謀叛の児: 宮崎滔天の「世界革命」 加藤直樹

熊本民権党

滔天は自らを「謀反の児」「先天的自由民権家」と評したが、そうした反逆精神の原点にあるのが、この熊本民権党であり、その指導者であった兄・宮崎八郎の存在だった。(略)
 当時、民権派をはじめとする反政府派の視線は、鹿児島に割拠する西郷隆盛に注がれていた。(略)
民権派は、政府を倒す実力をもっていなかった。(略)そこに「有司専制」を倒すために西郷と私学校の兵力に期待する考えが広がる理由があった。
 「民約論」を訳した中江兆民もそれは同じだった。八郎はこの時期、兆民とも親交を結んで、共に謀議をめぐらせている。
 八郎は、日本はフランス革命前夜のような状況にあると考え、その口火を切るのは西郷の挙兵以外にないと考えていた。その一方で、西郷派が保守的な士族集団に過ぎず、共に民権革命を実現する仲間とは言えないことも理解していた。
[西郷軍に合流した八郎たちは戦死]
(略)
歴史学の整理では、西南戦争以前の初期民権運動は、民衆から遊離した独善的な「士族民権」だったとされ、その評価は低い。西南戦争への合流についても、民権の原則を投げ捨てた行為として、最近まで否定的に見られていた。
 だが私は、熊本民権党-熊本協同隊の闘いを見るとき、純情なまでに民権の理想を追い求めたその姿に胸を打たれる思いがする。そこには、その後の、本格的に拡がった自由民権運動の中にさえ多くは見られない、若々しい「革命的」な挑戦が満ちていた。

民権派の限界

[1874年、八郎たちは台湾出兵義勇兵として参加]
日本軍の進撃に対して先住民は密林に逃げ込んだ。有馬や八郎が所属する部隊は、無人の村で住民が残した水を飲み、畑のじゃがいもを引き抜いて食った。そして森の中から攻撃を受けると、報復のために村を焼いたのである。有馬が首を撃たれたのは、そのときだ。
 彼らの所属部隊は(略)殺害した敵兵12人の首を青竹に縛りつけて引き上げている。
 台湾出兵をうたった八郎の漢詩には次のような一節がある。「腰刀染め得たり妖夷の血」。妖夷とはもちろん、先住民のことだ。(略)ここに見えるのは、ずっと後に、朝鮮半島や大陸で恐れられ、憎まれた「日本鬼子」そのものの姿をした若者だ。
 さらにグロテスクな事実がある。1895年に朝鮮の王妃・閔妃を虐殺した日本浪人の中に、田中賢道の名があるのである。国際的革命家ガリバルディに憧れて赤シャツを着て政府軍と戦った若者が、18年後に隣国の王宮で蛮行に及んだのだ。しかも彼は、おそらく、それを義挙と考えていた。
 先に書いたように、民権派は「国権の拡張」という国家目標を政府と共有していた。それは、西郷隆盛に期待した初期民権派だけのことではないし、中江兆民や後で見る大井憲太郎のような民権左派もその例外ではない。いや、むしろ左派ほど対外膨張に前のめりだった。
 繰り返すが、自由民権運動西郷隆盛の遣韓使節派遣問題に始まった。つまり民権運動は「征韓」の叫びと共に生まれたのだ。(略)
 その背景にあったのは、神功皇后の「三韓征伐」によって朝鮮は日本の属国となったという記紀神話だ。こうした朝鮮属国思想は、幕末に尊王論の浮上と共に甦った。つまり、征韓論尊王思想の副産物なのである。
(略)
 明治維新の急進派である民権派の限界がここにある。(略)尊王論を基軸とするナショナリズムの枠を超えられなかった。一言で言えば、日本人の「民権」を超えて、普遍的な人類の「人権」を考えることができなかった。その限界は、運動の後退と共に致命的に浮上してくる。
 熊本民権党も同様だ。身分制の解体を歓迎し、農民と共に民権を掲げて闘った急進的デモクラットとしての彼らは、同時に急進的な対外膨張論者であった。

失望、キリスト教

[西南戦争後に高揚した自由民権運動は熊本民権党の若者が夢見た「革命」運動ではなかった]
宮崎家の親戚で、植木学校生徒から19歳の若さで協同隊に参加した一木斉太郎は、相愛社をすぐに脱退し、こんな悪態をついている。「自由民権畢竟何為るものぞ。彼らは自由民権の奴隷也、自己名誉の為めに使役せらるる牛馬也」。彼はその後、政治ゴロ、ユスリ、詐欺といった具合に放蕩を尽して生きていく。だがその魂の底には、鋭敏な批判精神から来る怒りがあった。若き日の寅蔵[滔天]は、そこから大きな影響を受け取った。
(略)
[1886年寅蔵は上京]
15歳の彼は、すでに180センチを超える大男に成長していた。(略)
[だが故郷では硬派だった友人が女郎や芸妓にうつつを抜かす「にやけ男」になっていた]
 彼が期待していた自由民権の熱気は、すでに東京からも地を掃って久しかったのであった。(略)
反乱の時代が過ぎ、立身出世の時代が始まっていた。(略)
[その失望は、キリスト教に出会い救われる]
滔天は後に、自分はキリスト教によって「余が世界的人間なること」を学んだと書いてる。(略)
これは滔天だけの話ではないだろう。(略)[自由民権運動後退のなか]多くの若い世代がキリスト教の門をくぐっている。彼らはそれによって自由民権思想のナショナルの枠を破り、民権運動の中で育った理想主義を、より世界的な思想のなかに羽ばたかせることになったのだ。

中国革命−世界革命

次に彼が目指す中国革命とは、日本製の「近代化」「進歩」を中国で実現することではなく、むしろ「近代化」「進歩」によって世界に広がっている矛盾――欧米を含む民衆の貧困や帝国主義国による侵略――を克服する「世界革命」「社会革命」であった。
(略)
だが、それでも一つの問題が残る。日本人が他国の変革に介入すること自体がはらむ危うさである。そのことに二人は全く無自覚だったわけではない。とくに民権左派の政治運動を身をもってくぐった[兄の]弥蔵は、この点を自覚していたと思われる。
(略)
 彼らが中国革命−世界革命という、驚くべき飛躍をしなければならなかったのは、同時代の日本の変革について絶望していたからである。反動期の日本でもがくことの息苦しさが、彼らを中国革命という夢に駆り立てたのである。だが彼らが日本の変革をあきらめても、目の前の日本国家が消えてくれるわけではない。それは、彼らが思っている以上に強大な生命力をもっていた。
 長崎の安宿で「中国人になる!」とはしゃぐ寅蔵のすぐ真横を、猛烈な速度で追い抜いていくものの影に、彼は果たして気付いていただろうか。すでに数か月前の第一議会で、山県有朋首相は「主権線」を超えて「利益線」を防衛する必要を宣言していた。「主権線」とは日本の国境を、「利益線」とは朝鮮を指している。日本は帝国主義国家として急速に成長し、まず朝鮮に、次いで中国に襲いかかっていくことになる。
(略)
 中国で革命を起こす。そして、革命中国を拠点に全世界を根底からひっくり返す。
 寅蔵は、この壮大な「大方針」を得て空が一気に晴れ渡ったように感じた。格差と貧困、侵略に彩られた世界を根底から変えるという壮大な使命に心が躍った。
 「日本人をやめて中国人になる」というアイデアも気に入った。明治維新から自由民権へと続いた流動的な時代が過ぎ去った明治20年代当時の日本社会は、彼にとってひたすら息苦しいものだった。教育勅語御真影に頭を下げさせられ、普遍的な理想は「不敬」と攻撃され、若者はひたすら立身出世に励む。寅蔵はこの国に可能性を感じることができなかった。「だったら日本人をやめてしまえ」という思いもよらぬ解決策に、滔天は無邪気に舞い上がったのだ。

犬養毅

 犬養毅は、確かに侠気の人であった。突然飛び込んできた風変わりな、しかし冒険心に富み高い志をもったこの若者に、好感をもったに違いない。(略)しかし同時に、寅蔵の「志」が、犬養にとってまさに渡りに船だったのも事実である。(略)犬養は中国や朝鮮に強い関心を持っており、外務省の機密費を使って中国に調査員を派遣する必要を、当時、外相の地位にあった大隈重信と外務次官である小村寿太郎に説いていた。そこに「中国へ渡りたい」という若者が現れたわけである。(略)中国に渡って秘密結社を調査せよという名目で機密費が提供されたのだった。

孫文

 翌朝、陳少白宅に再び赴くと、客はまだ寝ているとのことだった。(略)しばらくすると扉が開き、寝衣姿の男がねぼけまなこで顔を出した。英語で「お上がりなさい」と声をかけてくる。顔をよく見ると、それは確かに写真で見た孫文その人だった。(略)孫文は寝起きのままの姿で、陳少白からあなたや亡くなったお兄さんの話は聞いている、こうして会えてうれしい、という。寅蔵ももちろんうれしかったが、初対面なのにあまりにフランクなその調子に、かえって拍子抜けしたのが本音だった。これがあの孫文なのか。口調も動作も、中国革命を背負うリーダーとしては、少し軽過ぎやしないか。(略)いったん奥に引っ込んだ孫文は、しばらくすると頭髪を撫でつけ、きちんとした服装で部屋に入ってきた。寅蔵はすぐに本題に切り込む。あなたが中国革命を志していることは知っています。その先を教えてください。つまり、どのような主義に立って、どのように革命を進めるおつもりなのか。
 孫文は即座にこう答えた。
 「余は人民自ら己れを治むるを以て政治の極則なるを信ず。故に政治の精神に於ては共和主義を執る」
 衝撃だった。清朝を倒すという革命派の議論そのものが極少数派である中で、彼は中国を共和国にするというのだ。そして、「共和主義」とはつまり、寅蔵がひそかに嫌悪し、否定の対象と考えていた天皇制国家を超える理念である。
(略)
 孫文はまた、中国における共和制の可能性を示すものとして、地域において行われている住民自治の現実を示した。そして共和制は可能なだけでなく最も中国に適しているのだとも言う。広大な中国ではしばしば各地の名望家が互いに争う群雄割拠に陥るが、共和制であればそれを平和的な競争に収めることができるというのだ。
(略)
 寅蔵をさらに魅了したのは、孫文が中国革命を世界の現状の中に位置付けて論を展開したことだ。中国革命は、世界の人道の回復のためにも必要なのだと孫文は説く。(略)
 列強が中国を分割、蚕食しようとしている。このまま飲み込まれるままに任せれば、彼らはその力で世界を制覇するだろう。反対に、正義に立つ者がこの国を掌握すれば、そこから世界に号令することができる。私は世界の一平民(世界的人間!)として、人道の援護者として、これを傍観しているわけにはいかない。中国四億人の人民を救い、アジア黄色人種の屈辱を雪ぎ、世界に人道を恢復できるかどうかは中国革命の成就にかかっている――。
 熱く語り終わると、孫文は今朝見せたような素朴な笑顔に戻った。(略)
 寅蔵は孫文の一つひとつの言葉に心を揺さぶられた。決して弁舌さわやかというのではない。しかし率直でかざらない言葉で語られる内容は論理的で、正義にかなっていた。淡々とした口調の中に、あふれるような熱情があった。(略) 寅蔵はすっかり孫文に心を奪われた。それから数日間、二人は日本や欧米諸国の動向、中国の現状さらには宗教、哲学までを英語と筆談を用いて語り合い続けた。
(略)
香港まで探しに行った孫文がなんと横浜にいた。(略)東京に戻り、犬養毅に引き合わせる。犬養は「よい土産」と笑った。(略)小村寿太郎は目を丸くして、こんな勝手なことをしてもらっては困る!と叫んだ。

滔天、康有為

 寅蔵は、長崎にいる渡辺元のところにも、孫文と、そして陳少白を連れて行った。(略)名所旧跡を案内したときだ。ある寺で高名な禅師の説教を聞いた。その際に禅師が示した維摩経の中に「白浪滔天」の文字を見つけた渡辺は、これをおおいに気に入り、寅蔵に号として贈った。白波が天を衝くがごとき勢いという意味である。(略)寅蔵もこれを大いに気にいり、以後、「滔天」と名乗るようになる。
 これでようやく、本書でも、主人公を「宮崎滔天」と呼ぶことができる。
(略)
[東京から電報]犬養邸に到着すると、彼は五千円を現金でポンと差し出した。(略)
 犬養が滔天に求めたのは、風雲急を告げる中国を視察して来ることだった。前月、中国で大きな政治的変動が始まっていた。「戊戌の変法」だ。
(略)
滔天が方木草堂の弟子たちをかくまったことを聞いた康は、弟子を通じて滔天に礼を伝えてきた。(略)
[康有為は警戒心が強く]ようやく面会が実現すると、康は滔天に対して、今回の政変の元凶である西太后を取り除かなくてはならないと主張した。さらに彼は、なんと三年前の閔妃虐殺事件を引き合いに(略)
日本人浪人たちが朝鮮王宮に侵入し、ロシアと結んで日本の進出を防ごうと画策した高宗の王妃を殺害した事件である。(略)日本は国際的な非難を受け、かえって朝鮮をロシア側に追いやるきっかけにもなった。そのことが後の日露戦争にもつながっていく。
 康有為は、北京で同じことをしてほしいと言っているのである。日本浪人を動員して、西太后を殺害してくれということだ。滔天はこの言葉に失望し、こう答えた。(略)
それは簡単だが、三千人の門弟がいて一人も自ら事に当たる者がいないと言っているのに等しいというのである。さらに滔天は、それでも日本人に頼みたいというのであれば、この私が一人で北京に行きましょう、西太后一人を殺すだけなら私一人で十分です、とタンカを切ってみせた。
 康は顔色を変え、すぐに話題を変えた。(略)
康有為は「孔子の再来」とまで言われたが(略)滔天はどうしても孫文と比べてしまった。康有為は確かに身のこなしも会話も優雅で愛想もいい。だがやりとりの中に、常に小さな駆け引きが隠されていて、実はちっとも胸襟を開かない。
一方の孫文は、無愛想でお世辞も言わないが、単刀直入で駆け引きをせず、虚心坦懐に話し合うことができる。
 ところが二日後、滔天のところに若者が訪ねてくる。彼は涙を流しながら滔天にこう語った。私は今から北方に向かいます、「風雲若し北方の天に起るあらば、是即ち僕が死せる時」、どうか康有為先生を守り、我が国を助けてください。滔天は、これが自分の「外交家」的挑発の帰結であることに気づいて愕然とした。彼は若者の手を握り、志を果たしたら日本に逃げてきてくれ、玉砕が豪傑の道というわけではないのだから、と言うのが精一杯だった。死地に赴く彼を見送った後、滔天は自室で泣き伏したという。
(略)
その後もいろいろな駆け引きが繰り返されたが、結局、康が希望する日本亡命が実現した。だが滔天はこれを批判的に見ていた。(略)外勢をたのむ康有為のやり方に危うさを感じていたのである。(略)
[東京に着いた]康有為に面会に来た孫文に対しては、康有為は会おうともしなかった。康はいまだに皇帝の下で権力に復帰する夢を捨てていなかったのである。(略)日本人たちが夢想したような提携は、まったく成り立つ余地がなかった。
(略)
 康有為の人柄にはいささか失望した滔天だが、来日当初に康有為を持ち上げていた日本の各界人士が彼に見向きもしなくなっていったことに対しては怒りを覚えたようだ。
 『三十三年の夢』の中で彼は、康を擁護している。康有為より李鴻章の方が「英豪」だという日本人が多いが、ではその英豪の李が何をしてきたのか。彼が太平天国を見事に鎮圧したことで、腐敗した清朝が延命し、中国はかえって今の悲境に至っているのではないか。なるほど康有為は確かに度量の狭いところがある。それでも、一介の書生から身を起こして皇帝に政治改革を決意させたことは事実だ。不幸にして計画は失敗したが、その計画が進歩的なものだったことも事実だ。

内省と決心

恵州蜂起は敗北に終わった。だが孫文にとっては、これは偉大な「成功」だった。革命は可能であるという手ごたえを、確かに感じることができたからである。革命軍は進撃した先々で歓迎された。
(略)
一方、滔天にとっては、恵州蜂起はどこまでも惨憺たる挫折の経験だった。(略)
気がつけば彼は、その帝国主義の野心を抱く日本人の群れの中で役割を与えられ、動かされているではないか。内田良平満州シベリア獲得や児玉源太郎後藤新平の廈門占領という野心、それらが織りなす中国の分割や収奪という野心の大きな絵の中で動き回ってる姿が見える。その挙句、日本の政治家である中村弥六のみみっち私欲のために中国の同志たちを見殺しにする結果に終ってしまった。(略)[しかもそれを]日本至上主義の典型的「日本浪人」である内田に咎められ、額を割られるなどということは、二重にも三重にも、彼の自負をズタズタにしただろう。
(略)
 何が間違っていたのか。どこからやり直せばいいのか。滔天は内省の淵へと沈んでいく。そのとき、彼の耳の底に鳴り響き始めたのは、遠く華北に響く義和団の喚声だった。(略)
 当時、日本人を含む列強諸国の多くの人々にとって、義和団とは、呪術や迷信を信じ込む集団として嘲笑の対象に過ぎなかった。ところが、実際に現地で彼らの戦いぶりを見た軍人やジャーナリストたちの評価は、それとは異なるものだった。(略)
 義和団戦争では、官兵(清国兵)ではなく武装した民衆が先頭に立って戦っていた。むしろ、それに励まされて官兵も戦意を奮い起こしたのである。
 それは、異民族支配の下で政治的無気力の中におかれていた漢民族が目覚めつつある光景であった。帝国主義への抵抗の中から、「中国人」としてのナショナリズムが生まれようとしている。
(略)
俺は侵略に抵抗する側ではなく、侵略する国家と手を結んだ。もちろんそれは革命の方便だ。だがそのあげく中国の同志たちさえ挫折させてしまったではないか。
(略)
俺は浪花節かたりになることに決心した」
浪曲師になる、これが、一年間の内省生活の末に滔天がたどり着いた結論であった。
(略)
浪曲は当時、芸能の中でも「下劣」「野卑」と思われていた場末の芸であった。(略)
三十歳を超えた滔天が今さら芸の道に進むというだけでも正気の沙汰ではない[が](略)
「軍費の調達も同志の糾合も歌でやるのが一番だ」というのが、追い詰められた彼の、起死回生のアイデアだったのである。
(略)
このアイデアの背景には同郷で士族出身の美当一調が講談で成功して大金をかせいでいるという事実があった。

桃中軒牛右衛門

[桃中軒雲右衛門に弟子入り、桃中軒牛右衛門となる。だが稽古を始めてみると声が出ない。滔天はあがり症だったのだ。雲右衛門の方も滔天経由で頭山満に興行のツテやら借金やらを目論んでいた。桃中軒一座の東海道ツアーが開始]
滔天を慕う風来坊の若者たちまでが飛び入り参加して、ツアーの人数はますますかさんだ。雲右衛門も滔天も連日、彼らと共におおいに飲む。大雨続きもあって肝心の客の入りは悪い。(略)
師匠が滔天と玄洋社の関係を利用するつもりなのも、うすうす気づいていたに違いない。(略)
東京に逃げ戻り、そのまま行方をくらました。雲右衛門との関係は、こうして四か月で中断する。(略)
師匠を助けるためとはいえ、結局は「異主義」の浪人たちの情けに頼る結果となったことは、滔天にとって忸怩たる思いだっただろう。そもそもが浪曲師になった目的は、彼らに頼らずに革命運動をやる資金を稼いでみせることだったはずなのだ。
 一方、雲右衛門の方は玄洋社黒龍会の後押しを得ることで九州で大成功し、後には芸の方も、それまでの侠客ものから日露戦争の時代にふさわしい「武士道鼓吹」をうたう浪曲へと転身する。彼は大金を稼ぐ人気者となり、後には皇族の前で演じるまでになった。(略)彼は滔天の弟子入りによって大いに利益を得たと言えるだろう。(略)結局、おぼっちゃん育ちの滔天と苦労人の雲右衛門ではまったく勝負にならなかったということだ。
(略)
[滔天の放浪は引篭り時代を含めると四年に及んだ。その間に]
彼は志士気取りを捨て、政治的大義というアイデンティティーを捨て、康有為救出劇以来の名声を捨てた。妻子を捨てて顧みないのは革命のためだという言い分さえ、柿沼とよの一件を通じて捨ててしまった。(略)
 残ったのは、彼が場末の寄席で身銭を稼ぐ窮民の一人だという事実だけだった。かつての中国革命の指導者となって世界の窮民を救うのだという途方もない英雄願望は、彼自身が一人の窮民となることで完膚なきまでに否定されたのである。(略)
 だが余分なものをすべて捨て去った後、それでも彼の中に残るものがあった。「謀叛」への衝迫であり、「無頼道士」がもつ自由な「真民」への憧れであり、「下方民と共に四海兄弟一視同仁の時代」を求める思いである。(略)
それは世界革命への実践でなくてはならず、世界革命の拠点となるのは中国だという信念にも変わりはなかった
(略)
 ところで、この浪曲時代は彼が本恪的に文章を書き始めた時間でもあった。
半生記『三十三年の夢』と『狂人譚』は書籍化され、『三十三年の夢』はかなり売れたようだ。(略)
ただし彼は職業的な作家になろうと考えたことは一度もない。(略)革命とは謀反であり、謀反とは陰謀や蜂起であると考える彼にとって、書くことそのものは革命でも運動でもなかった。(略)
運動に不都合があると考えれば、主張の肝心なところをぼかしたり、いわゆる「奴隷の言葉」で書いて見せたりもする。危険な本音はたいてい、戯文の形で表現されている。滔天の思想に接近するには、だから、それらを能動的に読み解く必要があるのだ。

次回に続く。