パイドパイパー・デイズ 私的音楽回想録 長門芳郎

PIED PIPER DAYS パイドパイパー・デイズ 私的音楽回想録1972-1989

PIED PIPER DAYS パイドパイパー・デイズ 私的音楽回想録1972-1989

  • 作者:長門 芳郎
  • 発売日: 2016/07/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

ちぇるしぃ”

[ラヴィン・スプーンフルの]ファンクラブは東京の女子大生、石塚始子さんという方を中心に運営されていた。(略)
当時ラヴィン・スプーンフル同様、グラモフォンが後援していたビージーズのファンクラブがあり、大滝詠一さんもそこの会員だったそうだ。
 その縁で大滝さんが弾き語りで歌っていた店に、ビージーズラヴィン・スプーンフルのファンクラブの女の子たちが観にいくことがあったという。そのときジョニ・ミッチェルの「Chelsea Morning」を歌う大滝さんに“ちぇるしぃ”というあだ名をつけたのが、石塚さんたちだった。大滝さんに初めて会ったとき、僕が高校時代にラヴィン・スプーンフル・ファンクラブの会員だったことを伝えると「そうかそうか」と顔をほころばせ、
 「石塚さんにラヴィン・スプーンフルのレコードを借りたことがあったな」
と懐かしんでいたのを思い出す。

Chelsea Morning

Chelsea Morning

  • provided courtesy of iTunes

山下達郎シュガー・ベイブ

ビーチ・ボーイズやヤングブラッズがかかってるちょっと変わった店が四谷にできたんだよ」[とバンド仲間教えられてやってきた山下とは](略)
 カウンター越しの初対面だったが、お互い60年代ポップスが大好きということで、すぐに意気投合した。自主制作盤『Add Some Music To Your Day』を持ってきたのは、たしか2回目ぐらいだったと思う。(略)たったの100枚しか作っていないということだったが、ディスク・チャートで5枚ほど預かり、壁に飾って1500円で売ることにした。山下くんとは、ラヴィン・スプーンフルカマストラ・レーベルの話からトレイドウィンズやイノセンスの話をするうちに、彼のイノセンスと僕のソッピーズ・キャメルのLPを貸し借りする仲になっていった。
 そんなふうに交流が始まり、僕は練馬の山下くんの家にたびたび遊びに行くようになる。彼の実家はパン屋さんで、その2階に彼の部屋があった。はっきり憶えているのは、天井にベンチャーズと、ローラ・ニーロ初来日コンサートのポスターが貼ってあったこと。彼の部屋では、レコードを聴きながらお互いの好きなオールディーズの話をしたりした。そのときに聴かせてくれたのが、「黄色い部屋」というオリジナル曲(略)の弾き語りのデモ・テープ。ブライアン・ウィルソンが書くようなタイプのサーフ・バラード調の曲で、その甘い歌声に思わず聴き入った。『Add Some〜』はすべて洋楽カヴァーだったので、こんなに素敵なオリジナル曲を書ける才能もあるのかと、感心した。
(略)
リハーサルの帰り、電車のなかで山下くんが
 「マネージャーをやってくれないか?」
 と言ってきた。僕はふたつ返事で、
 「いいよ、やるよ」
 と返事をした。
 たぶん、そういうことだろうなと思っていた。バンド名はまだなく、次回のリハーサルまでの宿題になった。(略)
リハ当日を迎えた。成増に向かう電車のなかで、突然“シュガー・ベイブ”いう名前が閃いた。ミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画『砂丘』の砂漠のシーンで印象的に使われていたヤングブラッズの曲名だ。山下くんもヤングブラッズが好きだし、最後に“S”がついてないし、絶対にこれしかないと思った僕は、一刻も早くみんなに伝えたくて成増の駅の公衆電話から並木さんの家に電話した。
 するとター坊が、
「あら、バンド名ならもう決まっちゃったわよ」
と言う。(略)
シュガー・ベイブっていうの。山下くんが考えてきたんだけど」
 びっくりした。ふたりがまったく同じ名前を考えていたなんて。その後、マジカルな偶然に何度も遭遇していくことになる僕の人生の、最初の小さな奇跡だった。ほかにもラスカルズの曲名から取ったイージー・ローリンとか、フィフス・アヴェニュー・バンドにあやかった下赤塚5丁目バンドなども候補に挙がったという。

Sugar Babe

Sugar Babe

  • The Youngbloods
  • ロック
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

「DOWN TOWN」

 テイク・ワンが稼働するようになったころ、キングトーンズが15周年記念のアルバムを作るにあたり、若手のソングライターに曲をいくつか任せるという話が舞い込んできた。それで、山下くんと銀次が矢崎さんの事務所でデモ録音したのが「DOWN TOWN」だった。しかし結局、アルバムの企画自体が流れてしまう。
(略)
 レコーディングが始まった10月末、いざエレックのスタジオに行ってみると、天井は低いし、録音機材に差し押さえ予告書が貼ってあるし、嫌な予感がした。なんだか重苦しい雰囲気が漂うなか、最初にレコーディングしたのは新曲の「DOWN TOWN」。(略)[企画が流れ]シュガー・ベイブのレパートリーになったのだ。
 このときは野口のドラムがなかなか決まらなかった。ずっと叩き続けていた疲れもあり、ちょっとモタッてきたので、スタジオのなかに入って野口の前に立ち、僕がかぶっていたテンガロンハットをメトロノーム代わりに上下に振った。やっているうちに“野口がんばれ!”という熱い気持ちが湧き上がっていた。「DOWN TOWN」を聴くたびに、そのときの光景がつい昨日のことのように甦ってくる。

ティン・パン・アレー坂本龍一

74年の秋、ティン・パン・アレーがクラウン・レコードと契約したことから、ティン・パン・アレーの専従スタッフとして僕に慟いてほしいというオファーがあった。最初はシュガー・ベイブをやっているので無理だと断っていたが、それでもティン・パン・アレーでの仕事は勉強になるし、そこで広がった人脈はシュガー・ベイブをやっていくうえでもメリットなのはたしかだった。そこで思いついたのが、シュガー・ベイブティン・パン・アレーが合流して、新しいマネージメント形態でやっていくというアイディア。すでに音楽業界で地位を確立している日本最高のリズム・セクションと、最高のヴォーカリストを擁しコーラス・サウンドが売り物の新人バンドの組み合わせだ。
 思い切ってその構想を山下くんに話したが、彼の答えは「ノー」。僕にはシュガー・ベイブだけに集中してほしいという気持ちがあったのだと思う。(略)
山下くんたちにしてみれば、風都市での苦い経験もあり、小さい事務所だが自分たちの信頼の置けるテイク・ワンのスタッフとやっていきたいという気持ちが強かったのだろう。(略)
[結局]シュガー・ベイブのもとを去り、ティン・パン・アレーの仕事に専念することにした。苦渋の決断だった。(略)
 その決断が正しかったのかどうか、いまだにわからない。(略)シュガー・ベイブと一緒にいたら、バンドの未来は少しだけ違ったものになっていたかもしれない。当然、僕の未来も変わっていただろう。
 都内で仕事がないときは、ほとんど毎日荻窪ロフトに入り浸っていた。ライヴが終わったあとも深夜まで店にいて、そのまま平野さんの家に泊めてもらうこともたびたびだった。坂本龍一と出会ったのもそのころ。僕がブッキングを担当していた荻窪ロフトではなく、隣駅の西荻ロフトで友部正人のバックでピアノを弾いている姿を見たのが最初だった。けっして小綺麗とはいえない服装でヒッピー然とした風貌と、そこから繰り出されるハッとするような洗練されたフレーズとのギャップが印象的だったのを憶えている。
 後日、声をかけてきたのは、彼のほうからだった。閉店間際の荻窪ロフトに現われた彼は、予想外にフレンドリーな男だった。(略)
彼のインテリジェンスあふれるピアノ・プレイと気さくなキャラクターを気に入った僕は、山下くんに「面白いピアノ奏者がいるよ」と言って紹介した。その後、どういういきさつだったかよく憶えていないが、福生に連れて行き、大滝さんにも紹介することになる。

フィッシング・オン・サンデー

フィッシング・オン・サンデー

 

結婚式

 75年11月、細野さんは高田渡さんの『フィッシング・オン・サンデー』のプロデュースのため、渡米。僕のパスポートが間に合わず、同行できなかったのはつくづく残念だった。あのとき渡米していれば、ヴァン・ダイク・パークスにもっと早く会えていたはず。(略)
 翌76年の1月8日、僕は高校時代のガールフレンドと結婚。長崎の銀屋町教会で挙げた結婚式には、細野さんや山下くん、ター坊も来てくれた。披露宴では細野さんが「ろっかばいまいべいびい」を弾き語りで歌い、山下くんは落語を一席といって、たしか「湯屋番」をやってくれた。なぜか僕も歌う羽目になり、山下くんのギターを伴奏にシュガー・ベイブの「過ぎ去りし日々」を歌った。そして、結婚を機に上京してきた僕の奥さんは、開店間もないパイドパイパーハウスで働くことになった。

売り上げ

『バンド・ワゴン』(20697)、『トロピカル・ダンディー』(19111)、『キャラメル・ママ』(27356)――1976年4月というメモ書きが、当時の僕のノートに残っている。括弧のなかの数字は75年の発売から翌年4月までの売り上げ枚数だ。

小林旭

泰安洋行』の発売からほどなくして[細野プロデュースによる小林旭アルバムの企画が](略)
クラウンの応接室で行われた顔合わせには、小林旭さん本人も作詞家の星野哲郎さんと一緒にご登場。あのときの旭さんが放つスターのオーラは本当にすごかった。(略)
 古い曲としては「北帰行」「ギターを持った渡り鳥」「旭のダンチョネ節」「オロロン慕情」「さすらい」など、また沖縄民謡「安里屋ユンタ」が候補曲として挙がった。新曲の作家として、クラウン・サイドからは佐渡山豊三上寛武田鉄矢の名前が挙がり、こちらからは大滝さんや南正人の名前を挙げた。細野さんが真っ先に声をかけたのはもちろん大滝さん。大滝さんも小林旭の大ファンだったことから大ノリで早速書き下ろしたのが「元気でチャチャチャ(ホルモン小唄)」だった。
 細野さんとふたりで日活の試写室に半日こもって、『渡り鳥』シリーズを立て続けに何本も観てモチベーションを上げ、プロジェクトに臨んだ。秋からスタートしたリズム録り、ホーンのダビングも順調に進み、年内に終了、翌年1月にはストリングスのかぶせも終わり、あとは小林旭さんの歌入れを残すのみだった。
 が、ここで思いがけないことが起きる。2年も前に出したシングル「昔の名前で出ています」がじわじわと売れてきて、ついには200万枚の売り上げを記録する大ヒットになったのだ。そのため、細野さんプロデュースのアルバム企画自体がお蔵入りになってしまった。そんなわけで「チュンガを踊ろう」「ギターを持った渡り鳥」「さすらい」などのリアレンジ曲と細野さんが書き下ろした「テーマ」(インスト)、「キャプテン・マンボウ」、大滝さんの「元気でチャチャチャ(ホルモン小唄)」など、歌のないバックトラックだけが残された。

City Lights

City Lights

 
Tango Palace

Tango Palace

 

ドクター・ジョン

 ドクター・ジョンに会うということで、大ファンである細野さんから彼宛の手紙も預かった。手紙の前半は、自己紹介に続いて、自分の音楽に多大な影響を与えてくれたドクター・ジョンヘの敬意あふれる言葉が綴られていた。続けて、トミー・リプーマのプロデュースでスタッフらと制作したドクター・ジョンの新作『City Lights』は素晴らしい出来ではあるが、あまりに洗練されたニューヨーク・サウンドで本来のあなたらしくない、やはりあなたはニューオーリンズのミュージシャンと一緒にやるべきだ。日本にもニューオーリンズ・ファンクを理解し、演奏できるミュージシャンが揃っているので、日本に来て一緒にレコードを作りませんか?といった内容だった。
 僕もドクター・ジョンの新作については細野さんと同じ印象を持っていたが、この手紙をそのまま翻訳して渡していいものか迷った挙げ句、相当気を遣って英訳し、タイプした手紙を持参した。
 最初はその醸し出すオーラに圧倒され緊張したが、いざインタヴューが始まると、ニューオーリンズ音楽についての初歩的な質問にも丁寧に答えてくれ、さすが大物は違うなと思ったもの。このあとニューオーリンズに行くのだと伝えると、いろいろとアドバイスをしてくれた。
(略)
 翌日、A&Mのオフィスで別の取材を終え、目の前にあるサンセット大通りとラブレア通りの交差点を渡ろうとしていると「長門〜!」と呼ぶ声が。(略)
車の窓から細野さんが顔を出し、手を振っている。(略)YMOのデビュー・アルバムのミックスをするため、急濾ロスに来て、これからスタジオのあるキャピトル・タワーに行くところだ、と。
 しかし広いロスの交差点、ホンの数秒違っていたら、お互い気づかずにすれ違っていたはず。僕の人生のなかで、あんな奇跡のような出来事はあとにも先にもありませんと、最近、細野さんに話したら、当人はまったく憶えていなかった……。翌日、僕と桑本さんはキャピトル・スタジオに細野さんを訪ね、アル・シュミットのミックス作業を少しだけ見学させてもらった。
 この年、ホライズンから出たドクター・ジョンの新作『Tango Palace』に収められた「Renegade」という曲は、ロニー・バロンがマリンバを叩き、どことなくチャンキー風味。これは網野さんの手紙と一緒に渡した『泰安洋行』や細野さんがプロデュースしたロニーの『スマイル・オブ・ライフ』に影響を受けたのではないかと僕は思っている。
(略)
[ロスのYMO公演にはドクター・ジョンも来ていたが]
 「日本でニューオーリンズ・セッションをやりましょう」
 と手紙に書いていた細野さんが、いきなりテクノ・ポップを演奏しているからビックリしただろうことは想像に難くない。

Renegade

Renegade

  • Dr. John
  • ブルース
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

次回に続く。
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