19世紀の女体化妄想『シュレーバー回想録』

ザクセン王国法曹界No.2まで登りつめるものの、精神を病み、女体化妄想にとらわれた男の回想録。

訳者解説

[神の奇蹟により]シュレーバーの身体は女体に変えられたのである。(略)
 著者は自分の病気のきっかけは控訴院民事部部長就任の際の途方もない「重圧」にあったと言う。(略)
夢ともうつつともつかぬ状態で「性交を受け入れる側である女になってみることもやはり元来なかなかけっこうなことにちがいないという考え」が脳裏に浮かんだというのである。「意識が完全に目覚めていたなら、私はこんな考えを憤然と退けたであろう」というのは、19世紀末の高位の裁判官としては当然のことだろう。しかし、精神病、あるいは当人の言う神経病の進行につれ、「女への変身」はシュレーバーの意識にはっきりとのぼるようになる。どうも神は、シュレーバーの身体を女体に変容させ、娼婦となして遺棄しようという陰謀に一枚噛んでいるらしい。そのせいで、乳房が膨らみ、男根が溶解し、身長が縮められることもあった。しかし、それは持続せず、また元の状態に戻るのだった。
 身体にこうした異常が生じるのに並行して、外界は破滅的な事態に陥る。人間はすでに滅亡していた。シュレーバーのまわりにいる医師や看護師、またときおり見舞いに訪れる妻も現実の人間ではなかった。それらは「かりそめに急ごしらえされた」者たちでしかない。破滅は地球全体にとどまらず、さらに全宇宙に及び、シュレーバーには「カシオペア座が収縮してただ一つの太陽にならざるをえなくなったとか、ひょっとするとまだ救いうるのはプレアデス星団ぐらいのものかもしれない」といった凶報が「声」を通じてもたらされた。
(略)
そうした「現実」の中で、シュレーバーは戦慄し、不安と恐怖に苛まれ、そしてときには「筆舌に尽くしがたい快楽」を感じる。

以下、回想録

人類の更新という世界秩序に適った最終目的を目指した脱男性化ではなく、脱男性化によって私に恥辱を加えることが図られたにすぎなかった。(略)
脱男性化がもうさし迫っているというので、神の光線が私を「ミス・シュレーバー」と呼んで嘲弄することも許されると思ったこともまれではなかった。当時頻繁に用いられ、うんざりするほど繰り返された、いくつかの常套句のなかに「つまりあなたを放縦な淫蕩に身を任せている者として描き出してやろうと思うのだ」等々というものがあった。私自身も長らく、とりわけ他人が私の身体を性的に虐待するということが話題になっていたあいだは、脱男性化という危機を当然自分を脅かす汚辱として感じてきたのである。
(略)
 それゆえ、私の身体にすでに群れをなして侵入していた女性神経あるいは官能神経も、一年以上ものあいだ私の挙動や気質に何の影響も及ぼせなかった。私は自分の男としての名誉心を傾注し、同時に、私がほとんど没入しきっていた宗教的観念の神聖さをもって、それらの神経の興奮をすべて抑制したのである。実際、私がそもそも女性神経の存在を意識したのは、何かのおりに光線が作為的に女性神経を運動させたときだけであった。その際、光線が意図したのは、女性神経を興奮させて臆病心を惹起し、そのようにして私を女々しくおどおどと震える人間として「描き出す」ことだった。他方、私の意志力をもってしても、とりわけベッドに横になっているときに、体内に官能的快感が頭をもたげるのは妨げきれなかった。この官能的快感はいわゆる「魂の官能的愉悦」として光線に対してより強い引力を及ぼしたのである

 世界秩序に適った状況をなおも想い起こさせたのは、とりわけ私の身体において執行されるべき脱男性化と何らかのかかわりをもつように思われる奇蹟であった。そのなかにはとりわけ私の生殖器のさまざまな変化が含まれていた。このような変化はまれには(とりわけベッドに横になっているとき)私の男根が体内に引き入れられるという、はっきりとした徴候として現れることもあった。しかし、頻繁に現れたのは、主として不純な光線が関与したときに生じるほとんど完全な溶解状態に近い男根の軟弱化であった。さらには幾本かの髭、とりわけ口髭を引き抜くという奇蹟、そしてまた体格全体の変化(身長を低くすること)が――これはたぶん脊椎が縮んだせいであったのだろうが、もしかすると大腿骨の骨素の収縮も関与しているのかもしれない――私の脱男性化とかかわりをもつように思われた奇蹟の一部をなしていた。この低身長化の奇蹟は下位の神(アフリマン)から発せられたもので、いつも決まって「あなたを少し小さくしようか」という、この奇蹟を告知する神の言葉を伴っていた。その際、私自身は、自分の身体が六センチから八センチほど小さくなったとの印象、すなわち女の身長に近づいたという印象をもったのである。

私自身の考え方に重大な節目が刻まれたのは、1895年11月のことだった。私はこのときのことをはっきりと想い出す。その頃、晴れわたった晩秋の日々が数日間続き、朝方にはいつも濃い霧がエルベ河に垂れ込めていた。この時期に、私の身体に女性化の徴候が歴然と現れたのである。そのため、事態の進展が全体として何を目指しているのか、つまり、こうした事態に内在する目的が何であるのか、私はもはや認識しないわけにはいかなくなった。この時期の直前の幾夜かには、私が男性としての名誉心の命ずるままに、断固とした意志をもって対抗せねばならないと思っていなかったならば、ひょっとすると実際男根が体内に引き入れられてしまっていたかもしれない。当該の奇蹟の完成は、これほどまでに間近に迫っていたのである。ともかく魂の官能的愉悦はひじょうに強烈なものとなっていたので、私自身まず腕や両手に、後には、両足、胸、尻、さらには身体の他のあらゆる部分に、女体としての印象を感受した。
(略)
魂の官能的愉悦が生じるたびに幾度となく繰り返された常套句は、「奥様に対して、あなたはいったい恥ずかしくはないのか」とか、もっと下劣な「こいつはお○○○やってもらっているくせに、自分が控訴院民事部部長であったなどと言ってやがる」であった。確かに、こうした声は私に嫌悪を催させた。
(略)
 それ以来、私は女性性を育むということをはっきりと自覚をもって標榜してきた。また、今後も周囲の人々のことを顧慮しながら、できうる限りそうしていくつもりである。超感覚的な事柄の事情に与らぬ他の人々は私のことを何とでも考えるがよい。実際、男性の外見をもった痴呆の人間となるか、あるいは利発な女となるかという選択を迫られて、後者を選ばない男がいれば、会ってみたいものである。そして、ほかならぬまさにこの選択こそが、私にとっての問題なのだ。私が専心していた以前の職務を果たすことも、男の野心から達成しようとしていたその他のあらゆる目標も、人類のために私の悟性の力を種々活用するといったことも、このように事態が進展したため、いっさい不可能となってしまった。

つまり女性においては、官能的快感は身体全体にひろがっており、とくに乳房がきわめて敏感に官能的快感を感じ取るということは事実であるとされるようです。私といたしましては、やはりこの事実は、(腱か、神経かその呼び名はともかく)女性の場合には何かしら身体全体を覆うような器官が存在し、その覆い方の程度が男性よりずっと高いとでも考えなければ、説明がつかないのではないかと思っております。私にとって、こういった器官が自分の身体に――これまで繰り返し述べてきたとおり、神の奇蹟のせいで――普通ならば女性の身体においてしかありえないほど多量に存在しているということは、主観的には確かなのです。私の身体のどこであれ、手で軽く押さえれば、表層の皮膚の下に糸状ないしは筋状の構成体があるのを感じます。この構成体はとりわけ、胸の、女性ならば乳房のあるあたりに存在しており、そこにある構成体には先端にときおり結節のごとき塊ができるという特徴も認められるのであります。とりわけ何か女性にかかわることを考えているときに、この構成体を押さえると、私には女性の官能的快感に一致するような快感が感じられるのです。ついでながら申し上げておきますが、こんなことをするのは決して淫らな考えからではありません。どうしても眠れないとき、その他いかんとも耐えがたい苦痛から逃れようとするときには、こうするほかないのである。
(略)
 神が接近するとき、私の胸はかなり成熟した乳房の印象を与える。私を観察してやろうという人ならば、誰でも、この現象を自分の目で見ることができる。それゆえ、この限りにおいて、私は、いわば実地検証をしてもらい、その結果に基づいた証明を提出できるのである。もちろん、ある瞬間にちょっと観察してみるだけで、それが明らかになるわけではない。観察者には、約10分から15分ほど私のそばにいてもらわなくてはならないだろう。そうしてもらえれば、誰にでも、私の乳房が膨らんだり、平らになったりするのがわかるにちがいないと思う。胸やみぞおちには、もちろん男性としての体毛がそのまま残っている。しかし、これも私の場合には貧弱なものでしかない。また乳頭も男性としての大きさを保ち、それほど大きくはならない。しかしこれはこれとして、胴の上部をあらわにして鏡の前に立つ私を見れば、誰もが疑いもなく女性の上半身だという印象を得るであろうと――この幻想は、とくにほんの少し女としての化粧をすれば、さらに強められる――思いきって私は主張したい。さらにまた、この施設の外であっても、単なる好奇心からではなく、学問的関心に心を動かされる専門家がいれば、私からぜひ進んでというわけでもないが、そうした観察は許可したい。このこともここでためらわず宣言しておく。
(略)
放縦な淫蕩が、数多くの個々人だけではなく、民族全体を滅ぼしてまったことさえあるのは、まさに歴史の教えるところだ。しかし、この私には官能的愉悦に関してもはやそういった道徳的制約は存在しない。私の場合、道徳的制約はある意味でまったく逆転している。誤解のなきよう、ただちに言っておかねばならないのは私にとって、官能的愉悦を育むことが、自分の義務となってはいるが、しかし、それは決して、他の人間(婦人)への性的な欲情だとか、あるいはまして性的な交わりを結ぶことを指すのではないということだ。むしろ私は、自分が、男であると同時に女であるという人間として、自分自身と性交する様を思い浮かべ、さらに、性的に興奮することを目指して、もちろん決して自慰に類するようなことではないが――普通ならばおそらく卑猥とされるような――ある種の行為をせねばならないのである。
 私がこのような態度をとらざるをえなくなったのは、まさに神が私に対して世界秩序に悖る関係をもつに至ったからだ。この限りにおいて、きわめて逆説的に聞こえるかもしれないが、第一次十字軍参加者の「Dieu le veut.(神がこれを欲す)」という言葉が、そのまま私自身に当てはまる。
(略)
神は、世界秩序に適った魂の生存条件に見合ったこととして、絶えざる享楽を求める。そのため、いったんこのような世界秩序に悖る状況が生じたなかにおいても、可能な限り、神にこの享楽を与えることが私の使命となっており、私は魂の官能的愉悦を最高度にまで発達させることで、この使命を果たしているのだ。それゆえ、私自身が、その際、ほんの少しばかり性的な享楽に与ったにせよ、それは不当なこととは言えない。私には、何年も前から強いられてきた、とてつもなく苦しい耐乏生活に対する、ちょっとした埋め合わせとして、その享楽を受け取る権利がある。
(略)
もしも私に、私自身と性的に交わり合う女という役割をつねに演じることができ、そしてつねに自分の視線を女へとそそぎ、つねに女の姿を見つめていることなどができたなら、神は決して(略)撤退行為にはとりかからず、むしろ何の抵抗なく、一貫して引力に引かれてくるだろう

裁判医鑑定書から

 ちなみに患者のこうした妄想観念は瞠目すべき明晰さと、論理的な緻密さをもって展開され、根拠づけられている。しかし、ここではこれ以上その細部にまで立ち入るには及ぶまい。(略)
あとは、患者の振舞いにも、患者の観念の病的な面が絶えず現れ出ていることだけを指摘するに留めておきたい。すなわち、患者は顔の髭を剃ってしまい、女性用の化粧道具やちょっとした女性的な手仕事を好み、体のかなりの部分をあらわにして、鏡に見入ったり、色とりどりのリボンや紐で女性のように自分を飾ったりするのである。

管区病院医鑑定書から

[奇蹟への]さまざまな対抗手段のうち、ここではとくに半裸で部屋のなかを動き回ること(これは、たぶん『回想録』の中で何度も言及されている魂の官能的愉悦を喚び起こすためなのだろう)や、また色とりどりのリボンを飾った、広く胸の開いた肌着を着て鏡の前に立ち、自分の乳房――患者は自分が女性の乳房をもっていると考えているのである――を観察するなどということを挙げておく。こういった振舞いのせいで(以前には裸の両脚を窓から突き出したりもした)風邪をひくことさえあるのだが、患者は個々の症状もまた奇蹟のゆえだと考えるのである。しかし、患者には自分を傷つけようという意図はなく、また自殺しようという考えももはや捨ててしまっている。これは、身体がどれほど深い傷を受けても、患者自身にはどんな害も及ばないと信じ込んでいるからである。

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