ロック変動時代 1971~1977『ミュージックライフ』

『ミュージックライフ』記事をまとめた本。

ポール・マッカートニー単独会見
 

バングラ・デシュ・コンサートへの参加を拒否した理由

[アビー・ロード・スタジオでのインタビュー]
他のビートルズヘの彼の態度には、「嫌悪」よりも、むしろ「同情」があった。(略)[アラン・クレインに三人が]操られているんだということをポールは気にしていたが、それを彼等に注意することに疲れてしまっている。(略)
「ぼくはいつもあの辺に坐ってベースを弾いていた。ジョンはここからぼくを見ていた。ぼくが彼にむかって演奏している曲を本当に理解しようと努力している様だったな。だから、ぼくの作ったのは“イエスタデイ”だけだなんていえないはずだ。ぼくも彼も本当のことを知っているんだから、なおさらね」(略)
『未だに古い契約書のためにぼくの歌は自分のものじゃない。印税は入って来るが、もし今、ぼくがリンダと歌を作れば、リンダにはそんな才能がないって、ぼくは告訴されるんだ。現にぼくは、ノーザン・ソングス(音楽出版社)からロンドンとニューヨークで、100万ドルづつ支払えと訴えられているのさ』
 その有効期間はあと7年ある、とポールはいう。それまでは法律により、ビートルズの一員でいなければならないのだ。
(略)
連中はそれで充分に稼いださ。だからぼく達は仲直りしてすっきりしたいのさ。でもそうすることが厭だというのがいてね』
(略)
 『ぼくもそのコンサートに参加してくれとたのまれたんだ、でも行かなかった。それは、ぼくが参加すれば,ビートルズがカムバックしたと世界中の芸能記者が騒ぎたてるだろうし、アラン・クレインを大変喜ばせてしまうだけだからいやなんだってジョージにはいったさ。(略)
クレインのためじゃないと割り切ってやればよかったかな。彼は非常に口のウマイ男なんだ。だから皆んながまるめこまれちゃってね。アラン・クレインについての忠告の仕方がマズかったから,他のメンバーを怒らせてしまったんだ。でもぼくの言ってることが正しいと彼等が心の片隅で思ってると、ぼくは信じているんだよ』
(略)
 話題は又かわり、ビートルズ解散寸前の彼等の話し合いのことになった……。『ジョンは、トロントでなんかデカイことをやりたいといっていたが、ぼくはそんなこと考えられなかった。“ビートルズ”のことで頭がいっばいだったから』
 『後になってぼくがやりたいと思ったのは、ほろ付きの大荷車でも使って歩き、スロー・タウン・ホールでの土曜コンサートみたいなところでの、宣伝なしの演奏だった。
 リッキー・アンド・ザ・レッド・ストリークスてな名前をつけて、好きな時に目を覚して、やりたい時に演奏するといった調子でね。新聞記者もいなければ、これから演奏がはじまるなんてことを、誰にもいう必要のないところで……。
 でも、ジョンはそんなことは気狂いじみてると思っていたんだ』
(略)
 『ぼくにとっては、キャバーンでのランチタイム・セッションの頃が一番楽しかった。食物を口にほうばったままステージに上ったりしたが、これから演奏をするんだと本当に感じることが出来たなあの頃は。よくアンプのヒューズがとんで演奏出来なくなり、直るまでパンのコマーシャル・ソングを歌っていたこともあったよ。歌うだけじゃなく、人の物真似なんかもやってね。キャバーンにはよくジェット・ハリスが出演していたので、彼の真似をずい分やったな。(略)
 『路上を楽器をかき鳴らしながら歩いて、近所の人に迷惑がられたのも、あの頃だった。そんなこと今じゃとても出来ないが、又やってみたいなと思っているんだ』
(略)
 最後に私は、尊敬出来るアーティストがいるかどうかをポールに聞いてみた。ポールはすかさずいった。
『“タイトン・アップ”を聴いたかい?あのビートはすごい。ぼく達の新しいアルバムの中の“ラブ・イズ・ストレンジ”のヴァージョンはあれにそっくりなんだ。ああいう感じのものが好きなんだ。それにギルバート・オサリバンも大へんいいね。T・レックスも同じぐらい好きだ。彼等は少女のファンがズボンを引き裂いて熱狂するような、新しい時代のビートルズになりそうだね。でもはじめのうちは嬉しくても、すぐにキャーキャーいわれることに厭気がさすだろう。グラハム・ナッシュのやってることも好きだね。(略)
最近のビーチ・ボーイズの「サーフズ・アップ」を聴いたかい?あれもいい。それか ……「メイビー・アイム・アメイズド」のロッド・スチュワートのヴァージョンの中のどの言葉もすごくいい……ロッドのやってきたことは全くいい――本当に』

特別寄稿 初めて明るみに出た事実!

ウィンター・ファミリーの呪われた血!!

ウィンター兄弟、その狂気の生きざま!

 生まれながらにして白子、おまけにやぶにらみでびっこのジョニー、大きく異様なまでのピンク色の瞳をもったエドガー、片輪という苛酷なハンディを背負いながらも移り変わりの激しいロック界を生き抜いてきたウィンター兄弟だ。
(略)
終りのない悪夢の中で生まれた2人の白子!!
 テキサス州、バーモント市にもようやく春が訪れようとしていた。太陽は未だ地平線の下で待機していて、夜明け前の霧だけがメキシコ湾に続くサーバイン鹹水湖に程近いこの街全体を無気味に覆っている。街外れにあるウインター家の時計がけだるく5時を打った。村八分にでもあったようなこの家は壁も剥げかかり、北向きの寝室は小窓が一つきりあるだけで薄暗く、だらしなくぶら下っているだけの赤いカーテンは色も腿せて、ところどころにあるシミがこの部屋を一層惨めなものにしている。二つのベッドの間にある小机の上の聖書は埃を被ったままだし、誕生日に夫から贈られた花は乾ききって生気を失い、ミイラのようでもあった。
 片側のベッドに寝ていた女の口から押し殺すような呻き声が漏れた。(略)「自分一人で何から何までやらなければならないなんて頭がどうかなりそうよ……」と言った時、「ブタだって餓鬼を生むんだ」とせせら笑っている夫の言葉を想い出し、それがこの女の痛みをより増幅させていた。(略)
女は子供を生む為の入院もさせて貰えなかった。「病院で生む?このアマ!お前とおんなじものが生まれてみろ、全く世間の笑いものだぜ。もし生まれちまった時は、その場でパアにしちまいな!」と夫は酒臭い声で女によく言い聞かせていたものだ。
 脳を突き抜けるかのような最後の痛みがやってきた。すべてを終えた時、女はこの小さな生き物を洗ってやるお湯も、そして包んでやる柔らかな布も用意してなかった(略)
カーテンの隙間から差し込んでくる僅かばかりの光がシーツの上に産み落されたままの小さな物体を弱々しく浮かび上がらせ、そして、それは全く母と“同じ色”であった。
 第二次世界大戦も終末に近づいた1944年2月23日、呱々の声も上げずにジョニー・ウインターは生まれた。(略)
3年後の1947年12月28日、喧噪と猥雑で明け暮れたクリスマスの3日後に弟のエドガーも悪魔に魅入られながら、同じ宿命を背負ってこの世に生れ落ちたのだった。
(略)
[24歳になったジョニーをローリング・ストーン誌のスティーヴ・ポールがスカウトにやってきた]
揃いも揃ってこの兄弟は2人とも白亜のような顔を持ち、兄はやぶにらみで、弟は大きく見開いた目がピンク色だ。まるで地獄から生まれたてきたような無気味さをもった彼らを改めて驚きと興味の入り混じった気持で眺めることとなったのである。(略)
「2人の白子か……、これは今年最高の贈り物だ」と早くもスティーヴの頭の中では、ある計画が着々と進められていたことは言う迄もない。(略)
[ジョニーが]CBSと100万ドルの契約を結んだ記事が地元紙の一面トップを飾ったのは、明けて1969年、1月の事である。“白過ぎる白人が弾く黒過ぎるブルース、バーモントの白子、全米にデビュー!”
(略)
[1年ぶりのロンドン公演]
 目もくらまんばかりのカラフルなコスチュームを身にまとったエドガー・ウインターが楽屋へと戻って来た。(略)
集まった記者達の貪欲そうな視線が登場したエドガーに注がれ、1人の記者が早速口を開いた。「どうして、今日、ジョニーは来なかったんだい?」「僕はエドガーだ!ジョニーって誰の事だい?」又か、といったそぶりのエドガーを横目で見ていたリック・デリンジャーは記者を睨みつけていたが、この気まずい空気はいつもの事さとエドガーは自分にいい聞かせているようでもあった。今度はエドガーが記者に向って口を開く。「何故、そんなことを聞くんだい?もし、アンタの兄貴がタイムズの記者だったらどうだい?そうだとしたら、今の僕の気持が分かるだろう。兄貴は兄貴、僕は僕だ。決して兄貴の尻にくっついておこぼれにあずかろうなんて気は毛頭ないんだよ。僕はご覧の通り、自分の仲間で立派にやってるつもりだ」エドガーの怒りの込もった言葉に記者は顔色を失う恰好となったが更にエドガーは言葉を加えた。「確かにジョニーはスティーヴの計らいでセンセーショナルなデビューを飾ったよ。彼は満足だったに違いない。
(略)
彼はスターになりたかったんだからね。ジョニーは有名になれるならユダになってもいいと考える男さ!」「エドガー、いい加減にしとけよ!」とリックが言葉を挾んだが、エドガーは聞かない様子で話を続ける。「ジョニーのグループを知ってるかい?彼は自分の名前さえ出れば満足なんだ。昔からそうさ。ジョニー・ウインターとペスト、J・ウイン夕ーとバーモント、そして、傑作なのがJ・ウインター・アンドだ。ここに居るリックやマッコイズの連中が全部メンバーなのに、アンドの後に何もありゃしないんだからね……。さあ分ったろう。だから、僕の事も少しは聞いてくれてもいいと思うが、どうだい?」
(略)
[再び、スティーヴ・ポール]
「よくここまで持ったもんだ。タイニー・ティムをマネージメントするより100倍もの努力を要する仕事だな」(略)
リック・デリンジャーの為に作ったレコード会社“ブルー・スカイ”の将来も考えていた。「気違い白子の兄弟と天才プロデューサーは全くもって天が与えた最高の組み合わせだぜ。それにしても、あの兄弟には羞恥心といったものがまるでないという事もいい。ローリング・ストーンに載ったエドガーの全裸といい、今度はジョニーが妻のスーザンとやってる写真だ」
 ジョニーの最新アルバム「テキサス・ロックン・ロール」、それにリックの「オール・アメリカン・ボーイ」の売り上げは予想外に素晴しい。今度のエドガーの新録音にスティーヴは賭けている。「あいつらは俺に頭が上らない筈だ。テキサスの片田舎から引っぱってきたあの2人の白子は俺がいなけりゃ、今も酔っ払い相手のイモ・バンドだろうし、リックにしてもマッコイズだけならとっくにお終いだったろう……」(略)
「最後にはこいつらを全部ブルー・スカイ・レコードに集めてサーカスの如きショーをやろう。見せものなら幾つでも用意してやる。ジョニーとリックのバカ・テクのギターもいい、エドガーのサックスも存分にフィーチュアだ。後半はアリス・クーパーもぶっ飛ぶショーだぞ。もし、あいつらが望むなら、それこそ全員、裸にしちまおう」
 窓の外ではいつしか降り出した雨が次第に強くなっていた。

音の魔術師イーノに聞く

ブライアン・フェリーとうまくいったことは一度もなかった

(略)
[テープを駆使した音楽はステージで再現しにくいのでは?]
そう、大変むずかしいことです。でも僕はステージでレコードをそっくり再現なんてことには興味がないんです。僕のもっている音楽に対する観念は、スタジオで録音するためのものであって、ステージのことは考えていません。今、2〜3考えていることがあって、そのひとつは、大変仲の悪い2人のミュージシャンを、テープを使って共演させるということ。もうひとつは、楽器のチューニングをわざと狂わせて演奏するということです。ふたつとも,ずいぶん危険な実験でしょうね。もしうまくいけば、画期的な音楽が創造できるでしょうし、失敗すれば徹底的にお粗末なものになると思います。
(略)
[最近のプロデュース作は?]
ポーツマスシンフォニアという若いミュージシャンたちのオーケストラです。彼らはクラシック演奏家ですが、楽器は弾けないんです。(略)
それが狙いなんですよ。弾けないけれど、いっしょうけんめい弾こうとしている。そこが音楽としておもしろいんですね。
(略)
[友人としてのロバート・フリップは?]
ええ、皆んなも知っているとおり、彼は変人なのでなかなか親しい友人は少ないのですが、僕とはとてもうまく行っています。僕も変人なのかな?(笑)それに、ロバートは僕が前に住んでいた女性と出歩いているので、僕らは、つまり、ある意味で共通のものをもっているんですよ。
(略)
[最近の若い人はあまりクラシックを聴かない]
クラシックはのろくてたいくつですしね。自分の生活のペースを少し変えたい時にはいいでしょうが。クラシックが作曲されていた時期というのは、レコードなどありませんから、演奏をききに行く人たちの大部分は、死ぬまで同じ曲をきく機会は2度となかったのです。それで作曲家は、観客が音楽を理解できるように、ある程度のテーマのくりかえしを必要としたのでしょう。(略)
[レコードで何百回と聞けるロックは]クラシックのようにくりかえしていたのではすぐにあきられてしまいます。そのために、ロックは攻撃的で変化に富んだ演奏でおもしろいのです。(略)
[自分はクラシックが]好きですが、好きな理由が変わってるんです。クラシックは複雑な構成だから好きなんです。もうひとつの理由は、他のロック・ミュージシャンが、クラシックを取り入れる方法がどうも気に入らないんですよ。たとえば、エマーソン・レイク&パーマーは、どうしようもないバンドですね。彼らが日本で大変人気があるのはよく知っているので、こんなことを言うと僕の人気にさしつかえるでしょうが、真実だからはっきり言いたいんです。
――ロキシー・ミュージックを去った理由は、ブライアン・フェリーとの仲たがいが原因だとききましたが。
そうです。彼とはステージでもオフ・ステージでも、うまく行きませんでした。でも、ロキシーから抜けた理由は他にもいろいろありますが、自分ひとりでやりたいことが山積みしていて、ロキシーのメンバーとして活動できなくなったことが主な理由です。僕は四六時中、同じことをくりかえしやるということに耐えられない性格なので、ロキシーのように、毎晩毎晩、似たようなコンサートで同じ曲をそっくり演奏するなんて、気が狂いそうですよ。
(略)
――先月、ロキシー・ミュージックをニューヨークのアカデミー・オブ・ミュージックでみたのですが、あれはまるで、ブライアン・フェリー&ヒズ・バック・アップ・バンドのようなものでした。
それも、僕がロキシーに興味を失なってしまった原因のひとつです。むろん、ブライアンのことは好きですが、だからといってもう2度といっしょに演奏する気はありません。ロキシーのフィル・マンザネラとは今でもよく行き来しているし、ジョン・ケイルや僕のニュー・アルバムもプロデュースしているんです。彼はとても聡明な男だし、エゴのない偉大なギタリストだと確信していますよ。
――好きなミュージシャンは誰ですか?
フィルだろ、もちろん。フリップ、ジョン・ケイルなど、いっしょに仕事をしている人ほとんど。好きだからいっしょに仕事をするんだからね。(笑)ケヴィン・エアーズは絶対、僕の一番好きなミュージシャン。それほど多くの人に認められていないのが残念だ。

大外し、中村とうよう

『解散説の真只中に提示された、これがパイの最終結論!』という見出しの、ハンブル・パイ「ストリート・ラッツ」の見開き広告。中村とうようの解説が載ってるのだけど、その外れ具合がなんか笑えた。ニュー・ソウルがわからなかったのか、とうよう。

ハートヘの確信にみちたハンブル・パイの音楽(中村とうよう
(略)日本での3度の公演を全部見たわけで、こんなことをしたのは、ハンブル・パイとフェイシズぐらいだ。
 ハンブル・パイのどこにそんなに感激したのかということは、いま記憶をたどって書くよりも、その時書いた朝日の評を引用したほうが手っとり早い。
(略)
 これが、ぼくの感じたことをそのまま書いたものだが、まったく何のごまかしも手抜きもない、ひたむきな全力投球ぶりは、実にすがすがしい充実感を与えてくれた。
 ハンブル・パイやロリー・ギャラガーのライヴ演奏を聞いて、ぼくは、彼らの音楽の黒人っぽさはけっしてサウンドの表面だけのものではないことに気づいた。それはもっと本質的な、音楽のあり方の基盤にかかわっている。音楽はいうまでもなく演奏者と聴衆の間のコミュニケイションの手段である。耳に入りやすい美しいサウンド、洗練されたアレンジも、コミュニケイションを成立させるひとつの方法だろうし、アクションをともなった楽しいステージづくりもまた聴衆を引きつけるコミュニケイションを成立させるのに有効だろう。こんにちのいわゆるニュー・ソウルのコミュニケイトのし方は、そのようなものである。だがこれは、端的に言って、単なるイージー・リスニング的、エンターテインメント的なコミュニケイションでしかない。それは聴衆を楽しませることではあっても、真に心と心を通わせ、感動を伝えるようなコミュニケイションではない。
 やはりコミュニケイションの成立させ方という点でみても、黒人音楽のよき伝統は、ニュー・ソウルよりもむしろハード・ロックにうけつがれている。ハンブル・パイの音楽の根本思想は、熱意をこめて力いっぱい演奏すれば必ず聴衆はわかってくれるはずだ、という素朴きわまる考え方である。それは素朴なるが故に、音楽の原点にもっとも近い。そして、ぼく自身、長年黒人音楽を愛してきたのは、黒人音楽にはこの素朴な音楽の原点があると信じていたからであり、したがってそれを失った黒人音楽には興味をもつことはできないし、白人がやっていても音楽の基本である心への確信がそこに見出されるならぼくは大いに惹かれるのである。

1971年の訃報
7月3日、ジム・モリソン心臓病。7月6日、ルイ・アームストング心臓病、71歳。8月13日キング・カーティス、喧嘩をとめに入り、刺殺されて死亡、36歳。10月29日、デュアン・オールマン事故死、24歳。