クラッシュ結成

前日のつづき。
クラッシュ結成などというタイトルつけといてなんですがそこらへんの詳しい経緯は省略。

リデンプション・ソング ジョー・ストラマーの生涯

リデンプション・ソング ジョー・ストラマーの生涯

 

ジョーにふられたパロマがスリッツ結成

 パロマはフォスコート・ミューズにとどまり、ジル・カルヴァートの言葉を借りれば、「腹いせにスリッツを結成した」そうだ。「彼女は以前音楽にはまったく関心なかったのにね。ドラムをやることにしたの。みんなができるなら私にだってできるわって思ったのね。(略)
 当時14歳だったアリ・アップが当時を振り返る。「私のママとパロマが友達だったの。なのにジョーが私のママのところに来るようになっても、パロマを全然連れてこなかったわ。彼女からバンドをやろうって言われたときも、彼と付き合っていたって知らなかったくらいだもの。彼は私にギターを教えてくれた。ジョーのテレキャスターはすごく弾くのが難しくて、指で押さえるのが大変なのよ。彼は一言か二言ジョークを言うぐらいで、あとはいつもギターのコードを指でいじってた。ロック・スターって感じだったけど、すごく物静かだったわ。私にとっては兄貴みたいな存在ね。一度も私に言い寄ってくることはなかったし」

ファースト・コンタクト

 クラッシュ結成の神話については、繰り返し述べられてきた通り、ミック・ジョーンズ、ポール・シムノン、グレン・マトロックがある土曜日の午後、ナッシュヴィルの2回目のライヴが終わって、ジョーのもとへやって来たのが始まりだとされる。連中はジョーに「バンドはひどいが、お前のことは気に入った」と声をかけたそうだ。僕はジョーにそれは事実か確認してみたことがあるが、彼は即座にこう答えた。「いや実は違うんだ。俺が連中に会ったのは、リッソン・グローヴの社会保険事務所で失業給付をもらってサインしていたときだ。連中は変な顔で俺をじっと見ててさ。ケンカでも売る気かと思ったけど、ただ俺を見てるだけなんだ。

ラジオ4が世界の終わりを告げる

 1976年8月31日クラッシュは100クラブで再びピストルズをサポートした。ステージの最初の方で、キース・レヴィンのギターの弦が切れてそれを取り換えるため中断が入ると、ジョーはマイクにトランジスター・ラジオを掲げてスイッチを入れた。BBCニュースがステージから流れてきて、IRAの爆弾事件を伝えている。ピストルズサウンドエンジニアのデイヴ・グッドマンはそこにダブエコー処理を加えた。
 「ラジオ4で世界の終わりを告げているような感じだったね。中古屋で安いトランジスターを50ペンスで買っといたのが功を奏して、すごく効果的だったよ」とジョーは『スニッフィン・グルー』誌に語った。
(略)
10月23日(略)クラッシュはロンドンで初めて自分たちがメインのギグを行なった。(略)パティ・スミスがバンドと一緒にステージで踊ったが、ポール・シムノンは彼女が誰かまったくわからなかったそうだ。ただしこのライヴでは、後のポーグスのヴォーカルを担当するシェーン・マガウワンというパンク・ファンが耳を食いちぎられるという事件が起き、暗い影も落としている。

ファンジン

 その頃マーク・ペリー(通称マーク・P)という人物が『スニッフィン・グルー』という、お手軽印刷機で作った雑誌を売り出して「ファンジン」という言葉をパンクに広め、国内で何百という模倣雑誌を生んでいた。(略)
 1976年10月発行の第4号ではジョーとポールの写真が表紙を飾り

CBSと契約

 その夜、クラッシュはロキシーに行きパーティ代にと500ポンド払った。クラッシュのライヴが当時2ポンドだったことを考えると、これはかなり大見得を切った額だ。ミックとジョーはみんなの頭に酒を浴びせ契約を祝ったが、パロマをリーダーとするスリッツは冷ややかに距離を置き、彼らがメジャー・レーベルと契約したことに怒っていた。『スニッフィン・グルー』のコラムでも、連中が実際の裏取引を知らなかったからこうなったのだ、という非難が相次いだ。

ジョニー・グリーン(ロード・マネージャー)

ファンはいつもジョーが仕切り役だと思っていたようだけど、僕から見るとそれは違うね。ジョーがその気になれば、すごくダイナミックで力強いけど、普段はミックの方が主役だった。僕の目にはミックは几帳面で、ジョーは頭を上げて『何?』って言うぐらい周囲には無頓着だったよ」
 「クラッシュはミックのバンドと思えることが多かった。(略)ミックからは大きなエネルギーがあふれていた。リハーサルにやってくるのはいつも最後だったけど、さぼらなかったし、彼が入ってきてから他の3人のギアが入るんだ。ミックが遅刻しても許されるのは、それだけのことをやっていたからだね。

ひどく内気な性格なのにファンに対してはオープンに接するジョー

 だがフロントマンとしての彼の役割が急激に大きくなるにつれ、心理的にも精神的にも彼を蝕んでいたようで、以前僕が彼を見ていて気になっていた不機嫌さと刺々しさが戻ってきたのだ。ジョー・ストラマーでいることは、取り巻きのパンクの連中を毎晩ホテルまで送り届けるなどしてその責任を全うすることでもあり、それは24時間休まることがなかった。ジョー・ストラマーというペルソナは決して閉店するわけにはいかず、表面上は優しく酔いつぶれた態度でも、その裏ではずっとストレスを押し殺していたのだろう。

  • セカンド・アルバム

ジョーはプロデューサーにジョン・レノン起用を構想

  • 「I Fought The Law」

ミックとジョーが『動乱』の作業をしたサンフランシスコのスタジオにあったジュークボックスで初めて耳にしてカバー

確執

  • 1978年秋、マネージャー・バーニー・ローズの解雇をめぐってバンド内確執

そう決めたのは主にミックとポールで、ジョーもやむなくこれに同意した。バンドに付き物の話だが、内部の状況は複雑だ。実質的にバンドを結成したのはミックとバーニーで、バンドのマネージャーによくあるように、バーニーはミック、それからポールやジョーにとっても父親的存在だった(略)
 ジョーはバーニーの解雇に反対して、さらにことを複雑にさせた。「ここまで来れたのはバーニーのおかげだと言って、俺だけが反対したんだ」とジョーは言う。「俺だけが71年から色々つらい目に遭ってのた打ち回ったから、マネージャーのいない苦労がわかるんだ。バーニー抜きでバンドを続けていこうっていうのは恩知らずもいいとこさ。バーニーみたいな人間にはなかなか出会えないのに、ミックとポールは『こんなの誰だってできるぜ』って思ってたんだ。

中途半端なところですが他にやることもあるので明日につづく。このペースだといつ終わるのやら。
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