夢遊病者たち―第一次世界大戦はいかにして始まったか

1903年セルビア将校が王宮に乱入

国王の忠実な第一副官であったラザール・ペトロヴィチは交戦の末に武器を奪われて捕らえられ、暗闇の広間を通り抜けながらあらゆる扉口で国王の名前を呼ぶよう、暗殺者たちに強いられた。(略)
[ついに隠し扉が発見され]
ペトロヴィチは万事休すを悟り、国王に外に出てくるよう乞うことに同意した。羽目板の後ろから、国王は自分を呼ぶのは誰かと問い、副官はこれに答えた。「私です、あなたのラザです、あなたの将校たちに扉を開けてください!」、国王はこう返した。「余は将校たちの忠誠の誓いを信じてよいのだな」。陰謀者たちはそのとおりですと返答した。証言の一つによれば、締まりのない体つきで、眼鏡をかけ、不似合いな様子で赤い絹のシャツを着た国王は、王妃に手を回しながら姿を現した。国王夫妻は至近距離から雨あられのごとく弾丸を浴びせられ、蜂の巣にされた。隠し持っていたリボルバーで主人を守ろうと最後の絶望的な努力をした(と、少なくとも後に言われている)ペトロヴィチもまた殺された。無用な暴力の乱痴気が続いた。二人の死体は剣で突かれ、銃剣で切り裂かれ、内臓の一部が引きずり出されて見分けがつかなくなるまで斧でぶった切られた(略)
王妃の死体は寝室の窓の手すりに吊り上げられてから、ほとんど全裸のまま血まみれの状態で庭に投げ捨てられた。(略)
将校の一人が死体の拳をサーベルで叩き切り、死体はちぎり取られた何本かの指をばらばらとまき散らしながら地面に落下した。暗殺者たちがたばこを吸いながら自分たちの仕事の成果を点検するために庭に集まった頃、雨が降り始めた。
 1903年6月11日の事件はセルビア政治史に新たな展開を印すものであった。セルビアが近代における独立国家となってからの短い年月の大半を統治してきたオブレノヴィチ王家が、ついに断絶したのである。(略)
 なぜ、オブレノヴィチ王家はこれほどまでに惨たらしい目に遭わねばならなかったのであろうが。セルビアでは、君主政が安定した制度として存立したためしは一度としてなかった。根本的な問題の一端は、ライバル関係にある王家の併存状態にあった。オブレノヴィチ家とカラジョルジェヴィチ家という二大家門は、才スマンの支配からセルビアを解放するための戦いのなかで、傑出した役割を演じていた。
(略)
 敵対する二つの家門の組み合わせ、オスマン帝国オーストリア帝国の狭間で危険に晒されるという地理、そして小規模な自作農に特徴づけられたひどくがさつな政治文化。こうした要素が混ざり合って、君主制度が絶えず厄介事を抱え続けている状況は揺るがし難いものになっていった。19世紀のセルビアの統治者のうちで在位中に自然死を迎えた者の少なさは際立っている。公国の創始者ミロシュ・オブレノヴィチ公は苛烈な独裁者であり、その治世は反乱の頻発に悩まされた。
(略)
 [孫の]アレクサンダルの治世下、オブレノヴィチ一族の歴史は最終局面に入った。(略)彼はセルビア憲法のうちの比較的リベラルな諸規定をないがしろにし、その代わりに新絶対主義的な統治形態を押しつけた。例えば、秘密投票制は撤回されたし、出版の自由は廃止され、幾つかの新聞が廃刊された。これに抗議した急進党の指導陣は、権力の場から締め出される羽目になった。アレクサンダルは安っぽい独裁者流のやり方で憲法を廃止したり、強要したり、停止したりした。彼は司法の独立に敬意を示さず、有力な政治家たちの命を狙うはかりごとさえ企てた。国王と王父ミランの二人三脚(略)による無謀な国家の舵取りには、王家の存立を危うくするだけの効果があったのである。
 しがない技師の未亡人であった素性の怪しい女と結婚するというアレクサンダルの決心は、状況を何ら好転させなかった。1897年、彼は当時母の女官を務めていたドラガ・マシーンと出会った。ドラガは王の12歳年上で、ベオグラード社交界では評判が悪く、石女だと広く信じられており、数えきれぬほどの私通の噂をもって名を馳せていた。御前会議での白熱した議論の最中、王にマシーンとの結婚を思いとどまらせようと(略)内務大臣のジョルジェ・ゲンチッチは説得力のある議論をもちだした。「陛下、あの女を娶られてはなりません。彼女は誰とでも懇ろな仲なのです――私も含めて」。正直さの見返りに大臣が受けたのは、激しい平手打ちであった――ゲンチッチは後に国王殺しの陰謀集団に加担することとなる。(略)
 結婚に関する議論は、国王と父親の関係をも緊張させた。(略)
王父は常時監視下に置かれることとなり、やがてセルビアからの退去を迫られ、後には帰国を妨げられた。

パシッチ

外国支配からのセルビアの独立闘争に深く関わったのが、手始めであった。(略)
1880年代初頭、彼は急進党の近代化を指導し、同党は第一次世界大戦勃発までのセルビア政治における唯一無比の強力な勢力であり続けることとなった。
 急進党が代弁していたのは、リベラルな立憲思想と、セルビアの拡大およびバルカン半島の全セルビア人の領域的統一を求める呼びかけとを結合させた、折衷的な政策であった。(略)
[1883年のティモク反乱鎮圧後、亡命、欠席裁判で死刑判決を受けた。ロシアに亡命中コネクションを築き]
以降、彼の政策は常にロシアの政策と密接に結びつくことになる。1889年にミランが退位した後、亡命によって急進党の運動の英雄となっていたパシッチは恩赦を受けた。彼はベオグラードに帰還して民衆の拍手喝采に囲まれ、スクプシュティナ議長、さらには首都の市長に選出された。(略)
 1893年、摂政に対するクーデタの後、アレクサンダルはパシッチをセルビアの特別公使としてサンクトペテルブルクに派遣した。パシッチの政治的野望を満足させると同時に、彼をべオグラードから引き離すのがその目的であった。パシッチはロシアとセルビアの間にこれまで以上に深い関係を築くことに専心し、未来のセルビアの民族的解放は結局はロシアの助力にかかっているのだという信念を隠そうとしなかった。(略)
ミランとアレクサンダルの統治期間中、パシッチは厳しく監視され、権力から遠ざけられた。(略)
[出版物で禁固刑]1899年、王父に対する暗殺未遂事件により国中が衝撃を受けていた時も、パシッチはなおも獄中にあった。(略)
 統治体制の転換によって、パシッチの政治的経歴の黄全期が始まった。彼と彼の政党は今や、セルビアの公的領域における支配的勢力となった。(略)
 死刑宣告、長期の亡命生活、常時監視されて暮らしていたことからくる病的な猜疑心(略)注意深さや秘密主義、斜に構えたやり口が、彼の習い性であった。(略)自分の考えや決定を紙に記そうとしなかったし、それどころか口にしようとすらしなかった。パシッチには、公的なものにせよ私的なものにせよ、定期的に書類を燃やしてしまう習慣があった。彼は年経るにつれて、揉め事が起こりそうな状況では受け身の姿勢をとるのを好むようになり、最後の瞬間まで手の内を明かそうとしなくなっていった。彼は実利主義的で、敵対者たちの目にはまったくもって無原則な人間であるようにさえ映った。(略)
パシッチは国王殺しの陰謀が進行していると知らされていたが、秘密を守りつつも、実際の行動に巻き込まれるのは拒否した。宮廷襲撃の前日に作戦計画の詳細が自分のところに伝わってくると、いかにも彼らしいことに、パシッチは家族を連れて、当時はオーストリア領であったアドリア海沿岸に列車で向かい、成り行きを見守った。

テロリストたち

陰鬱で若々しく、理想に満ち満ちているが経験には乏しいという気質は、まさしく近現代のテロリスト運動の好餌であった。アルコールは好みではなかった。ロマンチックな気質ゆえに、異性愛者であったにもかかわらず、彼らは若い女性たちとの付き合いを求めなかった。彼らは民族主義者の詩作や、あるいは失地回復主義者の新聞や、パンフレットを読んだ。少年たちはセルビア民族の苦難に思いを馳せ、セルビア人以外のすべてにその責任を帰し、最底辺の同郷人が被った侮辱や屈辱をも、まるで自分たちが同じ目に遭ったかのごとく受け止めた。繰り返されたのは、オーストリア官憲によるボスニア農村住民の経済的零落という主題であった(略)犠牲が彼らの頭の中心を占め、ほとんど強迫観念になっていた。
(略)
暗殺者全員にとってベオグラードは、自分たちの政治性を急進化させ、セルビア統合の大義と結びつくためのるつぼであった。
(略)
コーヒーハウスという溜まり場は、ベオグラードに住むボスニアセルビア人の青年たちに帰属意識を与えてくれた。(略)「どんぐりの花輪」や「緑の花輪」、「小さな金魚」といった店に足しげく通い(略)「あらゆる種類の会話」を耳にし、「学生や植字工」や「パルチザン」と、しかし何よりボスニアセルビア人たちと交わった。若者たちはそこで腹を満たし、タバコをくゆらせ、政治談義をしたり(略)オーストリア皇位継承者の暗殺の可能性について[熟考した]
(略)
 暗殺の訓練はセルビアの首都で行われた。(略)
[自白などでベオグラードが指弾されぬよう]
指令では、暗殺を実行したら直ちに拳銃で、しくじったら青酸カリを飲んで自決することになっていた。(略)
自分たちの行動を殉死の行為と思っている少年たちには、こうしたことは満足のいくものであった。

パシッチ

[パシッチは暗殺の動きを知っていたが、それをオーストリアに伝えなかった]
 パシッチもまた、複雑な動機に基づいて行動していた。一方で彼は、明らかな裏切り行為と思われるに違いない行動をとったら、「統一か死か!」と手を結んでいるネットワークがどう出るかを懸念していた(略)
パシッチは彼らの行き過ぎを遺憾に思っていたかもしれないが、彼らを公然と否認はできなかった。実際のところ、彼らの行動に気づいていることを公表するだけでも危険であった。(略)
セルビアは過去に民族主義者のネットワークを必要としてきたが、パシッチの悲願であったボスニアヘルツェゴヴィナを全セルビア人のために奪還する日が訪れた暁には、再びこれらのネットワークが頼りとなるはずだったのである。
(略)
彼が、とりわけ二度のバルカン戦争の惨事の後にセルビアが力を回復するためには、セルビアには平和が必要だと理解していたということである。新たに併合された地域の統合――本質的暴力とトラウマに満ちた過程であった――は、始まったばかりであった。実施せざるをえない選挙が目前に迫っていた。(略)
パシッチは平和を望んだが、セルビアの膨張の歴史の最終局面はきっと戦争なしでは達成されないだろうと信じてもいた――彼はこの信念を隠しはしなかった。列強を巻き込む大きな紛争がヨーロッパで起こればそれだけで、セルビアの「再統一」の前に立ちふさがる手強い障害が取り除かれるのに十分だろう、と。
(略)
秘密主義で、こそこそとしていて、うんざりするほど慎重。こうした特徴は(略)
テロリストたちがサライェヴォで自らの使命を果たした後にセルビアを飲み込んだ危機に対しては、危険なほどに不向きだったのである。

困ったパートナー・セルビア

[従順なパートナーであった]セルビア国王ミランは厄介なパートナーになりえた。1885年、国王は退位して、息子をオーストリアの学校に送り、自分の王国を帝国が併合するのを認めると言い出して、ヴィーンに混乱を巻き起こした。オーストリア側はこうした与太話には乗らなかった。(略)
[四ヶ月後]ミランは突如としてロシアの従属国である隣国、ブルガリアに侵攻した。その結果生じた紛争は、セルビア軍がたやすくブルガリア軍によって撃退されたためにすぐに片がついたが、この予期せぬ行動でオーストリアとロシアのデタントに波風が立たないようにするためには、精力的な列強外交が必要となったのであった。
 息子は父親よりもはるかに常軌を逸していることが明らかになった。アレクサンダルは自国に対するオーストリアハンガリーの支援を過大に誇り、1899年に、「セルビアの敵はオーストリアハンガリーの敵である」と口にしてはばからなかった――この失言にサンクトペテルブルクは目くじらを立て、ヴィーンは大いに困惑させられることとなった。しかし彼はさらに、親ロシア政策の利点に魅惑されてもいた。王父ミランが死去した後、1902年には、国王アレクサンダルは精力的にロシアの支援を請い求めるようになった。彼はサンクトペテルブルクでジャーナリストに向かって、ハプスブルク君主国は「セルビアの不倶戴天の敵」だとさえ公言している。かくして、ヴィーンの政治家たちは皆、国王一派を皆殺しにした蛮行に衝撃を受けたにもかかわらず、アレクサンダルの早世の報に接して、それほど残念には思わなかったのであった。(略)
ヴィーンの外務省は楽観的に、王位簒奪者のペータル・カラジョルジェヴィチを親オーストリア的な性質の持ち主と見なし、彼と早いこと懇ろになろうとしていた。(略)
[しかし]政治の舵取りは二重君主国への敵意を大っぴらに示す人々の手に移り、ヴィーンの政策決定者たちは、今や政府の規制から解政されたべオグラードの新聞が吐き出す民族主義的な言説をますます熱心に研究するようになった。
(略)
[セルビアとブルガリの「秘密の」関税同盟が発覚]
1906年初頭にヴィーンはこの同盟を撤回するようベオグラードに迫ったが、逆効果となった。この行為によってとりわけ、大部分のセルビア人にはどうでもいい問題であったブルガリアとの関税同盟が(略)セルビア民族主義的世論の熱狂の的になってしまったのである。

次回に続く。
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