パイドパイパー・デイズ その2 長門芳郎

前回の続き。

PIED PIPER DAYS パイドパイパー・デイズ 私的音楽回想録1972-1989

PIED PIPER DAYS パイドパイパー・デイズ 私的音楽回想録1972-1989

  • 作者:長門 芳郎
  • 発売日: 2016/07/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

店頭での出来事

 80年代半ばの秋だったと思うが、閉店間際に山下くんが勢いよく飛び込んできて、
「生まれたよ!女の子」
とひと言だけ言って、すぐに外に出ていったことがあって、僕もひと言
「おめでとう!」
と返したのを憶えている。

来店した海外アーティスト

エルヴィス・コステロが再来日したときにパイドパイパーハウスを訪れ、店でかけていたヴァン・ダイク・パークスの「Discover America」に耳を止め、イタリア版の廃盤カセット・テープを買っていったのも印象深い出来事だった。その翌年だったか、彼がマネージャーとやっていたレーベル、ディーモン傘下のエドセルからヴァン・ダイク・パークスのワーナー時代のカタログがまとめて再発されたのは、きっとそのカセットがきっかけになったのではと勝手に思っている。このときは一緒にエヴァリー・ブラザーズの再発盤とマーシャ・ポールの新譜も買って帰った。
 ライ・クーダーとデヴィッド・リンドレーが別々にやってきて、店のなかで鉢合わせするなんてこともあった。リンドレーはアトランティック・ソウルの日本独自の復刻盤をまとめて買っていって、そのなかの曲を次のアルバムでカヴァーしていたから、そのときに買ったレコードがきっかけになったのは間違いないと思う。
 突然「トイレを貸してください」と入ってきたのは、デヴィッド・シルヴィアンだった。きっとアニエスbで洋服を買った帰りだったのだろう。マンハッタン・トランスファーのティム・ハウザーも雑誌の取材時に店の話をしたら、青山の洋服屋さん巡りの前後に立ち寄ってくれた。彼に聞いた話で好きなのは、10代前半の少年時代、地元、ニュージャージーの劇場にロックンロール・ショーを観に行ったとき、ボヤ騒ぎがあって、そのどさくさに楽屋通路に紛れ込んだら、フランキー・ライモンに声をかけられ、彼らの楽屋で、本番前のウォーミングアップのためアカペラでハモるティーンエイジャーズを見たという話。この体験がきっかけになり、その後の自分の道が決まったと言っていた。(略)
 来日するたびに訪ねてくれたヘンリー・カイザーはとても気さくな人で、よくカウンター越しにカントリー・ジャズ系のギタリストのことを話した記憶がある。(略)
あるとき、喜納昌吉の「ハイサイおじさん」をかけていたら、興味を持ったみたいで「何て歌っているんだ?」
 と尋ねてきた。歌詞を全部ローマ字で書き出し、大意を添えたメモを後日渡すと、それから数ヵ月後、その曲のカヴァーが収録されたアルバムがサンフランシスコから送られてきた。
 それは彼がフレッド・フリス、リチャード・トンプソンキャプテン・ビーフハート・マジック・バンドのドランボことジョン・フレンチと組んだ、フレンチ・フリス・カイザー・トンプソンの『Live,Love,Larf&Loaf』というアルバムだった。「ハイサイおじさん」では歌とギターをトンプソン、ギターと三線をカイザーが弾いており、流暢な琉球語で歌われる見事な完コピ・カヴァーには驚いた。スペシャル・サンクスの欄にブライアン・ウィルソンと一緒に僕の名前が並んでいたのはうれしかった。

Live, Love, Larf & Loaf

Live, Love, Larf & Loaf

 

薬師丸ひろ子『シンシアリー・ユアーズ』

[選曲を担当したFM番組の打ち上げパーティの]
数日後、彼女がたったひとりでパイドパイパーハウスを訪ねてきたのだ。打ち上げのときに、今度レコードを買いに行きますねと言っていたので、ホントに来てくれたんだと思っていると、
 「ちょっとお時間いただけませんか?」
 と言われて、ドギマギしてしまった。
 近くのスパイラル・カフェに入って、終わってしまった番組のこと、パイドパイパーハウスのことなどを話していたが、突然、彼女が真剣な眼差しで僕を見て、
 「わたしの力になっていただけませんか?」
 と切り出した。
[立ち上げた個人事務所で音楽的ディレクションをして欲しいと言われ、快諾]
(略)
レコーディングには、彼女はだいたいいつもひとりでやってきた。これは意外だった。東京湾岸のスタジオテラでのレコーディングが夜中までかかったとき、帰りが同じ方向だということで、彼女が運転する車で僕の自宅まで送ってくれたこともあった。

ハース・マルティネス

 90年代初めにジョン・サイモンに出会ったとき、真っ先に聞いたのが、ハースの消息だった。サイモンに彼の連絡先を教えてもらって、電話をかけたとき、受話器の向こうから聞こえてきた声がレコードそのままのあのダミ声だったので「ホンモノだ!」と感激した。
 以来、やりとりが始まり、彼はたびたび新曲を収録したデモ・テープを送ってきてくれるようになった。気がつけば、僕の手元には彼のデモ・カセットが何十本もたまっていた。歌入りのものもあれば、ギター演奏だけのものもあった。
 そのころの彼はロサンゼルスに住んでいて、主に地元のジャズ・クラブやレストランで演奏活動を行なっていた。でも、それは僕らが知っているシンガー・ソングライター、ハース・マルティネスとしての活動ではなく、ジャズやラテン・バンドの一員としての演奏であったり、よく知られたスタンダード曲の弾き語りがほとんどだった。
 一度、彼の仕事場に同行したことがある。車にギターを積み、ダウンタウンエクセルシオール・カフェに行き、店の片隅でおもむろに演奏を始めたハース。ほとんどがジャズのスタンダード曲のギター・インストだった。彼は自分のことを常にジャズ・ギタリストだと言っていたが、そんな活動を続けながらもオリジナル曲を作ることを忘れていなかった。
(略)
[CM関連で作ったアルバムで彼のデモ曲を]
カヴァーすることが決定。ロサンゼルスでのレコーディングにはハースにもヴォーカルとギターで参加してもらった。
 そんな布石があり、新しいレーベルの立ち上げというタイミングで満を持してハースの新録アルバムを制作することになった。
(略)
 レコーディング中、ハースと僕は(略)ジョン・サイモンの家に泊めてもらった。ガース・ハドソンが参加するセッションの前日には、彼もサイモンの家に泊まり、居間でリハーサルをして、本番に備えた。
 翌朝、眠い目をこすって、階下の居間に下りていくと、3人はそれぞれ新聞を読んでいたり、ギターをつま弾いていたり、瞑想していたり。(略)サイモンの奥さんが用意してくれた朝食のテーブルには、僕が庭の菜園で朝摘みしたトマトも並んでいる。みんなで談笑しながら朝食を済ませ、昼前には4人でマンハッタンのスタジオヘと向かった。
 その日、レコーディングしたのは「All Things Possible」という曲。ガースのピアノ、ロン・カーターウッドベース、ハースのギターというメキシカン風味のゆったりしたバラードで、天使のようなハーモニー・ヴォーカルはジェニ・マルダー。ジェニはジェフとマリア・マルダーの娘で、ハースは彼女がまだ子供のころ、彼女のために「Jenni」という曲も書いたことがあったそうだ。日曜日は仕事をしないというロン・カーターだったが、旧知のハース、ジョン・サイモンのために駆けつけてくれた。
(略)
 日本だけでなく、本国アメリカでのリリースの可能性を探り、動いたが、残念ながら手を挙げるレーベルは出てこなかった。それでも『夢の旅人』を聴いたハースの古い友人でもあるリビー・タイタスが、パートナーのドナルド・フェイゲンに聴かせたところ、ドナルドからハースにラブコールがあり、ふたりの共作が実現するという予期せぬ展開もあった。

カート・ベッチャー

 カート・ベッチャーは87年に亡くなっているのだが、僕は80年に日本でインタヴューしたことがある。それもある偶然が引き寄せたものだった。
[エリック・カルメン80年日本]ツアー・メンバーのリストを見て驚いた。バックグラウンド・シンガーのなかにカート・ベッチャーの名前があったからだ。(略)
 プロモーターの了解を得て、カルメン一行が宿泊している白金の都ホテルを訪ね、ベッチャーヘのインタヴューを行なった。彼はまず、なぜ自分のことを知っているのかとても不思議がっていたが、ミレニウムの『Begin』は僕のフェイヴァリット・アルバムであり、『Pet Sounds』と並ぶ革新的作品だと思うと言うと、とてもうれしそうな表情を見せた。
 ミレニウムエレクトラのソロ・アルバムのジャケット写真で想像していた繊細なイメージとは違い、口ひげをたくわえ、小柄ながらもマッチョな雰囲気に少々驚いた。さらに60年前後の2年間、父親の仕事の関係で米海軍、岩国基地内に住み、日本の高校にも通っていたことがあるということも判明。

アルゾ

アルゾ

  • アーティスト:アルゾ
  • 発売日: 2015/07/29
  • メディア: CD

アルゾ・フロンテ

[消息をいろいろ探ったがわからず]
 もはや打つ手なしと思っていたところに、突然朗報が飛び込んできた。(略)
[山達ファンのサイトに掲載されたレビューを]
たまたま目にしたアルゾの友人が、
 「日本でお前のCDが出ているぞ」
 と本人に伝えたらしい。
 驚いたアルゾが[メールしてきた]
(略)
 僕はアルゾのアドレスを教えてもらい、自己紹介と、あなたをずっと探していたということを書き、
「怪しいものではないので、電話番号を教えてください」
 とメールを打った。
 すると、ほどなく返信があり、すぐに電話をかけた。受話器の向こうのアルゾは聴き馴染んだ歌声よりも低い声で、なぜ自分を探していたのか、自分の音楽がどんなふうに受け止められているのか、矢継ぎ早に聞いてきた。何より30年以上前の自分のアルバムを、日本人が知っているということに驚いていた。僕も初めて彼のアルバムを聴いたときのこと、日本の若者にも人気があり、影響を受けたミュージシャンが何人もいることや、僕自身の長年の思いの丈を伝えた。すると彼は何度も「ビューティフル」を繰り返し、気づけば1時間以上も話していた。(略)
 2003年2月、ニューヨーク州ロングアイランドに住む彼に会いにいった。
(略)
 彼の家を訪ねると、『Alzo』のアルバム・カヴァーで見慣れたガラス窓のあの部屋に通された。アルバム発売当時、寝室だったその部屋は彼の書斎兼ミュージック・ルームになっていた。音楽界を引退した彼は、アンティークの椅子を扱う“ヴィレッジ・チェアーズ”の主人として暮らしていた。時折バーで歌ったりすることもあったそうだが、彼の過去を知る友人たち以外、たまたま居合わせた客にとっては、単なる無名のミュージシャンの演奏だった。
 滞在した3日間の多くの時間を、僕らふたりはその部屋で過ごすことになった。彼はジャケット写真で抱えていた12弦ギターやエレクトリック・ピアノを弾きながら、僕のために演奏してくれた。それは“彼のことを知る”たったひとりの観客のために開いてくれたコンサートだった。(略)
 僕は、アルゾにローラ・ニーロの『Live In Japan』のCDをプレゼントした。彼はとても喜んで、アルゾ&ウディーンのころ、彼らを気に入ったローラがプロデュースしたいという話があったが、なぜか実現しなかったというエピソードを教えてくれた。
 ミュージシャンとしてのアルゾの人生は不運の連続だった。71年にアンペックス・レコードからリリースされたデビュー・アルバム『Lookin' For You』がレーベル閉鎖ですぐ廃盤になり、権利を買い取ったベル・レコードがジャケットとタイトルを変更して『Alzo』として再リリースしたが、そのベルもまもなく消滅。73年にファーストと同じくボブ・ドロウのプロデュースで録音したセカンド・アルバムはテスト・プレスのみで結局お蔵入りとなってしまった。75年にはA&Mから1枚のシングルが出ているが、不発に終わっている。彼は失意のまま、家具屋を生業として生きていくことを決めたのだった。
 それでも自分の才能を信じていた彼は、
 「いつか誰かが自分のことを見つけてくれると信じていた」
 「それが君だったんだ」
 と言ってくれた。
 彼と会ったのはそのとき一度だけで、ほんの数日間のことだったが、もう何年も前から友人だったような気がしていた。吹雪舞うポート・ジェファーソン駅での別れ際、いつまでも手を振ってくれた彼の姿は忘れられない。
 その後、BMGとアルゾの間で契約を交わし、2003年のクリスマスの日、ついに『Alzo』が世界初CD化され、日の目を見ることになった。サンプル盤がクリスマス・イヴに届き、彼は最高のクリスマス・プレゼントだと言って、とても喜んだ。
 ヴィレッジ・チェアーズのウインドウには、ジャケットと一緒に「Congrats To Me」(自分におめでとう)と書いた紙が貼り出された。僕はその写真を見て、目頭が熱くなった。彼にとって、『Alzo』の再発は僕たちが想像する以上に重要な出来事だったのだ。

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