思考は脳みそだけではない。
数学者は、自らの活動の空間を「建築」する。
人工進化というのは、自然界の進化の仕組みに着想を得たアルゴリズムで(略)コンピュータの中の仮想的なエージェントを進化させる方法のことである。(略)
生成したランダムなビット列の中から、何らかの基準に沿ってより優れたものを選び出し、その選ばれたビット列を「変異」させながら、次々と自己複製をさせていくということである。(略)
[人工進化で異なる音程の二つのブザーを聞き分けるチップを作ったら]
そのチップは百ある論理ブロックのうち、三十七個しか使っていなかったのだ。これは人間が設計した場合に最低限必要とされる論理ブロックの数を下回る数で、普通に考えると機能するはずがない。
さらに不思議なことに、たった三十七個しか使われていない論理ブロックのうち、五つは他の論理ブロックと繋がっていないことがわかった。繋がっていない孤立した論理ブロックは、機能的にはどんな役割も果たしていないはずである。ところが驚くべきことに、これら五つの論理ブロックのどれ一つを取り除いても、回路は働かなくなってしまったのである。
トンプソンらは、この奇妙なチップを詳細に調べた。すると、次第に興味深い事実が浮かび上がってきた。実は、この回路は電磁的な漏出や磁束を巧みに利用していたのである。普通はノイズとして、エンジニアの手によって慎重に排除されるこうした漏出が、回路基板を通じてチップからチップヘと伝わり、タスクをこなすための機能的な役割を果たしていたのだ。チップは回路間のデジタルな情報のやりとりだけでなく、いわばアナログの情報伝達経路を、進化的に獲得していたのである。
(略)
[人間が設計したならノイズは排除しようとするが]
設計者のいない、ボトムアップの進化の過程では、使えるものは、見境なくなんでも使われる。結果として、リソースは身体や環境に散らばり、ノイズとの区別が曖昧になる。どこまでが問題解決をしている主体で、どこからがその環境なのかということが、判然としないまま雑じりあう。
物理世界の中を進化してきた生命現象としてのヒトもまた、もちろんその例外ではない。ともするとヒトの思考のリソースは頭蓋骨の中の脳みそであって、身体の外側はノイズであり、環境である、と思われがちだが[そうではないのではないか、脳の役割は限定的なのではないか。]
- 作者: アンディ・クラーク,池上高志,森本元太郎
- 出版社/メーカー: エヌティティ出版
- 発売日: 2012/11/09
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クラーク『現れる存在』
[クラーク『現れる存在』からもうひとつ。マグロの動きを解析してみたら]
マグロは自らの尾ひれで周囲に大小の渦や水圧の勾配を作り出し、その水の流れの変化を生かして、推進力を得ているのではないか、というのだ。
普通、船や潜水艦にとって海水はあくまで克服すべき障害物である。ところが、マグロは周囲の水を、泳ぐという行為を実現するためのリソースとして積極的に生かしている、というわけだ。
示唆に富む話である。周囲の環境と対立し、それを克服すべきものと捉えるのではなく、むしろ環境を問題解決のためのリソースとして積極的に行為の中に組み込んでいく。
(略)
冒頭で見たのは「離散的数量を厳密に把握する(あるいは操作する)」という、人が本来苦手とするタスクを遂行するために、身体や物、さらには外部メディアを使った記号の体系を道具として利用しながら、認知能力が拡張されていく様子であった。(略)
はじめは紙と鉛筆を使っていた計算も、繰り返しているうちに神経系が訓練され、頭の中で想像上の数字を操作するだけで済んでしまうようになる。それは、道具としての数字が次第に自分の一部分になっていく、すなわち「身体化」されていく過程である。
ひとたび「身体化」されると、紙と鉛筆を使って計算をしていたときには明らかに「行為」とみなされたことも、今度は「思考」とみなされるようになる。行為と思考の境界は案外に微妙なのである。
(略)
当初は道具であった数や図形が、それ自体数学的な研究の対象となると、事態はやや込み入ってくる。(略)
素数が無限にあることがわかれば、今度はその分布が気になる。正多面体を発見したら、今度はあり得るすべての正多面体を分類し尽くそうということになる。数学によって解決すべき問題が、数学の中から生まれてくるのだ。(略)
数学者は、自らの活動の空間を「建築」するのだ。(略)
行為が建築を生成し、建築が行為を誘導する。建築と中に住まう人との境界は雑じり合い、渾然とした一つのシステムが形成される。
ヒルベルト「数学についての数学」
19世紀に入ると、記号と計算の力に牽引されて奔放に発展していく数学を、その基礎から見直す動きが生まれる。何より、微積分学の発展によって古代ギリシア人が慎重に回避してきた「無限」にかかわる議論が数学の中心舞台に躍り出し、素朴な直観にばかり頼ってはいられなくなってきたのだ。
(略)
[「解析学の厳密化」が推し進められ]「極限」や「連続性」など、定義が曖昧なままにされていたいくつかの概念に対して、できる限り直観に依存しないような、厳密な定式化が試みられるようになる。(略)
[あたかも肉眼から顕微鏡による観察になったように]
目を疑うような光景が広がっていることもしばしばだった。たとえば「いかなる点においても接線を持たない連続関数」などという「病理的な」関数が発見されたときには、エルミートは「恐れおののき、まなこをそむけ」、ポアンカレは「直観はいかにしてわれわれをあざむくのか?」と自問し、戸惑いを隠すことができなかった。
数学者が目を凝らし、数学をより克明に把握しようとすればするほど、そこには直観を裏切るような現象が現れたのだ。そうなると、数学者たちは自らの直観が大雑把で不完全であると自覚して、それが証明の手段として信用に足るものではないことを悟る。(略)
[計算が複雑化し]計算の代わりに創造的な「概念」を導入することで、過剰な計算過程を縮約しようと考える数学者が登場しはじめる。特にリーマンやデデキントを筆頭とする19世紀半ばのドイツの数学者たちが、数式と計算の時代から、概念と論理の時代へと舵を切っていこうとした。(略)
未知の概念も、すでに知られた対象の「集まり」として定義できれば、そうした「集まり」を操うための一般理論(すなわち「集合」の理論)を使って、誰もがそれを同じルールに従って操作することができるようになる。当初は個人の心の中に浮かび上がっただけの概念も、具体的な集合として定義されることで、万人の共有財産になるのである。
そのため、概念を重視する数学の展開と相まって、集合の理論の整備が進んだ。その先鞭をつけたのがデデキントだ。
(略)
ところが20世紀に入ると、デデキントやカントールによって創成された「集合論」には、致命的な欠陥があることが明らかになる。特に、1903年に公にされた「ラッセルのパラドクス」は、当時の集合論が、数学の基盤としては極めて危ういことを明らかにした。数学は、その基礎をめぐる深刻な「危機」に直面したのだ。
(略)
ヒルベルトは考えた。現実的には概念を駆使して展開している数学も、原理的には有限的で機械的な方法だけで実行できるはずである。(略)
定理や証明は文字で書き表されるから、数学者の最終的なアウトプットは、記号の羅列に過ぎない。
だとしたら、ひとまず数学的思考の意味や内容ということは横において、現実の数学者が原理的に生み出し得るアウトプットを、少なくとも表面上はそっくりそのまま生成できるような人工的システムをつくることができるのではないか。
(略)
適当に決められた人工言語と推論規則からなる「形式系」を数学理論の似姿だと思って、数学理論そのものの代わりに、形式系について研究をすることにしてはどうだろうか。(略)
ヒルベルトは生身の数学理論を研究する代わりにその似姿たる形式系を研究することで、数学についての哲学的な論争を、数学的に定式化された具体的な問題に還元してしまおうとしたのである。
(略)
残念ながらこの計画は、若き数学者ゲーデルのいわゆる「不完全性定理」の発見によって暗礁に乗り上げる。(略)
が、ヒルベルトの「方法」そのものは、「数学の救済」とは別の文脈で、後世に多大な影響を残した。
(略)
たとえば数直線や関数空間 など異なるいくつかの数学的対象が、ある共通の性質を持つことを示したかったとしよう。このとき、個別の対象についていちいち似たような証明を繰り返すよりも、あらかじめ数直線や関数空間に共通する性質を(位相空間の)「公理」として取り出しておけば、あとはそれらの公理から目的の性質を導き出すことで、証明を一度に片付けてしまうことができる。このように、公理的な方法には、数学の異なる分野を、互いに結びつけてしまう力があるのだ。
公理的方法のこの著しい生産性に着目し、数学の全体を公理によって規定された抽象的な「構造」についての学問として再編成をしようとしたのが、「ニコラ・ブルバキ」を名乗るフランスの若手数学者の集団だ。(略)
ヒルベルトの方法から多分に影響を受けた彼らの数学が、その後の数学のあり方を決定的に方向づけていく。いまや、数学においてブルバキの構造主義的考え方は、ほとんど水や空気のように浸透している。
(略)
他方で、ヒルベルトの思想は意外な副産物をも生んだ。彼の「数学を救おう」という浮世離れした計画の果てに、コンピュータが発明されたのだ。ヒルベルト流の「数学についての数学」の考え方を身につけた若き数学者アラン・チューリングによって、「計算についての数学」が整備され、その理論的な副産物として、現代のデジタルコンピュータの数学的な基礎が構築された。
数学の形式化、公理化は、数学から身体をそぎ落とし、物理的直観や数学者の感覚などという曖昧で頼りないものから自立させていこうとする大きな動きの帰結である。そうした時代のうねりが頂点に達した20世紀の半ばに、身体を完全に失った「計算する機械」としてのコンピュータが誕生したのだ。
アラン・チューリング
[ひとつ上の憧れの先輩が急死]突然の出来事に呆然とするチューリングを、モーコムの母が何度か自宅に招待したそうである。チューリングはその度に、モーコムが使った寝袋で眠った。そうしていると、そこにモーコムの「魂」が漂っているかのように感じられたという。
そもそも物理学が描くように、人間もまた自然法則に従う一つの「機械」に過ぎないのだとしたら、どうしてそこに自由な意志を持つ「魂」が宿るのか。意志や魂という概念を、どうすれば物理的世界の科学的な記述と調和させることができるのか。「心」の世界と「物」の世界の折り合いは、いかにしてつけられるのか。こうした一連の問いが、次第に彼の頭を支配していく。(略)
[なぜ発展途上だった論理学を選んだか]
どうやらチューリングは、「心」と「機械」を架橋する手がかりを、数理論理学の世界に見出したのである。(略)
[ヒルベルト流の「数理論理学」には]心の働きを対象化して科学的に研究するための、方法論のヒントがあったのだ。
(略)
彼は計算する人間の振る舞いをモデルとした、ある仮想的な機械を考えたのだ。(略)
“数”はチューリング機械によって「計算される」だけでなく、チューリング機械として「計算する」ものでもあるという同義性を獲得した。チューリングは、自ら数に与えたこの同義性を巧みに使って、あらゆるチューリング機械の動作を模倣できる「万能チューリング機械」を理論的に構成してみせた。
(略)
“数”は、それを人間が生み出して以来、人間の認知能力を延長し、補完する道具として、使用される一方であった。(略)数はどんなときにも、数学をする人間の身体とともにあった。
チューリングはその数を人間の身体から解放したのだ。少なくとも理論的には数は計算されるばかりではなく、計算することができるようになった。「計算するもの(プログラム)」と「計算されるもの(データ)」の区別は解消されて、現代的なコンピュータの理論的礎石が打ち立てられた。
(略)
人間の知性には直観やひらめきなど、チューリング機械の動作に還元できない要素がある。チューリングはそれを差し当たりオラクルという「括弧」にくくったのだ。物理では説明できない心の神秘が「魂」の問題として残されたのと同様に、チューリング機械では捉えられない知性の直観的な側面が、オラクルとして彼のモデルの中に残った。
説明できることと説明できないこと、科学的に語れることと語れないこと、その境界を冷静に見極めた上で、説明可能な部分から慎重に着手していくのがチューリングのスタイルだ。(略)のちに彼は「機械によって知性を構成する」という夢を抱き、世界で最初の人工知能研究者になるのだが、この段階ではまだ、そんな過激な思想は姿を現していない。
そんな彼の運命を変えたのが、戦争である。
(略)
暗号解読の過程は、人間の「心」が生み出すひらめきや洞察と、「機械」による愚直な探索とのコラボレーションそのものだった。それはチューリングにとって、「心」と「機械」の間に、新たな橋が架けられていくような、目の覚める経験だっただろう。(略)
[暗号解読に成功した]1941年に、「機械の知能」について論じたテキストを書き(略)「経験から学ぶ機械」という着想を早くも披露していたことがわかっている。
(略)
脳の中だけを見ていても、あるいは身体の動きだけを見ていても、そこに数学はない。脳を媒介とした身体と環境の間の微妙な調整が、数学的思考を実現している。
(略)
ヒルベルトは言語的に書き下された証明の性質に注目し、その本質を取り出すことで、「証明」を新たな数学的対象に仕立て上げた。チューリングは、行為として現れている「計算者」の動作に注目して、それをモデル化することで「計算」それ自体を数学的な対象に仕上げてしまった。彼らは「証明」や「計算」という形で外に吐き出された数学的思考をうまく切り出し、記号化し、それ自体を対象化することで、実り豊かな数学分野を立ち上げた。
(略)
数学的思考はもちろん計算ばかりではない。何か言葉では言い表せないような直観、意識にも上らないような逡巡、あるいは単純にわかること、発見することを喜ぶ心情。そうしたすべてが「数学」を支えているはずである。
だとしたら、「計算する機械」と「数学する機械」の間には、あまりにも絶望的な距離がある。そう考えるのが普通ではないか。
チューリングは必ずしもそうとは考えていなかった。あらかじめ決められた通り、愚直に動き続けるだけの機械が、暗号解読において驚くべき貢献をした。それはまだまだ遠く人間の知能には及ばないけれど、人間の創造的思考を目指す出発点としては悪くない場所かもしれない。彼は、そう考え始めていた。「計算する機械」から出発して、それを少しずつ改良していけば、やがては「数学する機械」も、あるいは数学に限らず、まるで人間のように思考する機械も作れるかもしれない。チューリングの心の中に芽生えた「人工知能」の夢は、このあとますます膨らんでいくことになる。
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