日本の近代とは何であったか 教育勅語成立過程

 

第4章の「教育勅語」成立過程が面白かったので順番を飛ばして先に。

「神」の不在で天皇の神格化

 伊藤博文は一八八八年五月、枢密院における憲法案の審議の開始にあたって、憲法制定の大前提は「我国の機軸」を確定することにあることを指摘し、「ヨーロッパには宗教なる者ありてこれが機軸を為し、深く人心に浸潤して人心此に帰一」している事実に注意を促しています。(略)
 このような問題意識を伊藤が持つようになったのは[訪欧して教えを受けた](略)プロイセン公法学者ルドルフ・フォン・グナイストの勧告によるところが大きい
(略)
[『グナイスト氏談話』]の中に国家体制の基礎としての宗教の役割の重要性が次のように強調されているのです。
人間自由の社会を成さんとするには一の結付を為す者あるを要す……。即ち宗教なる者ありて、人々互に相愛し相保つの道を教へ以て人心を一致結合するものなかる可からざる所以なり。……宗教の内自由の人民に其の善く適当とすべきものを可成丈け保護し、民心を誘導し、寺院を起し、神戒を説教し、深く宗旨を人心に入らしむるに非れば、真に鞏固なる国を成すことを得ず。……兵の死を顧みずして国の為めに身を犠牲に供するも亦只此義に外ならざるなり。静に欧洲の内富強と称する国を見る可し。先づ寺院を興し、宗教を盛にせざるはなし。皆宗教に依て国を立つるものと知る可し。
こうした一般原則を前提として、グナイストは「日本は仏教を以て国教と為すべし」と勧告しました。そしてグナイストは日本がモデルとした一八五〇年のプロイセン王国憲法の中で、第一二条の「信教の自由」の規定は日本の憲法には入れず、改廃の容易な法律に入れるべきこと、さらに第一四条の「キリスト教は礼拝と関係する国家の制度の基礎とされる」という条文中の「キリスト教」を日本の場合には「仏教」と置き換えるべきことを説いたのです。
 しかし、日本の憲法起草責任者伊藤博文は、仏教を含めて既存の日本の宗教の中にはヨーロッパにおけるキリスト教の機能を果たしうるものを見出すことはできませんでした。伊藤によれば、我国にあっては宗教なるものの力が微弱であって、一つとして「国家の機軸」たるべきものがなかったのです。そこで伊藤は「我国にあつて機軸とすべきは独り皇室あるのみ」との断案を下します。「神」の不在が天皇の神格化をもたらしたのです。

憲法外で「神聖不可侵性」を体現するために「教育勅語

 しかし、憲法は本来伊藤博文らが予定していた天皇の超立憲君主的性格を明確になしえていませんでした。第三条の天皇の「神聖不可侵性」は、天皇の非行動性を前提としていました。それは、法解釈上は天皇は神聖である、故に行動しない、故に政治的法律的責任を負わない、という以上の積極的意味をもたなかったのです。つまり、第一条に規定する統治の主体としての天皇と、第三条の天皇の「神聖不可侵性」とは、法論理的には両立しなかったのです。そこで憲法ではなく、憲法外で「神聖不可侵性」を体現する天皇の超立憲君主的性格を積極的に明示したのが「教育勅語」だったのです。「教育勅語」は、伊藤が天皇を単なる立憲君主に止めず、半宗教的絶対者の役割を果たすべき「国家の機軸」に据えたことの論理必然的帰結でした。
 以下の「教育勅語」成立過程に関する歴史的事実は、教育学者海後宗臣の古典的名著『教育勅語成立史の研究』に全面的に依拠しました。(略)
教育勅語」の起点となったのは(略)天皇の名において国民教育の方針を明らかにした文書[「教学聖旨」]
(略)
教育の第一目的は、「仁義忠孝」を明らかにすることにあり(略)そのような道徳主義的教育思想の源泉は、天皇の祖先の教訓である「祖訓」と、我が国の古典である「国典」に求められます。これこそが「教育勅語」の公理と論理です。
(略)
 ところが、このような「教学聖旨」の思想が直ちに「教育勅語」に連なったわけではありませんでした。というのは、一八七九年当時、政府内部にはこれに対して有力な反対があったからです。(略)
井上毅によって起草され、伊藤の名において天皇に呈出された「教育議」(略)は社会における「風俗ノ弊」は認めながらも、これを是正するために、維新以来政府が進めてきた文明開化政策を変更し、「旧時の陋習」に復することがあってはならないとして、元田の「教育聖旨」の思想に反対したのです。
(略)
宮中の天皇側近勢力と政府の官僚勢力との政治的対立(略)が続いている限り、日本臣民全体を対象とする道徳に関する唯一絶対の意思形成を天皇の名において行うことは、きわめて困難でした。
(略)
[ところが]一八九〇年二月の地方長官(府県知事)会議では、地方の民心をいかに統一し把握するかが問題となり(略)
文部大臣に対して、「徳育涵養の義に付建議」を提出するにいたったのです。「教育勅語渙発は、これを契機として急速に具体化するのでした。
 このように当時の地方長官たちが「徳育涵養」の必要を痛感した理由について、建議は「現行の学制に依れば、智育を主として専ら芸術智識のみを進むることを勉め、徳育の一点に於ては全く欠くる所あるが如し」としています。そしてその結果、学童生徒の秩序意識が弱まり、反秩序意識が強まっているとします。
(略)
閣議では学童生徒のために一篇の「箴言」を与え、これを日夜誦読させ、心に銘記させる措置を施すべきことを決定しました。そして天皇から文部大臣に対して「箴言」の編纂が命じられました。(略)こうして芳川文相就任を契機として「教育勅語」の起草作業が始まるのです。

教科書でみる近現代日本の教育

教科書でみる近現代日本の教育

「神」や「天」から「皇祖皇宗」へ

[中村正直による草案は]井上毅の激烈な批判を浴びて廃案となります。(略)井上毅の批判の要点はどこにあったのでしょうか。(略)
中村案が道徳の本源を「天」や「神」に求め、人間の「固有の性」から生ずる「敬天敬神」の心の表われが忠孝や仁愛信義の道徳であるとしているのを批判したものです。つまり井上が求めたものは、宗教教育から峻別された道徳教育であり、中村のいう「モーラルレリヂヲスヱヂュケーション」(「修身及び敬神の教育」)ではなかったのです。井上は中村が試みたように、勅語において道徳の宗教的基礎づけを行うことは、勅語を宗教的対立に巻きこむ恐れがあるとして、これに反対したのです。
 また井上は同じような論拠から、中村案に見られる道徳の哲学的基礎づけにも反対します。(略)
[山路愛山は]中村正直の思想的立場について、「キリスト教化された儒教主義」と呼んでいます。中村案の中で使われている「天」と「神」の概念においてはキリスト教の「神」と朱子学の「天」とが同一化され、二重写しになっているのです。(略)
 井上が反対したのは、中村案における朱子学キリスト教とが一体化した道徳の宗教的哲学的基礎づけであり(略)
ここから当然に要請されるのは、いうまでもなく勅語の宗教性と哲学性の徹底した希薄化であり、いいかえれば宗教的哲学的中立性です。井上が中村の後を継いで勅語の起草者として最も腐心するのはこの点でした。
 井上の中村案に対する批判の第二は、政治的状況判断の混入を排除する主張です。(略)
中村案が国際政治の現実に触れて、それを想起させながら、国力を強化するために「国民の品行」を正すべきことを説いている個所を批判したものと思われます。井上は、このような政治的状況判断の混入は、勅語を世俗化し、その神聖性を剥奪する恐れがあると考えたのです。したがってこのような考え方から当然に出てくるのは、この勅語国務大臣の輔弼による政治上の勅令や勅語と異なり、あくまで天皇自身の意思の表明という形をとらなければならないという要請です。
(略)
それは直ちに勅語の文体や叙述に反映しなければなりません。井上はこの観点から、勅語にはつとめて「……すべし」という積極的表現を用い、「……すべからず」という消極的表現は避けるべきであるとします。
(略)
道徳の本源は中村案における「神」や「天」のような絶対的超越者ではなく、皇祖皇宗、すなわち現実の君主の祖先であるという意味では相対的な、しかし非地上的存在という意味では超越的な、いわば相対的超越者に移りました。
(略)
道徳は「皇祖皇宗」の「遺訓」として意味づけられます。そして現実の天皇は、いわば「先王の道」の祖述者たる孔子のごとき位置づけを与えられるのです。

教育勅語立憲主義

憲法に拘束される立憲君主としての天皇は、「教育勅語」に体現される道徳の立法者としての天皇と両立しうるのか、という問題です。
(略)
 果たして井上は、立憲主義との関係において、教育勅語の性格規定には慎重な考慮を払っています。(略)
教育勅語天皇の政治上の命令と区別し、社会に対する天皇の著作の公表とみなしたのであります。
(略)
井上は発布の形式として、政治上の命令から区別する考え方から、国務大臣の副署を要しないものとしました。(略)
それによって立憲君主制の原則によって拘束されない絶対的規範として定着するにいたったのです。
(略)
こうして教育勅語立憲君主制の原則との衝突を回避しながら、政治的国家としての明治国家の背後に道徳共同体としての明治国家を現出させるのです。
(略)
一般国民に対して圧倒的影響力をもったのは憲法ではなく教育勅語であり、立憲君主としての天皇ではなく、道徳の立法者としての天皇でした。「国体」観念は憲法ではなく、勅語によって(あるいはそれを通して)培養されました。教育勅語は日本の近代における一般国民の公共的価値体系を表現している「市民宗教」の要約であったといってよいでしょう。
(略)
 これに対して、憲法は大学教育の前段階ではほとんど教えられることはありませんでした。(略)多数の国民に対しては、政治教育はなかったといってもいいすぎではありません。(略)
 大学で憲法の講義を聴く者は、勅語との同一性よりも、異質性に強く印象づけられるものが少なくありませんでした。憲法立憲主義的で自由主義的な側面から受ける印象が強かったのです。逆に法解釈学的説明になじまない天皇に関する憲法条項(第一条〜第三条)については講義されないこともありました。したがって憲法は時として、立憲主義自由主義イデオロギー的根拠としての意味・機能をもったのです。
 たとえば丸山眞男は大学二年当時(略)[尾崎行雄が講演で]「われわれの私有財産は、天皇陛下といえども、法律によらずしては一指も触れさせたもうことはできない。これが大日本帝国憲法の主旨だ」と述べたことに「目からウロコが落ちる思いがしました」と語っています。
(略)
美濃部達吉は、敗戦後の憲法改正には消極的でしたが、その理由は大日本帝国憲法のもっている立憲主義的で自由主義的な側面を(略)天皇機関説事件の過程で政府によって禁止された憲法学説の復活によって将来拡充していく可能性への確信に由来していると思われます。
 逆に、一九三五年以降の昭和期の反体制運動(「国体明徴」を掲げる「革新」運動)を推進した諸勢力は、憲法立憲主義的で自由主義的な側面を支持する諸勢力を攻撃し、事実上の「憲法改正」を目指しました。日本の近代においては「教育勅語」は多数者の論理であり、憲法は少数者の論理だったのです。昭和戦前から戦中にかけての日本の政治は、こうした両者の原理的あるいは機能的矛盾によって引き起こされた亀裂が、国外の環境の変動と連動しながら、その不安定化を促進していったのです。

第2章に戻って。


グラントの忠告

[大統領退任後世界旅行に出たグラントは日本にも滞在し天皇と会見]
その際グラントが与えた忠告の一つが外債への非依存でした。(略)日本の[外債の]甚大ならざると聞き之を喜べり。……将来日本は決して再び外債を起すべからず」という忠告を与えたのです。
 こうしたグラントの外債に対する不信感は、彼が北軍を指揮した南北戦争の体験に由来していると思われます。英国が南軍を支持し、北軍側は戦費を外債によって調達することができず、内国債に依らざるをえませんでした。こうしたことから、グラントは外債を、その引受発行国(ないしその能力を有する国)による直接的ないし間接的内政干渉と不可分のものとしてとらえていたのではないかと考えられます。(略)
グラントはあえて日清間の戦争を想定し、そのような事態が両国の戦費調達のための外債発行を通じてヨーロッパ諸国の両国に対する内政干渉を誘発する危険を強調しています。
(略)
 グラントは訪日に先立って、清国において[皇帝の弟恭親王李鴻章の二人と会見](略)従来清国は琉球保護国とし、琉球国王朝貢を受け入れて来たわけですが、彼らは、そのような清国と琉球王国との伝統的な国際関係を日本が軍事力によって葬り去ったとして、清国と日本との間で戦争に発展しうる危険性をグラントに訴えたのです。
(略)
 グラントが明治天皇との会見で外債への非依存の必要を強調したのは、それが日清非戦論と結びついていたからです。以後グラントの忠告は、明治天皇の政治的信条となりました。後年明治天皇が日清開戦に消極的であり、また日清戦争後の財政の方針として外債への非依存を貫くよう侍従長を通じて当時の松方蔵相に指示を与えたのも、15年前のグラントの忠告に基づく明治天皇の政治的信条から出たものだったのです。
 ところで、明治政府が沖縄を含む日本の領土観念を義務教育を通して国民に定着させようとする試みが、「琉球処分」(そしてグラント訪日)の翌々年、1881年11月に発行された文部省教科書『小学唱歌集初編』所収の「蛍の光」の四番の冒頭の歌詞に見られます。「千島のおくも、おきなわも、やしまのうちのまもりなり」というものです。(略)
 ちなみに、この歌詞は当初「千島のおくも、おきなわも、やしまのそとのまもりなり」となっていたといわれます。

国際金融家・井上準之助

経済的ナショナリズムの体現ともいうべき日清戦争前の非外債政策を基本前提とする自立的資本主義は、日清戦争後日本が非外債政策を放棄することによって一変します。それを可能にしたのは、条約改正による関税収入の増大と戦争の償金による金本位制の確立に伴って外資導入を有利にする条件が整えられたことです。いいかえれば、不平等条約からの部分的離脱と日清戦争の戦勝とが日本の経済的な対外信用の増大をもたらしたのです。
(略)
[日露戦争開戦で戦費調達のための外債発行方針が決定され、高橋是清が募債交渉と契約締結のために、ニューヨークとロンドンに派遣。外債依存増大は]
高橋是清をはじめとする国際金融家を登場させました。(略)高橋は大久保利通が先導した不平等条約下の自立的資本主義の胎内で育てられた経済専門家であり(略)資本の国際的な自由移動に積極的な自由貿易論者であるというよりも、それに対して消極的な保護貿易論者であり、外債についても本来は否定的でした。
(略)
日露戦争日本銀行の内部から高橋に嘱目されながら、国際金融家として台頭したのが井上準之助でした。一九〇八年高橋は当時営業局長であった井上を通常の順序にしたがって理事に昇任させず、あえてニューヨーク駐在日銀監督役に転出させます。高橋が後年回顧して語っているところによれば、この異例の人事は井上を抜擢し、日銀内部から国際金融家を養成するための人事でした。これは当時も後年も「左遷」人事と見なされ、井上自身も理事昇任を留保されたこの人事に不満でしたが、井上に与えられたニューヨーク勤務が少なくとも結果として国際金融家としての井上の前途を開いたことは疑いないでしょう。
(略)
高橋が第一次大戦後の対外金融の第一線から後退していったのに対して、モルガン商会、特にその中心的リーダーであるT・W・ラモントの信頼と支持に依りながら、日本の対外金融のリーダーの地位に就いたのが井上でした。
(略)
一九二七年に金融恐慌後の日本の経済状況を視察するために再び来日したらラモントは、満鉄社債発行計画と日本の金融情勢についての井上の見解を本国へ紹介した電文の中で、それを極めて信頼に値するものと評価し、こう述べています。「井上はノーマン[イングランド銀行総裁]、ストロング[ニューヨーク連邦準備銀行総裁]や我々すべて[モルガン商会共同出資者]と同じ金融語を話す。私は彼がまっすぐな線から外れたのを見たことがない。」(略)
井上はまさにストロングやノーマンによって指導される「帝国」の価値体系を共有していたのであり、それが国際金融家としての井上の信用の基礎でした。

なぜ「非公式帝国」にならなかったか

なぜ、欧米諸国に倣って「自由貿易帝国主義」による「非公式帝国」の拡大を目指さずに、より大きなコストを要する軍事力への依存度の高い「公式帝国」の道を歩んだのでしょうか。
 それには二つの理由が考えられます。一つの理由は[国際社会のメンバーではなかった](略)
「非公式帝国」とは、最恵国条款、つまり一国が貿易相手国に対して有する通商上の権利を他国もまた享受するという条約上の条項によって、不平等条約のもたらす経済的利益を共有する欧米諸国の「集団非公式帝国」でした。日本は未だそのアウトサイダーにとどまっていたのです。(略)
[日露戦争後一等国として認知されたが、欧米諸国と大使の交換が行われたのは1934年]
不平等条約国際法的な武器とする「自由貿易帝国主義」は、国際社会の実質的メンバーである一等国にのみ許容される植民地帝国の拡大戦略だったのです。
 日本が「自由貿易帝国主義」による「非公式帝国」の拡大よりも、現実の植民地領有を優先したもう一つの理由は、日本の植民地帝国構想が経済的利益関心よりも軍事的安全保障関心から発したもので、日本本国の国境線の安全確保への関心と不可分であったということです。ヨーロッパの植民地が本国とは隣接しない遠隔地に作られたのに対して、植民地帝国日本の膨張は、本国の国境線に直接する南方および北方地域への空間的拡大として行われました。いいかえれば、日本の場合にはナショナリズムの発展が帝国主義と結びつき、しかもそのことが欧米諸国とは異なる日本の植民地帝国の特性をもたらしたと見ることができます。

帝国主義」に代わる「地域主義」の台頭

 一九二〇年代の日本は基本方針として普遍主義的国際主義、いいかえれば欧米先進国によって主導されるグローバリズムを採りました。(略)政治的には軍縮条約であり、経済的には金本位制でした。(略)
[1930年金解禁で金本位制に復帰し、ロンドン海軍軍縮条約を成立]
それらは一九二〇年代の日本を方向づけたグローバリズムの到達点でした。
 ところが、わずか一年で日本および世界は一変します。一九三一年をもって日本と世界にとっての第一次大戦の「戦後」は終わるのです。そして一九三一年から日本の軍部によって引き起こされた国際環境の変動に伴って、従来日本においては傍流ないし底流に止まっていた「地域主義」が、外国の事例をモデルとしながら、俄然時代の本流に転ずることになります。
(略)
「地域主義」は、日本の国際連盟脱退によって、東アジアにおいてはグローバリズムが現実的な基礎を失ったという見解に基づいていました。同時に(略)「民族主義」を超える新しい国際秩序の原理と見なされました。
(略)
中国民族主義に対抗して日満間の特殊な関係を正当化するには、「民族主義」ではなく、「民族主義」を超える「地域主義」の原理を対置する必要があったのです。しかも第三に、国際連盟脱退後の国際的孤立化を恐れていた当時の日本は、国際連盟に代わる何らかの国際機関を必要としていました。グローバルな国際組織に代わる地域的国際組織の中に日本の生きる砦を見出そうというのが、「地域主義」を導入する当初の根本動機だったのです。
 当時の「地域主義」の有力なモデルの一つは、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの「汎ヨーロッパ主義」でした。(略)
カレルギー自身も当時、「汎ヨーロッパ主義」モデルのアジアヘの適用可能性を認めています。(略)論文「日本のモンロー主義」において、日本の「東亜モンロー主義」はアメリカおよび大英帝国のそれぞれの先例に続く「第三のモンロー主義」であり、汎ヨーロッパ主義とも完全に両立すると述べているのです。そしてこの論文は、国際連盟が米国および英国の「モンロー主義」を認めているように、アジアおよびヨーロッパの「モンロー主義」を認め、国際連盟の地域主義的再編成を図るべきであると主張しています。
(略)
日中戦争が勃発し(略)「地域主義」は「東亜新秩序」を基礎付ける原理となりました。(略)
日中戦争前において、国際連盟を中心とする従来の国際法秩序の修正原理ないし補完原理として唱えられた「地域主義」は、日中戦争勃発後は、もはやそのような例外的局地的な秩序原理に止まらず、それ自体世界的一般的な秩序原理と見なされるにいたったのです。
(略)
[太平洋戦争後]
日本は、もはや独自の「地域主義」をもちませんでした。
 しかしそのことは、敗戦後の日本がいかなる「地域主義」とも無関係であったことを意味するものではありません。
(略)
 米国が冷戦戦略の一環として課そうとした戦後アジアの「地域主義」は、その防共イデオロギーと日本を中心とする「垂直的国際分業」構想とにおいて、かつての日本が課した「地域主義」――「大東亜新秩序」・「大東亜共栄圈」――を連想させるものでした。(略)
米国の冷戦戦略に組み込まれたことによって、日本がかつて東アジアや東南アジアに広がる植民地帝国であった歴史的事実を意識下の海底に放置することになったのです。そのことが冷戦後、日本を改めて「脱植民地帝国化」の課題に直面させることとなったと考えます。