謀叛の児: 宮崎滔天の「世界革命」・その2

前回の続き。

謀叛の児: 宮崎滔天の「世界革命」

謀叛の児: 宮崎滔天の「世界革命」

 

放浪時代の終わり

滔天の放浪時代の終わりは、思いがけぬかたちで訪れる。(略)
[1904年秋、寄席に]辮髪姿の中国人学生の姿が目立ち始めたのだ。彼らは一様に、滔天のひげ面を食い入るように見つめていた。彼らは『三十三年の夢』の愛読者であった。滔天が浪曲デビューの話題づくりとして書いたこの本は、いつの間にか海を渡り、翻訳され、中国の若者たちの胸を熱くさせていたのである。(略)
すぐに発禁となったが(略)孫文の思想と人物、行動を生き生きと伝える書物として、若者たちの間でひそかに広がっていったのだ。(略)[孫文の理想や、それを献身的に支える滔天の姿は]若い知識人たちを鼓舞した。留学生の雑誌は、滔天をフランクリンや西郷隆盛と並べて讃えていた。
 滔天が浪曲をうたい終わって楽屋に戻ると、留学生らは楽屋に押しかけて、本物の宮崎滔天に出会えたことに感激しながら、高揚した表情で革命への思いを口々に訴えるのであった。(略)
近代化のために西洋の学問を学習する機運が盛り上がる中、空前の日本留学ブームが起こったのである。
(略)
黄興との出合い以来、滔天の日々は忙しくなった。夜は引き続き浪曲をうなりつつ、昼間は留学生たちの相談に乗り、彼らのために奔走する。(略)
彼はもはや外務省の機密費という巨人の背に乗ろうとは思わなかったのはもちろん、中国服を買って自ら中国革命の英雄になろうとも考えなかった。中国革命の主体は中国人であり、日本人の自分はそれを支援するという関わり方しかありえないことを、ようやく理解したのである。そして、それこそが、中国革命−世界革命への自分の貢献のあり方だと思い定めたのだ。
(略)
滔天は十数年ぶりに家族と暮らすことを決めた。三十五歳になっていた。

三十三年の夢 (岩波文庫)

三十三年の夢 (岩波文庫)

排日運動の起源

日本において中国革命派が活動することは困難の連続だった。日本政府が清国政府の要請をそのまま受け入れてたびたび留学生の活動を弾圧したからである。(略)二度の大戦争に勝利した日本の一般市民が中国人留学生に向ける民族的蔑視が、弾圧を後押ししていた。
(略)
 留学生たちも、町では子どもにからかわれ、人力車夫に馬鹿にされた。そんな話を聞かされるたびに、滔天はやりきれなかった。だから彼は、「革命評論」の創刊号に「支那留学生に就いて」と題して、そんな日本社会への警告を書き付けずにはおれなかった。
 「我が日本の当局者、政治家、教員、商人、下宿屋主人、下女、スリ、窃盗、淫売婦諸君よ、諸君が日夕豚尾漢[チャンコロ]として軽侮し嘲笑し、詐取し、貪絞し、誘惑する支那留学生は、将に来たらんとする新支那国の建設者也。……彼等を侮辱するは彼らの侮辱を買うゆえん也。しかして侮辱の交換は闘争に終わるを知らずや」
 宋教仁は自宅に届いた革命評論でこの文章を読み、思わず涙を流したと日記に書き残している。
(略)
滔天は後に、中国の排日運動の起源は、この時期に留学生が味わった屈辱にあると主張している。
 しかし、民報社の時代が終わっても、日本での中国革命派の活動そのものが終わったわけではない。本国に根を張った革命派は各地で蜂起と暗殺を繰り返すようになっていたし、東京は依然としてその策源であり続けた。滔天の仕事は銃器業者と革命派をつなげることや、あるいはさらに危険な任務へと重心が移っていった。

辛亥革命

 上海に上陸した滔天(略)
 滔天のもとには連日、東京で彼に世話になったかつての留学生たちが挨拶にやってくる。彼らはみな、革命軍や革命政府の幹部たちとなっていた。(略)満足に武器もないままに清朝政府の施設に突撃してこれを占領したのが、ついこの間まで東京に留学していた若者たちであったこと。彼らの多くが詰襟の学生服姿のままで戦ったこと。革命の担い手は、滔天がこの八年間、逆風のなか全力で支えてきた中国の若者たちだった。
(略)
 孫文は、滔天の姿を認めると急いで歩み寄り、開口一番、日本政府の動向を尋ねたという。滔天は「これを見よ」とだけ答え、自らのボロボロの袴姿を示した。孫文はそれだけで安堵の表情を浮かべ、滔天と固い握手を交わして笑いあった。滔天の答えは、衆人環視の中、和服で出迎えられるほど、日本の世論は革命を支持しており、日本政府も無茶はできないという意味であった。二人のこうしたやり取りは、真横でこれを見ていた日本の香港総領事代理によって東京の外務省に報告されている。
 孫文と滔天一行は、香港を出港して12月25日に上海に到着。革命の指導者として礼砲をもって迎えられた。黄興や陳其美らが港に出迎える。内外の新聞記者が群がり、孫文を質問攻めにした。欧米で革命に必要な資金を集めてきたのかという質問に、彼は「私には金は一銭もない。もち帰ったのは革命の精神だけである」と答えた。(略)
副総統は黎元洪。武昌蜂起の際、兵士たちによって指導者に担がれた将軍で、革命派出身ではない。ここに革命の主導権を握りきれない革命派の苦しさがすでに現れている。だがとにもかくにも、この日、アジアで最初の共和国が誕生したのである。
(略)
 孫文は2月23日に来日した。(略)日本当局の執拗な妨害を受けたかつての来日とは違い、今回は中国の要人としての来日である。特別列車が用意され、翌日、東京駅には数千人の群衆が出迎えた。留学生が多かったようだが、中国革命への素朴なシンパシーは日本の人々の中にまだ生きていた。
 滔天この来日において、秋山を通じて桂太郎孫文の秘密会談の場を設定していた。つい二週間前に首相の座から下りた桂だが、長州閥で陸軍出身の、つまり保守タカ派の頭領である桂を説き伏せることに大いに意味があったのだろう。孫文は桂に、中国の鉄道事業への協力を求め、桂はこれを受け入れた。桂はさらに、日本が中国、ドイツと結びイギリスをアジアから追い出すべきだと怪気炎を挙げ、孫文は、満州の主権は中国にあるが、ぜひ日本の力でパラダイスを作っていただきたいとこれに応えた。会談は十五時間以上に及んだという。
 それにしても危険な会談である。孫文中華民国への支持の見返りに満州の権益を差し出そうと言っているに等しい。当時の孫文は、外資を積極的に利用して中国の「社会主義的工業化」を図るという楽観的な主張をしており、中国が力をつけていけば心配することはないと考えていたのかもしれない。滔天は日本が革命に敵対しない日中関係の枠組みをつくることが何よりも大事だと考えたのだろう。だが彼らは、これが革命に托した中国民衆の思いを裏切ることになりかねない話であることに気が付いていただろうか。(略)
彼はまたしても、善意に立って日本の尖兵を務めることになりかねない道に踏み込んでいる。(略)
だが幸か不幸か、この年の10月、桂はこの世を去った。

対華二十一カ条要求

かつて辛亥革命喝采を送ったはずの日本の世論は、革命中国を屈服させようとするこの要求に全く反対しなかった。新聞も、むしろ実力行使をもってしてもこれを呑ませるのがアジアの平和を守る日本の務めであるという論調だった。反対論を打ち出したのは(略)石橋湛山くらいだった。
[衝撃を受けた滔天は衆院議院選挙出馬、最下位で落選]
 彼は、九年前に書いた「支那革命と列国」で、列強は中国革命に軍事介入しないだろうが、仮に介入すれば、彼らは中国の民衆によって持久戦に引きずり込まれて自滅することになると予言した。そして実際、義和団戦争で懲りた西欧列強は軍事介入しようとはしなかった。ところが同じ義和団戦争でむしろ帝国主義として自信を深めた日本は今、革命中国との敵対を深めようとしている。その先に最悪の展開が待っていることを、滔天は予感していた。だが彼は、それを押し止める手段を持っていなかった。
(略)
日本製品ボイコット運動が起これば日本政府が袁や段に対してその禁止を要請し、小学校の副読本に二十一カ条要求を「国恥」として記憶し刻苦勉励しようという内容が盛り込まれると、日本のメディアは「排日教科書問題」として大騒ぎして、日本の出先機関が袁や段に抗議するといった具合だった。(略)
この状況に対して、滔天は何か対抗策を打っただろうか。彼はほとんど何もしなかった。ここから先には、もはや断片的なエピソードしかない。
 一九一七年、上海に滞在した半年の間に、滔天はかつて黄興が教鞭を取った湖南省長沙の明徳学堂に招かれて講演している。その際に校長は彼のことを、日本は我が国の仇敵だが宮崎先生は我が国の元勲である、本国の虐政に反対し民族主義をもって我が民国を支持してきた、と紹介した。またこの湖南省行の際、学生の招聘を受けて省立第一師範学校でも講演を行っている。滔天を招聘した学生の名は、毛沢東。当時まだ二十五歳だった。

日米戦争

 このころすでに、アメリカを未来の敵国として想定する議論は盛んに行われていた。その焦点は日本移民の排斥問題に置かれていたが、滔天は日米対立の軸を中国問題に見ていた。
 「世人は日米戦争が加州移民問題を動機として起こるべく想像するけれど、我は左にあらずして衝突するも和解するも支那問題の解決如何にありと思ふ。再言すれば、両国の十分なる了解の下に支那問題が解決さるれば、日米関係は融和すべく、それが出来ねば日米戦争は支那問題に依って誘起せらるるであらう」(21年6月11日「東京より」)
(略)
 日米戦争は、日本の中国への進出をめぐって戦われるだろう。そして日本の膨張を阻止するという一点で、米中の利益ほ一致している。(略)
 日本の中国侵略は、日米戦争へと発展する。
(略)
彼が「世界人類」の視点に立って日本の敗戦を歓迎しているのは明らかだ。
 もちろん彼とて、自国の敗戦を心から喜べるわけではない。「我日本の同胞が亡国の惨に泣いて、外人の侮辱に憤慨する様が想見さるる」と苦しい思いを叶露してもいる。
 滔天は一方で、敗戦を避ける道をも示している。(略)
朝鮮と台湾の独立を認め、さらに中国と和解することである。これによって日本ははじめて、人種平等や差別撤廃を議論することができる。世界から孤立しないための道はこれしかない――。
 しかし滔天の本音は、「もはや手遅れだ」という方に傾いていたような気がする。被抑圧民族の解放に敵対し、歴史の流れを押し止めようとする「日本問題」の解決は、結局は日本の敗戦に待つしかないというのが、彼の胸のうちにあった最後の結論だったのではないだろうか。
 「顧みれば我が民族は余りに驕慢なりき。鳥なき里の蝙蝠にて東洋の同胞に無礼を働けり。若し囚果応報なるものが天地自然の約束事とすれば、一たびは亡国の惨を嘗めさせられるべき運命を有す。

滔天の「革命」観

 「僕は日本位嫌ひな国はない、実際、身震ひするほど嫌ひなのだ」
 「我国の病根は総て精実に支配せられて理義の価値を無視したるにあり。理窟を言へば書生論となし理想を談ずれば狂人となす。即ち我国には哲学無く理想なし、故に一貫せる主義無し。乃ち時に仏国を真似、独逸を真似、英国を真似、而も皆その皮相を真似て神髄に透徹せず、是れ時々に変化して一貫の大精神無き所以也」
 「我国の憂は、貧にして兵の足らざるに非ず、思想の貧弱なるに在り。而して是哲学宗教無きの咎也。盲目的忠君愛国にのみ凝滞せる不用意の咎也」
(略)
 「国が亡びても人類が亡びねば好いぢやないか、国は地方の名称だ、天が定めたものではない、人類は天の愛児だ、天の定めないものは亡びても仕方がない、天の愛児は亡ぼす事は出来ぬ」
(略)
歴史の流れに内在しながら重層的に現実を見る兆民の思想に、彼は大きな影響を受けている。そういうものとしての歴史の進歩を彼は強く信じていた。「独酌放言」では、彼は無頼道士にこう言わせている。
 「天は流石にえらいもンだ。一方でゆかぬ時ア一方でおさえて着々其思想を実行して行く。ナニ天の思想かい、一視同仁が天の政治思想サ、世は逆に進み人は邪に歩み行く様だが、大局の上ではキチンチヤンと天の命を聞かねばならぬ仕組になつてをる」
 人間が互いに助け合い、それぞれが自己を実現できる社会が実現する方向への歴史の進歩を、彼は信じている。
 具体的に言えば、彼は共和制を経て自由な社会主義へ(さらに自治社会=アナキズム社会へ)というビジョンを抱いていたようだ。ボルシェビキ(ロシア共産主義)に対しては、一定の役割を評価しつつも批判的に見ていた。「過渡期としての共産社会の出現は、現在の状態に於て免れ難き事かも知れぬ。……併し人間の自由性を滅却せんとする共産制は、決して人間の永住すべき場所ではない」(「出鱈目日記」1920年3月15日)というのが、彼の見方だった。

白蓮事件

この時期、長男の龍介は父からバトンを受け継ぐかのように、「新人会」において社会変革のために奔走していた。ちなみに次男の震作は浪曲師になっている。
 その龍介が1920年筑豊の炭鉱王・伊藤伝右衛門の妻で歌人柳原白蓮と出会ったとき、今も繰り返しドラマや小説の題材となる「白蓮事件」が始まる。(略)
 世間は大騒ぎになった。さすがに滔天も驚いたが「いいのか、お前、こんなことをして……」と言うだけで、龍介を責めるようなことはしなかった。
(略)
 この件では、滔天のもとに壮士が押しかけたこともあった。日本刀を畳に突き刺して息子の勘当を迫る男を、滔天は「勘当、勘当といいなさるが、勘当しても親子は親子ですからなあ」とあしらって帰したという。

評伝宮崎滔天

評伝宮崎滔天