歴史を繰り返すな/坂野潤治、山口二郎

歴史を繰り返すな

歴史を繰り返すな

日露戦争

坂野 日露戦争のあと、ロシアと日本は満州の権益を北と南に分けてしまう。あの日から中国人の反日感情にはものすごいものがあるんです。満州権益を奪回するために、すべての中国の改革派・革命家が富国強兵に努めてくる。日本の方は、元老の山県有朋が日露協商を結んで、分割したまま両帝国が共同して中国の権益奪回を抑え込もうとした。それと同時に、「帝国国防方針」(1907年)で陸軍はロシアを仮想敵にした。これで陸軍の中堅以下、一般国民も、ロシアが敵だと信じたわけです。
 でも、山県がその後も一貫して怖れていたのは、実は中国だったんです。中国がいつ権益を奪いに来るかということだった。それで、山県は、日中は同文同種であるとか、いろいろな言い回しを使って、アジア主義的な日中友好を死ぬまでずっと言っている。これは、反日運動、利権奪回運動を抑えるためです。日本にとって最大の問題が中国だということを、山県はわかっていたんです。(略)
[ロシア革命で]みんなもう安心だと思った。でも、山県にしてみたら、中国による権益奪回を一緒に防いでくれるはずのロシア帝国がなくなってしまったわけで、大変な事態だったんです。中国の利権回収運動に一国で対処しなければならなくなったわけだから。
(略)
[九カ国条約は]列強が中国の主権と領土を保全することを認めるというものです。これを積極的に推進したのは、日本では政友会の原敬高橋是清だった。彼らは、山県と同じように、反日感情が強く富国強兵に努めている中国こそ脅威だということを理解していたから、逆に中国に譲歩したわけです。
 その後、蒋介石の国民党軍が1926年に北伐を開始します。もし山県が生きていれば、そら見たことかと思ったでしょうが、関東軍をはじめ、陸軍の中堅将校はパニックになっちゃう。中国ナショナリズムを理解できずに、1930年代には中国と戦争を始めてしまう。

山口 石橋湛山が昔、朝鮮や満州を放棄せよと言ったのと同じような意味で、胆力が問われている状況だと思うのですが。
坂野 湛山の言った小日本主義というのは、戦争しない国家という意味ではなくて、損得勘定から満州権益は返せということです。日本が満州を領有して、日本人がそこで働けば、満州で作る物はかえって高くつく。それよりも満州に経済進出して、向こうの人が作ったものを日本に輸入したほうが安いから、満蒙権益を返せっていうのが湛山の議論です。あくまでも合理主義なんだ。

立憲主義

坂野 立憲主義というのは、自由民権運動に対抗して井上毅らが主張した思想です。そんな保守主義がリベラルの用語になったのは、1938年の国家総動員法に対する衆議院の反対論からです。この時に、立憲主義の担い手が変ったんだ。民政党斎藤隆夫をはじめ、みんな反対する時に何を言ったかというと、国家総動員法五箇条の御誓文に反するし、明治大帝が作りたもうた明治憲法に反するということなんです。事態がどんどん悪くなってくるところを、当時のリベラルは明治憲法体制にすがって守ろうとした。これが立憲主義だったわけです。戦後日本の知識人が行う憲法論の基本的な原点は、この1938年にあると思う。最後の防波堤で頑張ったけれどもそれが突破されたという戦前最後の記憶が、戦後の憲法学者やリベラルな知識人の頭にこびりついている。戦後はそれを守らないと、となった。それで、戦後の憲法論はずっと防衛的というか、守りの運動になってきたわけ。それが立憲主義なんです。でも、戦後もずっと護憲だけ言っているのを見ると、明治以来の民主化の話からすれば、お粗末に過ぎるのではないかと思うんです。自由民権運動は、政治参加をめざした民主化運動だった。僕はこれを「明治デモクラシー」と呼んだけれど、国会を開いて平民に政治参加させろという話で、基本的には士族と豪農の運動だった。
(略)
 戦前の日本には、民主主義を求めた下からの努力がずっとあったわけです。(略)
ところが、日中戦争が始まって、国家総動員法となる時、五箇条の御誓文明治憲法を守れというところまで戻ってしまった。そして戦後もそれと同じレベルで護憲論を張った。これはちょっとないんじゃないの?と思ってきたんです。

安保法制懇

大権政治というのは、穂積八束だけれど、天皇が国家の重要な政策を自由に決定できると解釈する。内閣政治は美濃部達吉で、内閣だけで憲法解釈をやっていくというもので、議会に諮ったり国民に訴えるなんていうことは一切考えていない。民本政治は吉野作造で、議会から変えていくという。だから美濃部と吉野は仲が悪いんだ。
 内閣決定だけで憲法九条二項の解釈を変えてしまおうとする安保法制懇は、この美濃部的な立場で、穂積憲法学の安倍首相とは立場が違う。しかし、日本国憲法は、議会と民意を最重視する吉野の「民本政治」に立っている。護憲派はこのことがわからないので、美濃部の「内閣政治」のままでいる。「内閣政治」という点では、石破幹事長と同じ立場の上で対立しているわけです。

陸海軍の体制エリートからの没落

坂野 戦前に日本が歩んだ戦争への道を振り返ってみると(略)陸海軍の体制エリートからの没落だったわけです。(略)
[ロンドン海軍軍縮条約]さらに美濃部達吉は陸海軍大臣の文官制を迫ったりします。そうしたことへの不満がどんどん募っていき、陸軍と海軍の青年将校たちは支配エリートとしての意識を失って、反体制エリートのつもりになっていくんです。社会主義者や右翼と同じような単なる反体制エリートになるのです。
 彼らは、軍事クーデターやテロをやったり、外では関東軍満州事変をでっち上げる。支配エリートならば、国策で決定してから動くわけですが、反体制エリートだから、現地軍が勝手にやっちゃうし、時の総理さえ殺してしまう。(略)
[政党内閣時代に入っても]軍人トップが政治エリートとして存続し、支配エリートの一翼を担っていたんです。ところが1925年の普選以来、陸軍・海軍は政策決定から排除されるようになる。その象徴が1930年のロンドン軍縮条約だったのです。政権を奪った政党が、ついに統帥権まで奪おうとしているというのが海軍青年将校の理解だった。
(略)
海軍条約の時から政党内閣は軍縮一辺倒。原敬は満蒙以外の占領地は全部返してしまおうと言うし、幣原喜重郎も協調外交だから中国への出兵はしない。非常な孤立感が1920年代から陸海軍には深まっていて、それがとうとう決起するまでに至った。反体制化すると、もうエリートとはいえないよね。(略)
 永田鉄山だ、東条英機だ、石原莞爾だってみんな過大評価しすぎだと思う。(略)それ以前の陸軍のリーダーから比べたら、状況認識も政治力もガタッと落ちているんだ。在野的勢力になれば、世界認識も狂うし、局部的になってしまうのも当然。(略)
山県有朋桂太郎寺内正毅田中義一宇垣一成あたりまでは保持されていたエリートとしての国際認識と冷徹さみたいなものが、陸海軍から失われてしまった。と同時に、日露戦争以後の中国の満州権益奪回熱に対する警戒心というものも、日本のエリートからなくなっていく。中国は侮れないということは、日露戦争に勝って以来、エリートはみんな知っていたのに。
 実際、1931年の満州事変では、中国は日本軍に抵抗しないで引くわけです。あれは向こうが合理的だった。その後、中国は準備をして、1937年の廬溝橋になると今度はやってやると、絶対に引かない。陸軍は日中戦争なんて簡単に片付くと高をくくっていたけれど、どんどん泥沼に陥っていくんだ。
(略)
日本の戦犯たちはエリートじゃなかった。反体制エリートだから責任意識なんてものがあるわけがないんです。
(略)
僕には、反体制エリートが総理大臣になったのが今の安倍晋三のように見えるんです。

なぜ「反戦平和」しか思いつかなかったか

坂野 戦後の三井三池以前までは階級的な労働運動があったのに、所得再配分格差是正的な発想を前面に出した社会民主主義勢力が生まれなかったのはどうしてか。福祉国家的な議論が出てこなかった一因は、僕は戦時体制にあると見ているということを言っておきたいんです。
 1937年に日中戦争が始まって、38年から7年間、格差のボトムアップが戦時体制の中で行われていったんです。例えば、新潟の、西山光一という小作農は、戦時体制の中でどんどん富を貯めて、自分の小作地を買い戻して、農地改革が起こる前に自前で自作農になった。(略)戦時体制中に自力で自作になれたのです。そういうことを考えると、戦時体制というのは、それ以前にあった農村社会の五階級、寄生地主・手作地主・自作農・自小作・小作という区分をなくしていったのです。
同じような戦時体制化の変化は、労働運動にもあったようです。産業報国会のように「上からのファシズム」と言われている体制の下で、労働運動の自由を失う代わりに、大企業の工場委員会は事実上生き延び、それが戦後の大企業中心の労働組合の基盤になったとも言われている。(略)
しかし、戦後の音頭を取ったのは[獄中にいた人々で](略)総力戦体制下で企画院と一緒に国家運営をするというような経験はないわけです。(略)だから彼らには、戦後改革が終わったらどういう国家を作るかという目標はなかったわけですね。基本的には、「反戦平和」しか思いつかなかった。
(略)
戦後知識人も左翼も根こそぎ戦時体制を否定してしまったから、国家運営の基礎がなくなったということも一因にはあるんです、実際に戦争下で平等化が行われたことは明らかです。そこには大政翼賛会とか産業報国会とか、そういうところにもぐり込んで運営していた旧社会主義者の連中がいたことも事実。それが戦後には伝わらなかった。しかし、この問題の評価は難しい。それを理由に、「総力戦」や「総力戦体制」にも良いところがあったという議論には賛同できない。本末が逆転していると思う。
 今僕が考えているのは、戦争がなくても社会の自立的な発展として平等化が起きたのではないかということ。普通選挙制もできて10年以上たてば、自然とああいうことが起こったのではないかと思うんです。社会的な平等化というのは、明治デモクラシーや大正デモクラシーから受け継いで、民主主義的に達成できたはずではないかな。

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