〈階級〉の日本近代史 政治的平等と社会的不平等

はじめに

[戦後改革で]日本の左翼とリベラルは、「社会改革」という目標を見失ってしまった。
 彼は、「平和」と「自由」の擁護には熱心であった。(略)
 保守ではなく、左翼やリベラルが「国民の生活」に関心を持っていたならば、それは「平和」や「自由」と並んで「平等」の重視として表現されていたであろう。今日の言葉でいう「格差是正」である。(略)
 戦後改革と平和憲法のおかげで、「平和と自由」は守るだけでよかった。しかし、「平等」の方は、攻めが必要であった。戦後改革で貧農と労働者が解放されたとはいえ、それから今日までの約70年の間に、金持ちと貧乏人の間には新たな「格差」がたえず生まれてきた。新たな「格差」の是正に、「革新」の側はたえず努める必要があったのである。「平和と自由」という守りの二点セットだけでは不十分で、攻めの部分も含んだ「平和と自由と平等」の三点セットが必要だったのである。
 近年における「護憲」勢力の衰退は、「平和」だけではいつまでも国民を惹きつけられないことを示し、最近年における特定秘密保護法への反対運動の低調さは、「自由」だけでは国民の支持を拡大できないことを示した。
(略)
政党政治の下では選挙権を与えられただけの小作農が、1937年7月の日中戦争の勃発にはじまり、1945年8月の敗戦まで続く総力戦体制の下で、次第に副業が不要になり、ついには自作農になったのである。政党政治の下では政治的民主化しか与えられなかった小作農が総力戦体制の下で社会的民主化の恩恵に浴したのである。
 言うまでもなく、日中戦争と太平洋戦争の日本の内と外での犠牲を考えれば、その戦時体制の下で小作農が解放されたことを素直に喜ぶわけにはいかない。しかし、立憲政友会や立憲民政党、なかでも「平和と自由」を高唱してきた民政党が、戦時体制がはじまる1937年以前に、何故に小作農の解放に努めなかったのかは、今日のわれわれにも切実な疑問である。
 「護憲(平和)」と「言論の自由の擁護」だけが民主主義の課題だと思い込んできた「戦後民主主義」は、いま崩壊の寸前にある。しかし、戦前日本では、「民主主義」は実際に崩壊した。その最大の原因が、「平和と自由」だけで満足して「平等」という民主主義のもう一つの要素を無視した民主主義陣営の偏向にあったことは、先に紹介した戦時体制下における小作農の解放という一事によって示唆されている。
(略)

保守党の反軍国主義 

 一九二〇年二月に、普通選挙法案に反対して議会を解散し、五月の総選挙で交通・通信の拡充(公共事業の拡充)を武器に圧勝した原敬の政友会は、戦後の自由民主党の原型ともいうべき保守政党であった。その保守政党の一党支配が、一九二五年五月の男子普通選拳法の成立によって終焉を迎えることが本節の主題である。しかし、原敬高橋是清が率いたこの保守政党は、近年の自民党とは大きく異なり
[対外政策は協調的で反軍国主義](略)
 首相就任時から原敬は、第一次大戦後の世界ではイギリスやフランスやロシアなどの旧式の帝国主義から、アメリカを中心とする「アフター・インペリアリズム」ともいうべき世界に変わると考えていた(三谷太一郎『日本政党政治の形成』、入江昭『日本の外交』)。また彼は、参謀本部や海軍軍令部が内閣を飛び越えて直接に天皇と結びつく、いわゆる統帥権の独立についても、否定的な考えを持っていた。
(略)
高橋是清参謀本部批判は、もっと強烈であった。彼は大蔵大臣在任中の一九二〇年九月に『内外国策私見』と題する小冊子を作り、そのなかで次のように論じている。
 「我国の制度として最も軍国主義なりとの印象を外国人に与ふるものは陸軍の参謀本部なり。(略)軍事上の機関が内閣と離れ行政官たる陸軍大臣にも属せず全然一国の政治圏外に特立して独立不羈の地位を占め、啻[ただ]に軍事上のみならず外交上に於ても経済上に於ても動[やや]もすれば特殊の機関たらんとす。(略)外は列国の誤解を招き、内は他の機関と扞格を来たすとせば寧ろ之を廃止して陸軍の行政を統一し外交上の刷新を期するに如かず」
 「内外国策」のうち「内」が参謀本部廃止論であったとすれば、「外」は対中国二一ヵ条の廃止であり
(略)
今日に至る迄欧米諸国に於て我国は火事場泥棒を働く軍国主義者なりと誤解せられ、支那に於ては依然日貨排斥の声を絶たず、唇歯輔車の両国が殆んど犬猿啻ならざる怨恨を生ずるに至りしもの、職として之れに存せずんば非ず。(略)今日の儘に放任せば、日支の関係は益々疎隔して到底円滑の道なく、英米諸国は動もすれば猜疑の眼を以て我を嫉視し、他日の禍害愈大ならんとす。是れ一大英断の必要なる所以なり」
 原敬高橋是清の「積極政策」は戦後の自由民主党によっても踏襲されてきた。そして二〇一三年のアベノミクスの登場以降は、原よりも高橋の方が同党内の人気を集めている。しかし、その高橋は、同時に反軍国主義で反侵略主義でもあったのである。

軍部の地位の引き下げ

政界の三つ巴状況に第四の勢力が登場してきた。軍部である。
 明治維新以来、陸海軍は強大な政治勢力であり続けてきた。しかし、それは生まれながらの支配エリートの一翼としてであり、政友会や民政党や、ましてや社会民主主義勢力と競合する存在になり下がるとは、想像もしなかったに違いない。山県有朋桂太郎寺内正毅田中義一らを想起すれば、このことは自ら明らかになろう。桂や田中はたしかに「超然主義」を離脱して政党総裁となったけれど、政党の支配下に入ったわけではなかった。
(略)
公然と軍国主義批判を展開した美濃部達吉と、それに激しく反発して五・一五事件を準備した海軍中尉藤井斉については、再述しておきたい。それは海軍青年将校が、支配エリートとしてではなく、反体制エリートとして政治勢力化したことを示すものだからである。(略)
美濃部は浜口内閣が海軍軍令部の抵抗を押し切って軍縮条約に調印した直後に、総合雑誌『改造』誌上に、「我が国法に於ける軍部と政府との関係」と題する論文を発表した。(略)
[それまでの軍縮条約調印は]「統帥権の干犯」には当たらないという主張から一歩踏み出して、陸海軍大臣の「文官制」の必要を提唱した。この論文で彼は、むしろ従来の解釈改憲(「兵力量」の決定権は明治憲法第一二条によって内閣に与えられており、軍の作戦や用兵にかかわる第一一条の「統帥権」とは別物であるという解釈)の弱さに気づいている。
(略)
 明治末年(一九一二年)の『憲法講話』以来唱え続けてきた明治憲法の解釈、第一一条の統帥権と第一二条の編制権の相違の強調を、ここでは美濃部自ら、「理論上」の議論にすぎず「実際上」には役に立たない、と断じているのである。
 そして「実際上」に役立つ制度改革として美濃部がこの論文で提唱したのが、「軍部大臣の武官制を撤廃する」ことであった。(略)
[1913年の改正で予備役の将官でも任用可能になっていたが]
美濃部がこの論文を書いた一九三〇年までに、陸海軍大臣が現役の大将、中将以外から選ばれたことは、一度もなかった。美濃部はそれを一挙に改正して、現役でも退役の将官でもなく、普通の文官でも陸海軍大臣になれるようにすることを、提言しているのである。
 ここまでくれば、事はもはや軍縮条約による軍艦の数が日本の国防に十分か否かの問題を超え、政党内閣が陸海軍を完全な支配下に置けるか否かの問題になってくる。支配エリートとしての軍部の地位の引き下げを、美濃部は迫っているのである。
(略)
 浜口首相をはじめ、民政党内閣の閣僚は海軍軍縮の調印から批准にかけて、憲法解釈論争に巻き込まれるのを慎重に避けていた。浜口は「其の〔軍縮条約の〕決定に関し憲法第何条に因つたかと云ふ如き憲法上の学究的論議は、銘々の研究に委すべきもので吾々に其の暇はない」という態度を貫いていた。
 しかし、四月から六月にかけて新聞や総合雑誌に掲載された美濃部の憲法学からする条約調印の擁護を読んだ部外者たちは、美濃部の主張が浜口内閣のホンネだと思ったに違いない。自由主義的な政党内閣の狙いは、明治・大正の両時代に続いてきた陸海軍の支配エリートとしての地位の引き下げにあると、海軍青年将校たちは判断し[危機感を抱いた]

統帥権の干犯」

 関東軍は満鉄沿線の守備のために駐留する現地軍であるから、その作戦用兵(「統帥」)に介入できるのは参謀総長だけである。「日本政府」が「満州の日本軍司令官」に直接命令することは、憲法第一一条の「統帥権の独立」を犯すことになる。先に紹介した憲法学者美濃部達吉に頼んでも、幣原外相の処置は守ってはくれなかったろう。
 しかし、金谷範三参謀総長は、あえてこの禁を破って、「外務大臣ニ対シ、今直ニ錦州ヲ攻撃スル意志ナシ」と確約している。この確約が幣原外相から駐日アメリカ大使に伝えられ、アメリカ大使がアメリ国務長官に報告するところまでは、金谷にとっても想定内のことであったろう。しかし、それがアメリカの国務長官によって、事もあろうに記者会見の場で公表されてしまっては、金谷や幣原の立場は完全になくなってしまう。日本陸軍の「統帥権の独立」は、外務大臣によって無視され、その「作戦用兵」がアメリカ政府によって世界中に報じられてしまったからである。幣原外交の崩壊である。
 井上財政に統いて幣原外交も崩壊した民政党内閣は、一九三一年一二月に総辞職した。(略)
[後を受けたのは]保守政党と陸軍の連立内閣であった。(略)陸軍青年将校(「下級武士」)の信望の厚い荒木貞夫中将を陸相にして軍部を統制するという犬養政友会内閣の構想は、幕末の「公武合体」に似たものである。政友会内閣が議会を解散し、デフレ脱却を訴えて圧勝すれば、それは幕末の雄藩連合以上の正統性を得られる。(略)青年将校が、テロやクー・デターを避けて犬養内閣を支持すれば、幕末のように「尊王攘夷」に振り廻されることなしに軍備拡張に専念できる。「公武合体」による「富国強兵」の実現である。(略)
[しかし]海軍青年将校を中心とする急進派は「公武合体」運動を承知しながら、幕末の長州藩のような「尊王攘夷」路線に突き進んでいった。
(略)
[自由主義政党がデフレをもたらし、脱デフレを訴えた与党政友会に、労働者や小作農の大半が投票し、選挙は圧勝。要職についた陸軍革新派上層部は陸軍青年将校にクーデターを思いとどまらせたが、青年将校たちは、平沼騏一郎に内閣を作らせ、それを軍部圧力で辞職させ「陸軍独裁」を樹立させようとした。それはほぼ同時進行だったヒトラー内閣成立を想起させる]

五・一五事件

一九二五年の男子普通選挙制の導入は、地主・小作関係や資本・労働関係の社会的不平等を温存したままで政治的平等だけを与えたものであった。しかし、五・一五事件が総選挙で圧勝したばかりの政党内閣を倒したことによって、「政治的平等」自体が事実上機能不全に陥ってしまった。総選挙の可能性だけではなく、その意味も失われてしまったのである。
 理屈の上では、政友会の新総裁に組閣を命ずることは、天皇と元老西園寺公望には可能であった。(略)
 しかし、それでは海軍青年将校陸軍士官学校生をいわば見殺しにした陸軍青年将校の立場がなくなる。彼らが五・一五事件に参加しなかったのは、「筋を通し犠牲を少くしてやる」ためであった。(略)政友会の政党内閣を存続させた場合には、陸軍青年将校を抑えきれなかったであろう。荒木貞夫陸相は元老西園寺を訪問して、「やはり政党内閣では困る」と述べている。(略)
 しかし、永田鉄山の言う「挙国一致」内閣の首相に、北一輝の考えていた「ブル・ファッショ](文民ファッショ)の平沼騏一郎枢密院副議長を持ってくることには、天皇が否定的態度を明らかにしていた。
(略)
「挙国一致内閣」では、普通選挙制により選挙権を得た1200万人の国民の意向の表出する回路がない。(略)
しかし、極端な独裁体制でないかぎり、民意の表出なしに四年間も国家を統治することは不可能である。しかも天皇は挙国一致内閣の成立に際して、元老西園寺に、「憲法は擁護せざるべからず。然らざれば明治天皇に相済まず」と伝えているから、極端な独裁体制は選択肢にはならない。

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