ニーチェの言う強者/弱者とは

マクシミリアン・ル・ロワ のバンド・デシネ『ニーチェ―自由を求めた生涯』の訳者解説から。
日本版は文庫サイズなので絵を楽しむにはちょっとツライ。

Nietzsche : crearse libertad

Nietzsche : crearse libertad

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[解説:國分功一郎]

ニーチェの言う強者/弱者とは

 ニーチェが言う強者/弱者が、いわゆる社会的な強者や弱者とは無関係であることに注意しなければならない。というより、ニーチェの言う弱者たちは、常に社会では勝利をおさめるのであり、実際には強い。
 ならばニーチェの言う強者/弱者とは何だろうか?強者とは、自らの為しうることを為す人である。強者は、自らの能力とともにある。反対に弱者とは、自らの為しえないことにこだわるがあまり、自らの能力から切り離されている人のことである。その結果、彼らはあらゆる人々を、それぞれの能力から遠ざけようとする。そうした怨念によって集結する集団をニーチェは「畜群」と呼んだ。

 だが、ニーチェは批判ばかりしていた哲学者なのだろうか? そんなことはない。ならば、ニーチェはいったい何を積極的に求めたのか?
 月並みではあるが、「自由な精神」と答えることができるように思う。(略)
ニーチェはいわゆる「自由意志 libre arbitre」を徹底的に批判したし、自由な精神は「自由思想家 Freidenker」とは違うと言っているし、、「自由主義 Liberalismus」も全面否定している。
(略)
 いま、自由は、競争の可能性と混同されているように思われる。様々な規制や障壁で守られていた者たちをフィールドに投げこみ、規制や障壁の故に自分は報われることがなかったと信じている者たちと競争させる――それが自由であると思われている。そして、訳者には、ニーチェがそのような思想の後ろ盾として読まれてきたような気がしてならない。「強者は常に弱者から擁護されねばならない」という箴言も「既成や障壁を破壊せよ」という意味で理解されてきたような気がしてならない。
 しかし競争とは、一つの既成の価値(要するに経済的な「成功」)に依存して勝ち負けを競うことに他ならない。競争は価値を創造しない。これほど自由な精神から遠いものはない。
 競争は、永遠回帰のもたらす倫理思想、すなわち、「きみがいま経験している生を、再び生きたいと当然願うことになるような仕方で、生きよ」を実現するだろうか?実現するはずがない。現代、人間たちは競争という名の新しい重荷を背負っているのではないか?(略)

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