ヴィヴィアン・ウエストウッド自伝 パンクの女王

 

マルコム・マクラーレン

マルコムに会って、わたしは恋に落ちた。すてきな人だと思った。そして、今もその気持ちは変わらない。(略)
彼はカリスマ性があって、才能豊かだった。本当に彼のことが好きだった。ハチャメチャなところがあったけれど、それでも彼のことをもっと知りたいと思っていた。――ヴィヴィアン・ウエストウッド
(略)
「こう見えて恋愛経験はあまりないの。本当に少ないのよ。恋人の数もこの手で数えられるくらい(略)
本当にあまり経験がないの。男性経験という意味よ。わたしは恋人がいるときは、いつだってその人一筋だから。(略)
マルコムは、わたしにとって、はじめての『知的な』男性だったと思う。それまではそういう人がわたしのまわりにいなかったの」
(略)
[マルコムの祖母は]女優を目指していたが、結局は劇場の女主人になり、けちな美術品詐欺師を経て、傍若無人なステージママならぬ、ステージおばあちゃんになった。さらに衝撃の事実(略)[母は親戚から「売春婦」呼ばわりされており、実際]「高級娼婦」という言葉が近かった。(略)
「マルコムは母親の愛情を知らずに育ったの。彼がもめごとを引き起こす原因はすべてそこにある(略)
そりゃそうだよ、実の母親からは拒絶されるし、おまけに、実の祖母は頭がおかしい人だったから」
(略)
[マルコムは]自信過剰のくせに誰よりも愛情を欲しているというかなり厄介な性格の持ち主だった。(略)人の目を幻惑させる花火を次々と仕掛けることで、完全に拒絶されることへの恐怖心に打ち勝ちたいという強い欲求があったことは疑いようもない。だからこそ、彼は、メディアを、自分の祖母を、ヴィヴィアンを次々と幻惑していった。
(略)
大口を叩く傾向があり、真実という概念の意識が希薄で、人々の注意を惹きたいという欲求がどこまでも強かった。これにはおそらく、ローズの影響が大きいのだろう。彼の祖母はいささか乱暴なほど型破りな性格だった。「良い子でいるのはつまらない。もし度胸があるなら、悪いことでもなんでもやればいい」というのがモットーで、働かなくてもビクビクするな、と口癖のように孫に言っていた。
(略)
「真っ白な顔に真っ赤な大きい穴が開いている。彼の口ってそんな感じだったのよ。口を開いたときは、なんとなくこわかった。でも、それと同時に、彼がはかなげで今にも壊れてしまいそうにもみえた。マルコムはしつこく私に言い寄ってきた。わたしにその気はなかったわ。(略)彼は活力があって、刺激的で、博識で、一緒にいてとても楽しい人だった。それに、同情の気持ちもあったわね。彼って自分で自分の面倒がみられないの。
(略)
[仮病でヴィヴィアンの気を引いたマルコム]
「もちろん、甘い言葉でだまして彼女のベッドに潜り込んでやろうと思ってね。(略)女教師のベッドに入ってみたらどんなふうに……。すべてはちょっとした出来心だったんだ」(略)
[当時3歳だった息子のベン談]
「(略)つまり自分がもし20歳で、3歳の子どもがいる25歳の女と同居するようになって、しかも、自分が童貞で、なんとなくいい雰囲気になって、そういうことをしたいと思っていたら、子どもにその辺をうろうろしていてほしいなんて思う?」(略)
[弟の]ゴードンは当時ショックを受けたようだ。「(略)だって実の姉と親友だよ。(略)マルコムにはそれまで彼女もいたことがなかったんだよ。(略)しばらく僕は姉と親友も両方を失ったんだ」

フェティシズム

「黒は虚飾の廃止宣言なのだ」とマルコムは主張していた。そして「虚無感。倦怠感。そして、空虚感……。ファッションに翻訳されたセックスは盲目的崇拝[フェティシズム]の対象となっていった。盲目的崇拝はまさに若さの化身なのだ」。マルコムが記したその言葉に対して「そうね」と、ヴィヴィアンが感慨深げに言った。「(略)『若さゆえの不道徳性に対する基本的な信頼』とは、『それが何度でも繰り返し主張されなくてはいけない』ということ……フェティシズムって、つまり、カミソリに欠かせない刃のようなものね。ぞくぞくするような生と死の境目。そう、たしかにそれはまちがいない。そこはわたしも声を大にして言うわ」
(略)
「最初は、テディ・ボーイとかロッカーとか、若者たちの反抗のスタイルに興味があってはじめたことだった。その既存のスタイルにわたしたちが性的な要素を持ち込んだの。それが、導火線に火をつけたのね」

ニューヨーク・ドールズリチャード・ヘル

[デボラ・ハリー談]
「当時わたしはニューヨーク・ドールズの追っかけをしていた。(略)
マルコム・マクラーレンが、借りていたステーション・ワゴンを止め、そのまま駐車してトランクを開けると、箱をいくつも出してきた。そして、彼のパートナーだったヴィヴィアンがデザインしたゴム製のすごい衣装をずらりと並べて売りはじめたの。奪い合いになってたわよ。まさに、服の争奪戦だった、しかも、西13丁目で!」
(略)
[マルコムは1974年にはファッションからは手を引きプロモーターになる決心]
ニューヨーク・ドールズは、ゴム製のファッションに身を包み、聖職者用のものではないドッグ・カラーをつけ、イギー・ボッブやルー・リードをはじめ、彼らの親衛隊である、クラブ通いのヘロイン中毒のティーンエイジャーたちを引き連れて歩いていた。(略)
当時はまだロックンロール路線であったヴィヴィアンとマルコムは衝撃を受けた。「あまりの大音量で、音が向こうの壁に衝突したみたいな気がした。とにかくスケールが大きくて……。これまでとは真逆の感性で、マルコムのポップス熱にまたしても火がついたの」(略)
[二人はドールズ経由でリチャード・ヘルを意識するように]
とにかくすごいやつだと思った……何もかもぶっ壊して、引き裂いていた。まるで排水溝の穴から這い出してきたみたいだった。(略)いつも破れたTシャツを着ている、くたびれてよれよれの傷だらけの汚い男。そういえば、当時安全ピンはをつけてたっけ?つけていたかもしれないな。とにかく、それがやつのイメージだ。短い髪を逆立てて、なにもかもそんな感じだった。それで、そのイメージをロンドンに持ち帰ったわけ。僕はすっかり感化され、それを真似てイギリス風にアレンジしたんだ
(略)
[ヴィヴィアンの安全ピン論争見解]
「ジョニーは耳に安全ピンをつけてた。シドはピンクのギャバジンのパンツをもっていて(略)[麻薬中毒者がシドの留守にそれを切り裂いたので]安全ピンで切れ切れになった布をつなげたらしい。それで、彼がそのパンツをはいて店に入ってきたの。トイレットペーパーをネクタイ代わりに首に巻いてたのも覚えているわ。
(略)
ジョニー・ロットンの目には、パンク・ファッションを確立したのはヴィヴィアンだと映っている。それに対してヴィヴィアンは、安全ピンを使ったファッションの元祖はロットンだと認識している。(略)
最も物議を醸したモチーフ、かぎ十字をヴィヴィアンとマルコムにもたらしたのはアメリカであり、ニューヨーク・ドールズであった。(略)
[ヨハンセンは高校時代から反抗心の表現としてスカルと同じ感覚でナチ党のマークをいたずら書きしていた]
「極悪非道であるかを世間に知らしめたいと思うと、こういうやり方になるんだ」[とヨハンセン](略)
[ヴィヴィアン談]
「マルコムは、とにかく世間をあっと言わせたいという気持ちが強かったの。(略)かぎ十字のことも、マルコムはユダヤ人だったから、そういう行動に出るには彼なりの理由があった。(略)タブー視されることに対する反発心もあったの」

セックス・ピストルズ

私のお気に入りはスティーヴ・ジョーンズよ。スティーヴのことは本当に好きだった。それから、シドとも仲が良かったわ。シドは本物のワルだった。彼は、とにかくやっていいことと悪いことの区別がつかなかったのよ。(略)でもすごく頭のいい人だった。とても華やかで好奇心旺盛。そして、興味を惹く存在だった。
(略)
「マルコムは族のリーダーにはなれても、独裁者の器ではなかった。本人はそうなりたいと思っていたけど。学生気分のままで、一緒に悪さをする子分がほしかったのね。(略)
で、とにかく彼はウォーリーをクビにしたの。スティーヴ・ジョーンズはヴォーカルよりギタリストが向いていると彼は判断した。スティーヴは歌うとき裏声を使っていて、なかなかすてきだったのよ、本当は。でも、彼らの最初のライヴは、「ハプニングにならないハプニング」になった。それでマルコムはようやくわかったの。リード・ヴォーカルはクリッシー・ハインドに頼むとほぼ決めてたくせに、土壇場でやめちゃった。結局、マルコムにとって、自分の「子分」は若僧でなければいけなかったのね。わかってもらいたいのは、あのときはなんの野望もなかったってこと。マルコムはひとつの状況を生み出して、それを強引に推し進める人だった。勝利するまで挑戦するタイプ。体制をぶち壊すまで挑戦を止めないの。(略)
ピストルズが満足な演奏をできないことは逆に市場戦略になるとマルコムは信じ込んでいた。ロットンに関しては、マルコムがいつも言っていたわ。僕の考えはあいつの中にある、って。彼とマルコムはふたりともいい加減だった。ダンスしようと誘ってくるくせに、いざ一緒にダンスをしたら追い払うタイプ。マルコムはロットンの生き方が大好きだった。はじめてのオーディションがあった日、マルコムは帰宅して言ったわ。緑の髪のガキにしたよ、って。ロットンの歌はとても聴けた代物ではなかったけれど、マルコムはそういうところも気に入っていたし、声が大きくて態度がふてぶてしいところも大好きだった。でも、実際にふたりの気が合うかと言えば、決してそうではなかった。自我と自我のぶつかり合いだったわね。こう言ってはなんだけど、ロットンは典型的なアイルランド人だった。友達とけんかをしては、仲直りに腕を組んで酒瓶を空けるという感じね。

ニュー・ロマンティック

セックス・ピストルズパンク・ロックにかかりきりの頃は、自分をデザイナーだと思ったことは一度もなかったわ」。しかし、その後、彼女はデザイナーとしての自覚をもつようになった。
 「経緯を話せばこういうことよ。セックス・ピストルズが終焉を迎えて、わたしたちは店を、つまり、セディショナリーズを閉めたの。賃貸契約が切れてしまって、わたしは継続するかやめるかの選択を迫られた。マルコムに言ったわ。『わたしがあなたの音楽事業を助けてもいいし、あなたがわたしのファッション事業を手伝ってくれてもいいのよ』って。そしたら、彼は言った。『どんなときでも、とにかくファッションだ』。そして、マルコムはわたしに今後の狙い目を教えてくれた。『これからはロマンティックの時代だよ』。正直驚いたわ。まさか彼の口からそんな言葉を聞くとは思わなかったから。以後、人に次の路線はなにかと訊かれるたびに、わたしはこう答えていた。『次はロマンティック路線よ』って。そのあとすぐ、例の連中が登場してきて、自分たちのことをいきなり『ニュー・ロマンティック』と呼びはじめたのよ。連中はフォックスのセールで舞台衣装を買ってた。中にはすごくかっこいい子もいたわよ。DJのジェレミー・ヒーリーなんかもそう。彼はすごくハンサム、で、スタイル抜群だった。髪を脱色してからグレーに染め直して、それを結んでおさげみたいに後ろに垂らしていたわね。(略)
彼がきっかけですべてがはじまったんだとわたしは思っている。まちがいないわ。それで、マルコムは彼を見て『ロマンティック』という発想が浮かんだんでしょうね。(略)
「その時期よ、アダム・アントが自分と、自分のバンド、ジ・アンツのマネージメントを引き受けてほしいとマルコムに頼んできたのは。マルコムがまず手はじめにやったことは、アダムを追い出して新たなヴォーカルを探すことだった。そして、最終的にドライ・クリーニング店で働いていたアナベラという若い女性を発掘し、バンド名をバウ・ワウ・ワウに改めたの」
 「わたしが心惹かれたスタイルは、教師をしていたときに生徒と一緒にたまたま目にした、フランス革命当時の服装や絵画、彫刻の類いだった。(略)
メルヴェイユと呼ばれる洒落女たちは、ア・ラ・ヴィクティムという髪型に短く刈り上げ、モスリンの長細いドレスを着て、バストの下を縛り、身体に密着するようにドレスを湿らせていた。ギリシア彫刻の衣装をイメージしていたのでしょうね。ちなみに、そのドレスはパイレーツ・コレクションでも登場したのよ。ただ、マルコムの指示で、あえてギリシア風スタイルにはしないでペイントしたナチスのヘルメットをコーディネートしたの。
(略)
 「その頃マルコムはわたしのそばにはいなかった。ミキシング・ミュージックにのめり込んでいた時期だったから。いろいろな人の曲をミックスして音楽をつくるの。無断借用だから、あれぞ海賊行為ね。彼はわたしに海賊ルックをつくってほしいと頼んできた。それで、わたしは歴史を振り返って、17世紀のマスケット銃兵スタイルに行き着いた。できる限り歴史に忠実にスタイルを真似たわ。自分の発見に胸が躍った。

ここらへんまでで半分、残りはブランドの成長物語。

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