憲法誕生・その2 新井政美

前回の続き。

憲法誕生: 明治日本とオスマン帝国 二つの近代

憲法誕生: 明治日本とオスマン帝国 二つの近代

元老院国憲按

[明治13年の]この確定案において「皇帝」に関する第一篇第一章の第一条は「万世一系の皇統は日本国に君臨す」となっており、明治一一年案の「日本帝国は万世一系の皇統を以て之を治む」と比べて「統治」から「君臨」へと変化していることがわかる。稲田正次氏も指摘するとおり、この条項は元老院で検討した西洋諸国の憲法中に見られない、独自の規定であろう。(略)
第二条には「皇帝は神聖にして犯すべからず。縦い何事を為すもその責に任せず」とあり、皇帝の無答責が具体的に記されているのである。この条項はオーストリア憲法第四篇第一条、スウェーデン憲法第三条によったものというが、明治一一年案では「皇帝の身体は神聖にして侵す可からざる者とす」とのみ書かれていた。いっぽう、第二章「帝位継承」中に、プロイセンオーストリア、ベルギーその他欧州諸憲法にならう形で、
 皇帝即位の礼を行ふときは両院の議員を召集し国憲を遵守することを誓う。
という重要な条項が入れられていることは注目に値する。皇帝が憲法遵守を議会で誓うというこの一項は、のちに井上毅によって独特な修正を受け、憲法公布時にはさらに興味深い変貌を遂げるが、この時点ではこの文言を、このような明快な形で草案中に挿入することについて、委員たちの間には何らの異論も出なかったという。
 いずれにせよ元老院はこれを確定案として、一二月末に議長から天皇へ奉呈した。(略)
[だが岩倉具視が不備があるとやりなおしを提案、伊藤博文に意見を求めた]
伊藤は元老院の草案を、西洋各国憲法の切り貼り、焼き直しにすぎず、日本の「国体」「人情」などにまったく配慮がなされていないと批判している[七年前の大久保の「土地風俗人情時勢」に適した政体をたてるべきという意見に呼応]
(略)
経緯の詳細は不明ながら、結局はこれを形式的に上奏させ、そのまま不採択として葬ることで三条と岩倉との間で意見がまとまったようで(略)元老院の国憲取調局そのものが翌年三月に正式に閉鎖されるにいたるのである。
 ただここで一点、忘れてならないのは、(略)[憲法制定の目的のひとつに君権の制限をおいていた]大久保のこの精神は、元老院には受け継がれていたと思われ(略)草案の作成に関わった(か、少なくともそれに近い立場にあった書記官)と思われる人物が、確定案が君権の制限についていま一歩踏み込めていないことに不満を抱いてしたと見える書き込みをしていたのである。
 だが国内の情勢は、大久保が憲法を構想したあと大きく動き、武力による反政府蜂起や地租改正に起因する一揆と、その後の言論による民権運動の高まりとが怒濤のように政府を襲うことになった。これらを経験した伊藤が「国体人情」にいささかも注意が払われていないと述べて元老院草案を批判するとき、制限を加えるべき権利の主体が、「君主」のそれから「民」のそれヘシフトしていたと推測することも可能であろうと思われる。少なくとも、「国体人情」が決して一定のものではなく、状況に応じてその内容を変える性質のものだったということは押さえておかねばならない。

井上毅私案

 よく知られているように、明治憲法成文の冒頭は「大日本帝国万世一系天皇之を統治す」である。井上がなぜこれを第三章の中程に置いたのかは不明だが、やはり参考にしたプロイセン憲法の配列が影響しているのであろう。(略)[五年後の明治二〇年に提出する試案甲案、乙案において『治(しら)す所』と書くこと]と対照すると、ここでは同じ漢字でも「治(おさ)む」と、「尋常に」読ませていることも興味深い。「治(しら)す」は『古事記』から採られたものであり、日本の――少なくとも井上の――「国体」が、単なる「特質」から、しだいに「神がかって」ゆくことが、こんな所にも現われているように思われるからである。もともと明治の諸改革は、「文明化」あるいは「進歩」が「復古」の文脈で語られる傾向を示していた。(略)
だが、そのことと、国の基本法の中に神話を特ち込むこととは、また別である。「万世一系」はレトリックの色彩も濃いが、「治(しら)す」は明らかにその域を超えると思われる。
 では続いて、井上の用語にも着目しながら、この章の条文を少し検討してみよう。
 第一八条 天皇は大政を総攬し而してこの憲法に循由(じゅんゆう)して之を施行す。
(略)
プロイセンにおいては国王が憲法にしたがって統治を行なう前に、憲法を守ることを議会で誓うと明記されているのに対し、明治憲法成文においては「憲法の条規に依り」統治を行なうとなって、宣誓することはもちろん、天皇自身が憲法にしたがうことも、必ずしも明示的には記されなくなったことは無視しえないだろう。その間にあって、井上は、天皇が「憲法に循由して」この憲法を施行すると書している。「循由」は「依拠する、したがう」といった意味で、天皇がただ「憲法に依拠して大政を施行する」とも読めるが、「天皇個人も憲法を遵守しつつ、これにしたがって大政を施行する」と読めなくもない、若干曖昧な記述であるように思われる。
(略)
井上の中で、プロイセン流に天皇憲法遵守を議会で誓わせるのは大いにためらわれたのであろうが、しかし、天皇自身も憲法を守ることは明記すべきだとの思いはあったのではないだろうか。その結果が「循由」という語の選択をもたらしたと考えるのは、穿ちすぎであろうか。そして、元老院国憲按には記されていた、天皇が即位に際して議会で憲法遵守を誓う条項は、井上私案では省かれているのである。
(略)
天皇の「統帥権」に関しても、井上案は「統率」という表現を用いている。この当時における「普遍」(欧州基準)を脱して「特殊」がいっそう強調されてゆくのは、このあとである。

行政の重視

[ベルリンでドイツ政治を見聞した伊藤博文は]理念的なものとしての憲法を生かすためには、他にさまざまな制度的裏打ちが必要なのではないか。――そうした疑問を抱いていたという。そして伊藤は、憲法と並んで「アドミニストレーション」を整備する重要性を感得していたというのである(瀧井一博『文明史のなかの明治憲法』)。そうした伊藤を待っていたのが、ウィーン大学のシュタインだった。
(略)
シュタインがもっとも警戒したものが、立法部のみが政治を主導する体制だった。「過度の民主政治は多数専制を導き、国家の土台を突き崩す」とシュタインは述べたという。彼の講義の中では、共和政治に代表される民主主義の過激化が繰り返し批判された。
 そしてシュタインは、君主専制も厳しく拒絶していた。彼によれば、君主は立法府と行政府とに対して特別な権力はもたず、元首としての君主のなすべきことは、「行政や立法の過程を通じて決定されたことを是認=裁可し、国家としての意思や行為の統一性をシンボライズすることにとどまるべき」だったという。(略)
「シュタインにおいて国家とは、行政による媒介を通じて外界との絶えざる相互作用をおこない、歴史の変化に適応していける有機体的制度」なのだった。行政府は、議会の意思や君主の意思に束縛されず、自律的に国家の統治を担ってゆくべきものなのである。したがってイギリスは議会に、ドイツは君主に支配を受けているとして批判の対象となっていた。
(略)
伊藤に、シュタインの講義が、あたかも天啓のように響いたことは疑いのないところであろう。(略)
プロイセン流の憲法制定が規定の方針となった状況で、いまや伊藤にとって、憲法の「制定」以上に、その行政府による「運用」が重大な問題と見えてきたと言うこともできるだろう。
 この時点で、明治憲法の公布までには、まだ六年半の歳月があった。

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