第一次世界大戦はいかにして始まったか・その2

前回の続き。

ボスニアヘルツェゴヴィナ併合

今や、この地域での民族の絆に基づく同盟がトルコと力を合わせてオーストリアを追い出す危険があった。
 そうした紛糾の種に先手を打つために、[外相]エーレンタールは素早く併合の土台作りの準備に入った。オスマン側は莫大な補償金を得て、名ばかりの主権を売り渡した。これよりもはるかに重要だったのはロシアであり、同国が不本意ながらも首を縦に振ってくれるかどうかに計画全体の成否がかかっていた。(略)
[駐ロ大使時代の関係で]ロシア外相のアレクサンドル・イズヴォリスキーの同意を確保するのはたやすかった。(略)
実際、皇帝ニコライニ世の支持を得て、ボスニアヘルツェゴヴィナ併合の代わりに、ロシアのトルコ両海峡への航行権の改善にオーストリアが支持を与えてくれるよう提案したのは、イズヴォリスキーであった。(略)
 こうして準備を整えていたにもかかわらず、エーレンタールが告知した1908年10月5日の併合はヨーロッパを襲う大きな危機の引き金となった。イズヴォリスキーはエーレンタールと何らかの合意に達したことを否定した。彼はその後、エーレンタールの意図についてあらかじめ説明を受けていたことさえ否定し、ボスニアヘルツェゴヴィナの地位を明確化するために国際会議を開催するよう要求した。
(略)
確かに、オーストリア外相の術策には外交の透明性が欠けていた。(略)
イズヴォリスキーにしてみれば、自分、そしてさらにはロシアは「抜け目ない」オーストリア外相にごまかされているのだと主張しやすくなった。しがしながら、自らの職と名声を守るべくイズヴォリスキーがこれ以上ないやり方で嘘をついたために、危機が向かうべき方向へと向かったことを示唆している証拠がある。ロシア外相は深刻な判断ミスを二つ犯した。第一に、彼は、トルコ両海峡をロシア艦隊に開放すべきだという自らの要求をロンドンが支持してくれるものと決めてかかっていた。彼はまた、併合がロシアの民族主義的な世論に与える衝撃をかなり過少評価してした。(略)
[併合]数日後のロンドン滞在中にイギリスが非協力的であることが明らかになり、サンクトペテルブルクの新聞の反応を目にしてからようやく、彼は自らの過ちに気づいて動揺し、エーレンタールの被害者を装い始めたのであった。
 エーレンタールのやり方が正しかったにせよ間違っていたにせよ、ボスニア併合の危機はバルカンの地政学的状況の転換点となった。オーストリアとロシアが、バルカン問題の解決に向けて進んで協力し合うための余地がまだ残っていたとすれば、併合危機はそれを破壊してしまった。(略)この危機は、オーストリアの隣国であり同盟国であったイタリア王国を遠ざけることにもなった。
(略)
イズヴォリスキーの誤導によって、またショービニスト的な大衆感情に焚きつけられて、ロシアの政府と世論は、併合を両国間の協調関係に対する手ひどい裏切り、許し難い恥辱、自らの死活に関わる領域での容認されざる挑発と受け止めた。ボスニア危機に続く数年間、ロシアは大規模な軍備拡張計画に乗り出し、これがヨーロッパの軍拡競争の引き金となった。

軍事国家に成長したセルビア

 二度のバルカン戦争は、バルカン半島におけるオーストリアの地位の安泰を崩し、これまでよりも大きく、強いセルビアを作り出した。王国の版図は80%以上拡大した。(略)
[セルビアの軍事的脅威について]ハプスブルク政府はしばしば軽蔑的な口調をとってきた。かつてエーレンタールは巧みな比喩を用いて、セルビアを、オーストリアの果樹園から林檎を盗み取る「悪童」に見立てたこともあった。こうした軽々しい判断はもはや許されなかった。(略)
[1912年]初頭から進められた鉄道網の発展、武器や装備の近代化、前線部隊の大幅な増強はいずれもフランスからの資金提供によるものであり、セルビアを恐るべき軍事国家に変革した。さらに、セルビアの軍事的強化が時とともにますます進展するのは間違いなかった。なんとなれば、二度のバルカン戦争でセルビア支配下に収めた新領土には160万人が居住していたのである。

オーストリア参謀総長コンラート

[妻の死後の鬱を人妻ギーナとの不倫で癒やし、軍事・政治はほったらかし。醜聞を恐れ届けられない恋文を毎日何通も書き連ねる]
コンラートが信じていたところでは、勝利の栄光を帯びた益荒男たればこそ、離婚女性との衆目を集める結婚につきまとう社会的障害や醜聞を一蹴することができるのであった。彼はギーナへの手紙の中で、勝利の月桂樹に飾られて「バルカンでの戦争」から帰還し、豪胆さを示して彼女を娶るという夢想に興じた。(略)
外交上の挑戦に対する彼の答えは、ほとんど常に「戦争」であった。
[執拗かつ強硬にイタリアとの戦争を迫られ激怒したエーレンタールは皇帝に正式に苦情申し立て。だが皇帝の叱責にも臆さないコンラート]

前夜

1914年の春や夏には、オーストリアセルビアの間で戦争が起こりそうには思われなかった。この年の春、二度のバルカン戦争後の消耗と厭戦気分を反映して、ベオグラードの雰囲気は比較的穏やかであった。(略)
 オーストリア側でも戦争を意識していることを示す徴候は何一つなかった。

露仏同盟

ビスマルク派が出現した。批判者たちは、なぜドイツがロシアからオーストリアハンガリーを、またオーストリアハンガリーからロシアを守る役を引き受けねばならないのかと問うた。他のどの国もそんなことはやっていないではないか。なぜドイツがいつも危機に配慮し、バランス取りをしなければならないのか。なぜ列強のなかでドイツだけが、国益を追い求めて独自の政策を行う権利を否定されねばならないのか。
(略)
 ドイツとロシアの再保障条約の不更新とともに、フランスとロシアが親善関係を樹立するための扉が開かれた。しかし、なおも多くの障害が横たわっていた。専制君主アレクサンドル三世は、共和主義的なフランスの政治エリートにしてみれば好ましくない政治的パートナーであった――そしてその逆もまた真なりであった。ロシアがフランスとの同盟から多くを得られるのかどうかも怪しかった。どのみち、ドイツと深刻に対立した場合には、ロシアはおそらくフランスの支援をあてにできるであろう。それならば、なぜフランスの支援を確保するために行動の自由を犠牲にしなければならないのか。
(略)
ロシアが例えば北アフリカにおけるフランスの目標を支持したとしても、見返りが得られるかどうかは疑わしく思われた。幾つかの問題に関して、ロシアとフランスの利害はまったく反していた。具体的に言えば、例えばトルコ両海峡に対するロシアの計画を阻止するというのがフランスの政策であった。ロシアの計画は、究極的には東地中海におけるフランスの影響力を低下させることになりかねなかったからである――この地域では、フランスはロシアよりもイギリスと共通の利害を有していた。
 なぜロシアがドイツとの良好な関係を悪化させなければならないのかを理解するのも難しかった。両帝国の間には緊張が定期的に訪れたし、ロシアからの輸入穀物にドイツが課した関税はそのなかでも最も重要な問題であったが、しかし直接の利害対立が生じることは少なかった。(略)
とくにバルカン政策に関わる領域では、サンクトペテルブルクとベルリンの良好な相互理解がヴィーンを牽制する効果をもちうるのではと期持されており、ドイツの国力という現実がまさに両隣国を繋ぎ止める論拠となっていたように思われる。(略)かくして、ドイツの中立はロシアにとって潜在的に、フランスの支持以上に有益であった。ロシアはこのことを長い間認識してきた(略)
[ならばなぜフランスの提案を受けたのか]
[平時軍事力を増員した]ドイツの穏当な陸軍法案も、条約不更新の直後に行われたために、サンクトペテルブルクに恐怖心を呼び起こす一囚となった。ビスマルクが辞職し、皇帝アレクサンドルが「悪辣なにやけ者の若造」と評した、激しやすい性格の皇帝ヴィルヘルムニ世がますます政治の頂点立つようになっていったことで、ドイツ外交の今後の針路に不安を抱かせるような疑問が投げかけられた。フランスから有利な条件で莫大な借款を望めるだろうという見通しも魅惑的であった。しかし決定的に作用したのは何をおいても、イギリスがまさに三国同盟に参加しようとしているのではという、ロシアの懸念であった。(略)
[1890年初頭英独は諸々のアフリカ領土を交換]
1891年夏に三国同盟の更新とドイツ皇帝のロンドン訪問がイギリスの新聞の親独感情を促進すると、ロシアの憂慮は高まった。(略)
極東と中央アジアで対立するイギリスが今まさに西の強力な隣国と、そしてさらにはバルカン半島でライバルであるオーストリアと勢力を結集しようとしているかのように思われた。
(略)
身に迫るこの脅威に抗って釣り合いを保つために、ロシアは胸中のためらいを脇に追いやって、フランスとの合意を公然と追求した。
(略)
ドイツを牽制するのがパリにとっての重要な案件であったのに対して、ロシアはバルカンにおいてオーストリアハンガリーを封じ込めることの方に関心を抱いていた。

イギリスとロシアの中国問題、日露戦争の影響

[ドイツ帝国創設後]ディズレーリは普仏戦争の世界史的意味を吟味した。(略)
「この戦争は、前世紀のフランス革命よりも重大な政治的事件、ドイツ革命を意味するもの」であった。(略)
「勢力均衡は完膚なきまでに破壊されたのであり、この変化に誰よりも苦しめられ最も影響を被るのはイギリスなのです」、と。
 ディズレーリの言葉はしばしば、来たるべきドイツとの闘争を予見したものとして語られてきた。しかし(略)このイギリスの政治家にとって、普仏戦争後に何より問題だったのはドイツの勃興ではなく、イギリスの宿敵たるロシアがクリミア戦争以降押しつけられてきた決定から解き放たれたことであった。(略)
[1856年のパリ条約は]
フランスの敗北によって破壊された。新たなフランス共和国クリミア戦争後の協定を廃棄し、ロシアによる黒海武装化に反対するのをやめた。イギリス一国のみでは黒海条項を強要できないことを知っていたロシアは、ついに黒海艦隊の建造を敢行した。
(略)
1894年から1905年までの間、イギリスの利害にとって「最も重大な、長期にわたる脅威」をもたらす存在はロシアであって、ドイツではなかった。当時のイギリスの政策決定者を煩わせた中国問題はその好例である。(略)
[中国北部へのロシアの伸長は日清戦争で頂点に達した]
この戦争に勝利した日本が、中国北部への影響力をめぐってロシアのライバルとして登場することとなった。(略)
[義和団の乱鎮圧で問題はさらに先鋭化。さらにボーア戦争で戦力を南アフリカに回したことで北インドをロシアから守れなくなった]
日本の手強い陸軍力によって中国との国境でロシアを脅かせば、北インドという大英帝国の周縁部における脆弱さが相殺されるであろう。日本海軍の急速な成長は、さらなる「ロシアと釣り合いを取る重り」を提供してくれる(略)
日英同盟第一次世界大戦前の世界の国際体制の一部となった。
(略)
アフガニスタン国境へと向けられたロシアの鉄道建設の「凶暴なペース」は、状況が急速にイギリスの不利に展開していることを示していた。(略)
[日露戦争当初]ロシア陸海軍が日本に対して満足に力を発揮できなかったという事実は、イギリスの不安を少しも和らげはしなかった。キッチナー伯爵は、もしロシアが、インドを脅かすことで日本に対する敗北の帳尻合わせをしようという誘惑に駆られたらどうなるだろうかと警告した。(略)
ロシアに対する日本の勝利は、合意を目指す主張の追い風になった。(略)
新たな外務大臣となったエドワード・グレイは、「ロシアを再びヨーロッパの協議会の一員と見なす」決意を固めた。
(略)
 帝国主義的な再調整をめぐるこの錯綜した物語には、とくに強調すべき点が一つある。すなわち、イギリスの政策決定者たちにとって、フランスとの協商にせよロシアとの協定にせよ、いずれも反ドイツを第一の目的とした方策ではなかったという点である。ドイツがイギリスの構想のなかで一定の役割を演じている限りは、おおよそのところ、ドイツの位置づけはフランス、ロシアとの緊張から付随的に生じるものに過ぎなかった。

日露戦争のドイツへの影響

短期的に見れば、日露戦争はドイツに、露仏同盟と英仏協商から受けていた圧迫を抜け出す思いもよらぬ機会を提供したように思われた。より長期的にはしかし、戦争には正反対の効果があった。すなわち、日露戦争によって同盟システムは緊密化され、かつては周辺部で展開されていた緊張関係が大陸ヨーロッパの中にもちこまれ、ドイツから行動の自由を大幅に奪い去ったのである。この二つの側面が1914年の諸事件に影響を及ぼした
(略)
自国の孤立を克服する手段として東西で可能性を試そうというドイツ政府の試行錯誤は、かくして大失敗に終わった。モロッコでのドイツのフランスに対する挑戦によって、英仏協商は弱体化するどころか、むしろ強化された。(略)
[日露戦争によるチャンスも]1907年夏にイギリスとロシアが条約に調印して、ペルシャアフガニスタンチベットをめぐる意見対立をすべて解消したことにより、当面は潰えた。
(略)
[各国の]ドイツとの反目がドイツを孤立させる原因となっていたのではなく、むしろ新たなシステムそのものがドイツ帝国に敵意を向かわせ、そしてこの敵意を強化していた。例えばロシアの場合、東方で日本が勝利し、中央アジアをめぐるイギリスとの帝国主義的角逐が暫定的に解消されたことで、必然的に、唯一残っていた舞台に外交のスポットライトが再び当たることとなった。その舞台――オーストリアハンガリーとの紛争、そしてひいてはドイツとの紛争を回避するのが困難になりつつあったバルカン――においては、ロシアはなおも帝国主義の幻影を追い求めることができた。

次回に続く。