日本の近代とは何であったか・その2 三谷太一郎

日本の近代とは何であったか 教育勅語成立過程 - 本と奇妙な煙の続き。 

立憲主義明治憲法下の体制原理

 複数政党制の成立と発展は、世界的に見ても決して一般的な現象とはいえません。(略)特に反政党内閣的であるといわれた明治憲法の下で、なぜ現実に政党内閣が成立したのか。この問題は非常に重要です。
 さらにこのことは、なぜ日本に立憲主義が導入されたのかという問題にさかのぼって考えるべきでしょう。ここでいう立憲主義とは、近代憲法の実質を成す議会制、人権の保障、権力分立制のような政治権力の恣意的行使を抑止しうる制度的保障に基づく政治原理を意味しています。その点では、明治憲法もまた、程度の差はあれ、近代憲法に共通する実質を備えており、それに基づく立憲主義の根拠となっていました。現に明治憲法下においては、大正初頭に反政府運動として護憲運動が起こり、その正当性を理由付けていたのが、「宮中」と「府中」(政府)の別の遵守という意味での権力分立制の擁護を主張する立憲主義でした。当時政府批判のスローガンとして「非立憲」が叫ばれた所以です。その意味では、「立憲主義」は明治憲法下の体制原理であったのです。

幕藩体制の合議制

 なぜ日本に立憲主義が導入されたかを考える場合に、日本においてもそれなりの立憲主義を受け入れることを可能にした日本特有の歴史的条件があったと考えるべきでしょう。
(略)
 まず幕藩体制の政治的な特質として、一種の権力の相互的抑制均衡のメカニズムというべきものがそれなりに備わっており、それが明治維新後の新しい体制を準備していく非常に重要な要因になったことに注目すべきです。
 具体的にいえば、幕藩体制には政策決定のための重要な制度として合議制というべきものがありました。
(略)
 なぜ、この合議制というべきものが幕藩体制の中で準備されたのか。その理由は、おそらく将軍を補佐する特定の人格、または特定機関やそれを拠点とする特定勢カヘの権力の集中を抑えるためだったと考えられます。さらにこの合議制は、月番制、つまり勤務が一ヵ月ごとの短期のローテーションによって行われる制度と重なっていました。すなわち合議制および月番制によって権力の集中が抑制される仕組が幕府の政治的特質としてあったのです。

初代英国公使のラザフォード・オルコックは、有名な回想録『大君の都』において、この点に注目し、次のように書いています。幕藩体制においては「どの役職も二重になっている。各人がお互いに見張り役であり、見張っている。全行政機構が複数制(つまり合議制)であるばかりでなく、完全に是認されたマキアヴェリズムの原則に基づいて、人を牽制し、また反対に牽制されるという制度の最も入念な体制が当地では細かな点についても、精密かつ完全に発達している」と指摘しているのです。
 これは相互不信の制度化です。(略)
将軍ですらも、相互監視の対象であることを免れませんでした。将軍の寝所には将軍と寝所を共にする女性以外の第三の女性が入り、そこでの将軍の会話を逐一聴取することが公然の慣習とされていました。(略)幕藩体制においては、将軍もまた自由な人格ではなかったのです。

幕末の権力分立論

幕末の開国に伴う政治状況の根本的変化――体制的危機、つまり幕藩体制にとっての「立憲主義」の危機――に対応して、権力分立制がなぜ浮上したのか。(略)
[慶喜のブレーン、西周が建議書で提案したのが]一種の三権分立だったのです。(略)
全国的な立法権の主体は徳川宗家、つまり大君を含む全国一万石以上の大名から或る上院(略)
それに対して各藩代表一名から或る下院というものをも設ける。大君は下院についても可否同数の場合に三票の投票権を有し、かつ下院の解散権を有する。
 さらに、西は徳川宗家を大坂に置かれる公府、行政権の主体として想定しました。つまり立法権と行政権とを区別して、非幕府勢力を立法権の領域に封じ込める。そして大政奉還後の幕府の政治的生存を確保するというのが、徳川慶喜のブレーンとしての西が幕府のために描いた政治戦略でした。
(略)
[同様に浮上した議会制も]幕府の伝統的支配の解体に対応する、もう一つの政治戦略でした。幕府は根本法である鎖国を放棄し、体制の正当性の根拠を新たに問われる緊急事態に遭遇します。(略)
幕府の根本法である「祖法」を補完する、あるいはそれに代替する新しい体制原理を見出す必要に幕府は迫られたわけです。
 そこで幕府が考えたのは、一つはよく知られている「勅許」でした。伝統的支配から疎外されてきた朝廷の体制への編入ということを一方で考える。いいかえれば「権威」による「権力」の補強であり、「権威」と「権力」とを一体化させることです。
 もう一つが「衆議」でした。これが急速に幕藩体制の支配原理を補うものとして浮かび上がってきた。つまり従来幕府の政策決定のアウトサイダーであった大諸侯をはじめとする諸大名の意見が「衆議」として、新たに戦略的価値を帯びてきたのです。これはいってみれば、伝統的な合議制を拡充する意味をもつ具体的な方策であったというべきでしょう。そして、それに伴って幕府権力それ自体を意味する「公儀」の正当性の自明性が失われ、にわかにもう一つの「公議」が体制の安定のために必要となってくる。すなわち「公儀」から「公議」への支配の正当性の根拠の移行が幕末に急速に起こってくるのであり、これが議会制を受け入れる状況の変化であったのです。

明治憲法下の権力分立制

 そして、幕府的存在を排除するために最も有効なものとして考えられたのが、議会制とともに憲法上の制度として導入された他ならぬ権力分立制でした。権力分立制こそが天皇主権、特にその実質をなす天皇大権のメダルの裏側であったのです。つまり、明治憲法が想定した権力分立制というのは、幕府的存在の出現を防止することを目的とし、そのための制度的装置として王政復古の理念に適合すると考えられたのです。権力分立制の下では、いかなる国家機関も単独では天皇を代行しえません。要するにかつての幕府のような覇府たり得ない。このことが、明治憲法における権力分立制の政治的な意味であったのです。
 憲法起草責任者であった伊藤博文は特に議会について、議会こそまさに覇府であってはならないという点を強調しました。(略)
 この伊藤の覇府排斥論というものは、議会だけでなくて他の国家機関にも共通に適用されなければならないものでした。それは当然、軍部についても例外ではありません。要するに「統帥権の独立」というのは「司法権の独立」と同じように、あくまでも権力分立制のイデオロギーなのです。したがって、それは軍事政権というようなものが出現することを正当化するイデオロギーではありえなかったわけです。太平洋戦争中、東條内閣が東條幕府という名によって批判された所以はそこにありました。また、大政翼賛会が幕府的存在(あるいはソ連国家におけるボルシェヴィキに相当する組織)として当時の貴族院などにおいて指弾されたのも、やはり権力分立制の原則にそれが反すると考えられたからです。

藩閥

 明治憲法は表見的な集権主義的構成にもかかわらず、その特質はむしろ分権主義的でした。実はその意味するところは深刻でした。つまり、明治憲法が最終的に権力を統合する制度的な主体を欠いていたということを意味するからです。
(略)
制度上は独立して天皇に直結している個々の閣僚に対する統制力も弱く、したがって内閣全体の連帯責任は、制度的に保障されてはいませんでした。また閣外に対しても、現在の内閣総理大臣とは異なり、議会によって選出されていませんので、議会の支持も万全ではありませんでした。このことが明治憲法体制下の日本の政治の大きな特徴であったのです。
(略)
 いいかえると、天皇統治というのは一種の体制の神話でして、現実は権力分散でした。そういう体制の軌範的神話と政治的現実とを媒介する何らかの政治的な主体というものが不可欠だったのです。明治憲法は制度上は、覇府的な存在、要するに幕府的な存在というものを徹底して排除しながらも、憲法を統治の手段として有効に作動させるために、何らかの幕府的存在の役割を果たしうる非制度的な主体の存在を前提としなければならなかったわけです。
(略)
まず登場したのが、いわゆる藩閥憲法制定権力の中核としての藩閥でした。(略)
この元老集団が分権性の強いさまざまな権力主体間の均衡をつくり出す、いわばバランサーの役割を果たしたのです。
 ところが、この藩閥の体制統合機能には非常に大きな弱点がありました。藩閥は分権的な体制の一つの分肢であるところの衆議院をどうしても掌握することができなかったのです。(略)
藩閥はそもそも反政党を標榜し、自ら政党たることを拒否した以上、選挙には勝てず、どうしても衆議院を支配することができないのです。衆議院を支配することができなければ、予算も通すことができないし、法律も成立させることができない。
(略)
 それでは、衆議院を支配する政党の方はどうかというと、これも克服し難い弱点を持っていました。つまり、明治憲法下では衆議院の多数というのほ、それだけでは権力の獲得を保障しなかったからです。(略)この現実を藩閥と政党の双方が認識した結果、双方からそれぞれの限界を打破するために相互接近が試みられます。これが大体、日清戦争後あたりから始まるのです。
 この藩閥と政党双方の相互接近の過程で、まず藩閥の組織の希薄化が進みます。要するに藩閥の組織の母体は旧藩ですから、これは時の経過とともに消滅していく。そして最終的に藩閥はその母体を失って政党化せざるをえなくなります。
(略)
このようにして貴衆両院が対峙する明治憲法下の議会制の中から、事実として複数政党制が出現したのです。
 これに伴って、藩閥が担ってきた体制統合の役割は漸次政党に移行していきます。。その意味で政党は藩閥化し、また藩閥は政党化する。いいかえれば、政党が幕府的存在化する。これが日本における政党制の成立の意味でした。

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