に「男はいない」。(略)
いなくなったこのゴーストタウンに、公共空間は存在しない。決闘がすんで住民が道にあふれ出してきたとき、クーパーはバッジを投げ捨て、この公的正義を欠いた町を立ち去るのである。
この状況をハワード・ホークスは「転倒」させる。保安官は助けを求めるのではなく、友人が申し出た加勢を断る。それでもみんなが彼を助け(略)
「えらく人が多いな。」「あんたを助けに来たんだ」「こう証人が多くては無茶はできん」こうした台詞のやりとりは、西部劇の舞台がもはや無人の荒野ではなく、複数の人間のあいだで公開された公的空間にあることを示している、そしてチャンスは、この「公開性」を自分の力とし、公衆を味方につけ、衆人環視の状況を利用して、バーデット一味の要求をはねつけるのである。他者を犠牲にしても自己利害を追求しようとする敵に対抗するための力を、チャンスは自分の超人的な勇気にではなく、仲間たちの協力や多くの人間の判断に開かれた公開性から得る。そこには西部における公共性が具現している。

ざくざくとやっつけたので、ざっくりしてます。明日気が向いたら補足するかも。