ヒトラー語録

ヒトラー語録

ヒトラー語録

  • 発売日: 2011/05/13
  • メディア: 単行本

序にかえて

ルドルフ・ヘスの論文から

1921年、当時まだ学生であったルドルフ・ヘスは次のようなことを書いている。


 どんな才能を備えた人間が、ドイツの国をもう一度立派にたて直すのであろうか。(略)
 彼はその弁説によって、労働者達を徹底的な国家主義へと誘導する。国際的な社会主義であるマルクスの世界観を粉砕し、その代わりに国家社会主流の思想をうえつける。労働者たちを、いわゆるインテリに対するように教育する。つまり、自分の利益よりも全体の利益が優先する。まず国家があって次に個人があると。
 このように国家と社会とを一致させることが我々の時代の転換点となるのである。指導者たるものは時代の健全な精神指向を読みとって、これを燃えるような理念にねり上げ、これを再び大衆に投げ返さなければならない。
 独裁者が最初から広汎な大衆に深く根をおろしていればいるほど大衆を心理的に動かしやすい。
(略)
 国民を救うために独裁者はデマゴーグ、スローガン、デモ行進等、敵方の手段を利用することをも躊躇しない。
 緊急の場合は流血も辞さない。大きな問題はいつも血と鉄で解決されるものだ。独裁者の眼中にはひたすら目的達成があるのでありそのためには最も身近な友人すら踏み越える。(略)

バチカン

 ムッソリーニ自体は、奔放な男である。だが彼は譲歩をした。私と同じように、革命的な面に向った方が良かったろうに。私だったら、バチカンに兵を送りこの全組織を接収させる。そうしたあとで、「これは失礼しました。私は何も知りませんでした」と言うであろう。とにかくそれでこのバチカンというものは無くなってしまうのだから。
 [註]ヒトラーにとって、バチカン法皇は極めて不快な存在であった。つねに、ヒトラームッソリーニの行なうことを妨害したので、ヒトラーは、法皇はいなくなった方がよいと考えていた。

日本

 我々は不運にも、持つ宗教を間違った。日本人が持っているような、祖国のために我が身を犠牲にすることを最善とする宗教を、我々はなぜ持たなかったのだろうか。
(略)
 小心な政治家の一派が勢力を得そうなときは、それに介入することが軍の義務であることを防衛軍は学ぶべきである。日本の軍隊がそれを行って見せたように。

マルキシズム

 解体の世界観としてのマルキシズムは、労働運動を、自分らが国家や人間社会に対し必殺の武器をもって攻撃をかける一つのチャンスであると鋭くも看破した。労働者を助けるためではない。この国際的な使徒にとって或る国の労働者が何の意味があろうか。全く問題にはならないのである。彼ら自身労働者ではないし、民衆とも関係のない文士であり、民衆と無縁の賤民である。

民主主義

 民主主義の世界では、首相や国防大臣というものは同時に多くの軍需会社の株主である。その利害関係は自らはっきりしている。
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 民主主義の観点からすれば、英雄的行為や自己犠牲あるいは義務の履行などはむしろ個人を損なう重荷である。つまり、他人のため、多くの人間のため、あるいは全員のために危険をおかすなどということは愚かだというのである。だから民主主義の下で最も愚劣な機構は軍隊だということになる。他人のために我が身を銃弾にさらすという、狂ったことを考えついた人間の集まりが軍隊だからである。民主主義者の本来の姿は常に平和主義者である。愚かな他人が自分に代わってやってくれるであろうという期待のもとに、自分自身は一向に動く必要を感じない平和主義者である。そこで次のような状態が生れる。(代わりにやってくれる)愚かな者自体は必要で、それが犯罪者を捕える警察官であり兵士であるが、これらを従えている必要がある。この愚か者たちは、もちろん愚かであるが故に勇敢でなければならず、他人のために我が身を犠牲にしなければならない。そして政治の指導者は利口でなければならない。そしてこの利口な人間は臆病者である。利口な人たちは我が身を守って決して危険に近づかないから、真に利口な人たちは臆病になる。利口であればあるほど臆病になるわけで、かくて政治指導者は臆病者の極みとなる。
 このような状態は徹底的に拭い去らねばならない。(略)
 政治指導というものは個人的にも勇気ある人たちの手によって終始果敢に行なわれることが絶対に必要である。

ヒトラー自身

 私は戦場には出ない。負傷して生きてロシアの手に落ちることの危険は余りにも大きい。敵が私の肉体をいじくり廻すことも許されぬ。私が死んだら燃やす手筈となっている。

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