感じるスコラ哲学:存在と神を味わった中世

第六章だけチラ読み。

感じるスコラ哲学:存在と神を味わった中世

感じるスコラ哲学:存在と神を味わった中世

主意主義主知主義

 主意主義とは愛と感情を重視する系譜なのです。主意主義とは、他のところでも語ったように、方向も定めずに無謀に突き進むことでも、一つに決まった目標地点を一心不乱に追い求めることでもなく、目的地を探し、見定めるために愛と感情を重んじる系譜なのです。
 主意主義という語はかなり新しい言葉で、19世紀になってから作られたものです。
(略)
トマス・アクィナスは、アリストテレスが12世紀にヨーロッパに紹介されるようになって、その伝統を新たにキリスト教神学に組み込むべく、壮大なゴシック建築の教会に見紛うほどの神学体系を築き上げました。それは知性を重視するもので「主知主義」と名づけるに相応しいものでした。そして、トマス・アクィナスが属していたドミニコ会と、それに対抗していたわけではないのですが、役回り上、対抗すべく想定されたフランシスコ会は、知的な闘争を行ったかのような物語が作り上げられていきます。
(略)
19世紀的な哲学地図の中で「主意主義」は構成され、適用されるべき思想が探し求められます。そして、それはドミニコ会主知主義に対抗するように期待されたフランシスコ会の中に探し求められます。実のところ、ドミニコ会フランシスコ会は、13世紀のパリ大学の中では、托鉢修道会の教育を快く思わなかった在俗教師団からの闘争に対して、同じ利害関係に立つ仲間だったのです。共闘を組みはしなかったとしても、対立していたわけではありません。圧倒的知的優位を確立したトマス・アクィナスヘの対抗を期待されて、フランシスコ会のドゥンス・スコトゥスは後に苦悩することになります。

自由意思と〈自由意志〉

自由意思(arbitrium liberum)は、選択肢から選択する能力でしかありません。arbiterとは、「審判者、裁き手」で、有罪か無罪か、セーフかアウトかを決める者です。白黒どちらを選ぶかは自由であっても、それ以外の選択肢は与えられていません。あくまで二つのどちらか一方を選ぶ程度の裁量権しか与えられていないのです。他方、〈自由意志〉は、愛や至福の主体となる人格的な能力であり、次元を異にする能力なのです。
(略)
「自然的意志」は「自然的欲求」とほぼ重なります。自然的欲求とは、事物が自らの固有の完全性を目指しての自然的傾向性であるとスコトゥスは整理します(略)
 自然的意志とは、のどの渇いた人が泉に駆け寄る姿を見ても分かるように、自然本性がその人を運動へと掻き立てます。強い意志によって、名誉や金銭に向かう人が、人から押されたり引っ張られたりすることがなくても、自ら進んでいくのと同じように、外からの働きがないまま、進んでいくからこそ「自然的意志」と呼びならわしたのでしょう。現代において、その事態に「意志」を適用することはありません。中世は、自発的な運動の様子を「意志」と呼んでいたのです。しかし、これは能動とは見なされていません。自由な自発的運動にしか、能動は適用されていないのです。
 そして、このテキストには、「絶対的意志(voluntas absoluta)」という特異な表現も出てきます。これは何でしょうか。(略)
[「絶対的」というのは]中世では「他から切り難されて、それ自体で」という意味で用いられます。すると、絶対的意志とは、自然に拘束はされているが、それ以外には、何ら拘束されていない意志と考えることができます。自然的意志とは、ありのままの自然本性の発露ということなのです。それだけでは自由な意志とは言えません。
 本来の意志と言えるのは、やはり〈自由意志〉の方で、対象に向かっての推進力である自然的傾向と自らの選択による自由な傾向、受動的傾向と能動的傾向の二つの契機からなるとスコトゥスは考えていたと思われます。
 ここでも「自由」ということが問題になってくるのですが、素性の善くない、扱いにくい概念だとつくづく思います。「自由」という言葉は、日本語では罪深い用語で、多くの誤解を引き起こしてきました。自由は「放恣」と異なるのですが、「自分のしたいことができること」と捉えられてきました。
 「自由」とは、古い意味では「自らに由ること」、したがって勝手気ままに振る舞うことを意味するものとして仏教用語として用いられていました。freedomやlibertyの翻訳として「自由」を使うのは不都合だったわけです。(略)
だからこそ、福澤は、自由の意味を説き明かすために、あえて「自由は不自由の中に在り」と逆説的な仕方で自由を語っています。他人を妨げないという一定の不自由を内包したものが本当の「自由」であると考えられています。
(略)
自由とは多くの制約の条件下においてしか成り立たない、自由を担うに足る条件を備えた者に許される「不自由」な状態なのです(略)
自由には、自らは能動的でありながら自分で制御できない弾みのごとき側面と、能動性を制御して目的との関連で分岐がある場合には望ましい方向を選択しながら進むような側面が存在しています。つまり、行為の起点・源泉が、自己の内にありながらも、その行為の制御の仕方において、異なる二類型が存在しているのです。