他の岬―ヨーロッパと民主主義 デリダ

1993年に出版されたものの新装版。あとがき&解説だけ読んだ。

  • 訳者あとがき

高橋哲哉

 ヨーロッパの「今日」とは何か。「他の岬」にとって、それは「いわゆる中央ヨーロッパといわゆる東ヨーロッパを襲った激しい地震」――「ペレストロイカ」、「民主化」、「ベルリンの壁の崩壊」、「再統一」等々――であり、「いわゆる《湾岸》戦争」であり、そして名指しこそされていないが、なによりもまず、国民国家の神話に挑戦するEC(ヨーロッパ共同体)統合の進展である(「他の岬」の講演は1990年5月、原注は「いわゆる《湾岸》戦争三日目」(略)
 「同一性の権利」において、「外国人排斥や人種生殺や反ユダヤ主義や宗教的あるいは民族主義的ファナティスム」といった「最悪の暴力」が解き放たれ、もつれ合い、同時にそれが「約束の息吹、呼吸、精神=気息そのもの」ともつれ合うといった状況――は、その後の時間のなかで誰の目にも明らかな現実となり、ますます「切迫」の度合いを高めている。(略)
外国人排斥を唱える勢力の進出や人種・民族主義的犯罪の増加傾向は、フランス、イタリア、オーストリア、スペイン、スウェーデン、ベルギー等に広がり、とりわけ92年後半のドイツにおいて頂点に達したし、旧ユーゴスラヴィアにおける「民族浄化」思想の復活、それに基づく凄惨なテロルと「強制収容所」の現実に対して、西ヨーロッパはその無力さをさらけ出している。ECの市場統合は93年1月1日をもって発効したものの、この記念すべき「ヨーロッパ元年」の始まりの日に、ECが「一種の慎み」から公的な記念行事を自粛せざるをえなかったことは象徴的である。(略)

鵜飼哲

 「民の声、神の声」。ヘシオドスに起源を持つとされ古代ローマで諺の形を得たこの言葉は、周知のように、アメリカ合衆国の独立以来、「世論による統治という民主主義の真理を語る言葉として称賛されてきた。(略)古代においては、「民の声」とは、不可知の「神」の意志を告げる神託であった。近代政治制度の形成期には、この言葉は、王権神授説を掲げる君主制に対する闘争のなかで、人民主権を正当化する目的で援用された。アメリカ建国期にこの言葉を引いたトマス・ジェファーソンにとって「神」が単なる修辞でなかったことはこれまでも多くの論者の注意を引いてきた(略)
そこには、「神」の唯一性に見合う均質性を備えた「民」を、主権者として創出=確立するという強力なモチーフが働いていた。この点を指摘したのはカール・シュミットであった。
(略)
 しかし、共同体における支配者と被支配者の同一性を原理とする〈民主主義〉に対し、近代政治制度のもう一つの柱である〈自由主義〉は、公開性と討論というまったく異なる原理に立つ。『現代議会主義の精神史的地位』でシュミットが述べているように、〈自由主義〉と〈民主主義〉が共通の敵=君主制に対して結束していた19世紀には認識不可能だったこの原理間の相克は、第一次大戦後の欧米諸国、とりわけドイツにおいて危機的な発展を見せ、議会制度への「信仰」と大衆民主主義の現実の間に横たわる深淵はもはや覆うべくもなくなった。すなわち、権利上は主権者=主体であるべきもの(〈人民〉)が、事実上は議会政党による多数派獲得のための操作の対象(〈大衆〉)でしかないという矛盾が白日のもとに露呈したのである。「民の声、神の声」という言葉は、こうして、顧客と化した公衆の合意の獲得を目指す「広報活動」こそ政治であるという意味に理解されるに至った(ハーバーマス『公共性の構造転換』、第六章「公共性の政治的機能変化」参照)。
 この認識は両大戦間のドイツにおいて、ある場合には19世紀以来の社会主義的な形式民主主義批判に結びつきつつ独自の理論的展開をみせ(たとえばベンヤミン『暴力批判論』)、他の場合には30年代以降のシュミットのように、ファシズム運動に合流して憲法秩序の否定に向ったが、この左右両翼からの議会制民主主義批判の共通点は、〈人民〉に変わる主権者=決断の主体を新たな政治神学の問題として提起した点にあった。
 「日延べされた民主主義」は、こうした議会主義批判の必然性をすすんで認めつつ、これらの批判がその対象である議会制民主主義(少なくともその自己表象)となお共有している諸々の形而上学的規定の脱構築の可能性を示唆することで、「来るべき民主主義」の思考の枠組みを素描する試みといえよう。
(略)
ハイデッガーによれば、デカルトに始まる近代とは真理が表象の〈確実性〉に転化し〈計算可能性〉が存在の尺度とされる時代であり、民主主義的代表制度もその帰結の一つであるが、その一方で彼は、この時代がその臨界において、さまざまな「巨大なもの」の出現を通じて「計算不可能なもの」を齎しつつあることも見て取っていた。
(略)
デリダが「世論が計算不可能な平均なのではなく、〈計算不可能なもの〉がある」と述べるとき、彼はハイデッガーとともに、ハイデッガーに反して「世論」を思考している。(略)
ハイデッガー存在論批判をそれに相応しい水準で受け止めたうえで「民主主義者」としてなお「最も思考すべきもの」があるのであり、デリダにとって、それは、例えば、「世論」なのである。
 こうしてあの諺「民の声、神の声」は新たな解釈を受ける。デリダは「世論」を「幽霊」と、さらに進んで 「否定政治学の神」と呼ぶ(略)
デリダはルソー自身が「一般意志」と「世論」を峻別していたことを重視する近年の研究動向にも眼を配りつつ、「世論」が少なくとも権利上は「対象でも主体でもない」と考える。「世論」としての「民」は、単に不在なのではないが決してそれ固有の場に現前せず、自ら肉声で語ることもない点で、否定神学の神と少なからぬ類縁性を持つのである。(略)