考える脳 考えるコンピューター

サール「中国語の部屋

サールの主張では、理解はいっさい起こっていない。(略)中国語の部屋でおこなわれることは、コンピューターの内部とまったく同じだ。男はCPUで、機械的に命令を実行する。指示書はソフトウェアのプログラムで、CPUに命令を供給する。そして、メモ用紙はメモリーだ。ということは、いかにコンピューターがうまく知能をシミュレーションし、人間と同じ振る舞いをするように設計されたとしても、何かを理解することはないし、知能を備えることもない。なお、知能の本質が何かは、サール自身もわからないと明言している。そして、それがなんてあれ、コンピューターには持たせられないことだけを主張した。(略)
哲学者と人工知能の専門家を巻き込んでの大論争が起こった。(略)
わたしはサールが正しいと思った。(略)理解はどこにも起こっていない。そもそも、「理解」とはなんなのか? それを定義しなければ、システムが知能を備えているかいないかの基準も、中国語を理解しているかいないかの区別も、あきらかにならないだろう。これらの違いは、行動からはわからない。(略)
わたしが静かに本を読むとき、目に見える行動を何一つとらなくても、あきらかに理解して知識を得たと、少なくとも本人は思っている。一方で、周囲の人間は、わたしの静かな態度からは、物語を理解したかどうかがわからない。それどころか、物語の書かれている言語を知っているかどうかさえ、判断がつかないだろう。質問をして確かめることもできるが、理解は物語を読んだときに起こったのであって、質問に答えた瞬間ではない。この本で主張することの一つは、理解したかどうかは外側から見える行動では判断できないというものだ。(略)
したがって、自分の働きを理解していない。コンピューターの行動、すなわち出力がどれだけ知的に見えたとしても、そこに知能は存在しない。

ニューラルネットワーク

 第一印象では、ニューラルネットワークはわたしの目的にぴったりのように思われた。だが、すぐに幻滅してしまった。そのころまでに、脳の働きの解明には三つの要素が不可欠であるという自説ができあがっていた。
 第一の要素は、時間の概念だ。実際の脳は急速に変化する情報の流れを処理している。入ってくる情報にも、出ていく情報にも、一定のものはない。
 第二の要素は、感覚の入力とは逆に流れる情報の重要性だ。脳の中のつながりが双方向であることは、神経解剖学者のあいだで古くから知られている。たとえば、新皮質はその下側にある視床と呼ばれる組織から入力を受けとるが、このための順方向の経路よりも、「逆方向」のほうが約10倍も多い。つまり、新皮質に情報を入力する神経繊維一本に対して、感覚器官の方向に情報を戻す繊維が10本もある。逆方向のつながりは、同じように、新皮質全体にわたって多数存在する。その正確な役割はだれにも解明されていないが、報告されている研究では、あらゆる場所に存在することが明確に示されている。そこで、わたしはこの逆方向の流れが重要に違いないという結論に達した。
 第三の要素として、どんな理論やモデルも、生体としての脳の構造を説明する必要がある。新皮質の構造は単純ではない。あとの章で説明するように、何段もの階層になっている。ニューラルネットワークもこの構造にのっとらないかぎり、けっして脳のように働かないだろう。
 だが、ニューラルネットワークが爆発的に流行するにつれて、ほとんどのモデルはこれらの要素を一つも含まない、いちじるしく単純なものに落ち着いていった。
(略)
 わたしの考えでは、ニューラルネットワークのもっとも根本的な問題は、人工知能と同じところにある。どちらも、振る舞いに焦点をあてているのが致命的なのだ。振る舞いを意味する言葉は「応答」「パターン」「出力」などと異なるが、いずれにせよ、そこに知能があらわれるものと決め込み、プログラムあるいはネットワークの処理で、与えられた入力からそれを生み出そうとする。人工知能ニューラルネットワークでは、最大の目的が望みどおりの出力を正しく得ることにある。アラン・チューリングから示唆されたままに、知能を行動になぞらえている。
 だが、知能とは知的に振る舞い、動きまわるだけの能力ではない。(略)暗闇で横になっているだけでも、思案と推理をめぐらすことで、知能は発揮できる。頭の「中」の働きを無視し、外にあらわれる行動に重点を置くことは、知能の解明と、それを備えた機械の実現において、大きな障害となっている。

機能主義の解釈のちがい

 機能主義の立場では、知能を備えているとか、心を持っているとかの状態は、純粋にその性質だけが重要で、実体が何であるかはまったく意味を持たない。(略)その要素はニューロンでも、半導体チップでも、そのほかの何であってもかまわない。(略)
 例をあげよう。チェスのナイトの駒を紛失し、食卓塩の容器で代用したら、勝負の価値がさがるのだろうか? 絶対にそんなことはない。食卓塩の容器は盤上での働きとほかの駒とのかかわりにおいて「本物」のナイトと機能的に同じだ。チェスの勝負は正当なもので、単なるシミュレーションではない。
(略)
 人工知能の支持者も、コネクショニストも、そしてわたしも、脳の知能にいっさいの特殊な魔法の力を前提としていない点で、全員が機能主義者だ。知能を備えた機械がいつかは、なんらかの方法で実現できると信じている。だが、機能主義の解釈に違いがある。
(略)
 人工知能の支持者はまた、歴史を振り返って、工学の解決策が大自然と根本的に異なっている例をあげるのも好きだ。たとえば、飛行機の製作にどうやって成功したのか?翼のある動物が羽ばたくのをまねたのか? 違う。翼は固定しておいて、プロペラや、のちにはジェットエンジンで推進したのだ。大自然と違う方法を使っているのに、きちんと機能するばかりか、翼を羽ばたかせるよりもはるかに速い。(略)
つまり、ある仕事をするプログラムが人間に匹敵するか、まさる成果をあげるなら、その作業に特化して効率化された方法が使われていても、脳に比べて遜色はない。
 機能主義をこのように「目的のためなら手段を選ばなくていい」と解釈したために、人工知能の研究者は道を誤ったのだと思う。サールが中国語の部屋で示したように、同じ行動をとっているかどうかはじゅうぶんな基準ではない。知能は脳の内部の性質であるから、解明するためには、頭の中の、とくに、新皮質をのぞく必要がある。
(略)
 コネクショニストは直観的に、脳がコンピューターではなく、つながれたニューロンの振る舞いに秘密があることを感じとった。出だしはよかったが、研究は初期の成功からつぎの段階にほとんど進まなかった。何千人という研究者が三列のネットワークに取り組んだし、いまも多くの人々がつづけているが、実際の新皮質に近いモデルの研究は、過去も現在も少ない。

新皮質

 名刺かトランプのどちらかを六枚用意し、一つに重ねよう。(略)六枚あわせて二ミリほどの厚さなら、いかに薄いものであるかを実感するはずだ。ちょうど同じように、新皮質には約二ミリの厚さがあり、名刺の一枚ずつに相当する六つの層が重なっている。
 平らに広げると、人間の新皮質はおおよそ大きめの食事用ナプキンほどの面積になる。(略)ネズミは切手ほどしかなく、サルでも封筒くらいの大きさだ。
(略)
[マウントキャッスルは]領域のわずかな差を探す解剖学者たちを尻目に、たしかに違いはあるものの、新皮質がきわめて均質であることに注目した。同じ層、細胞の種類、つながりが、いたるところに存在する。どこもかしこも、六枚の名刺に見える。(略)それほど似ているのなら、あらゆる領域は同じ処理をおこなっているはずだ。(略)
 実際、マウントキャッスルは、領域同士がわずかに異なっているのは、基本的な機能ではなく、つながりに違いがあるからだと主張している。結論として、新皮質には共通の機能、共通のアルゴリズムがあり、あらゆる領域がそれを実行する。視覚と聴覚の処理に違いはなく、運動を起こす処理とも変わらない。
(略)
視覚には色彩、模様、形状、奥行き、広がりなとか含まれる。聴覚は音の高低、リズム、音色などで構成される。両者の感覚はまったく違う。それなのに、どうして同じだといえるのか? マウントキャッスルは、感覚そのものが同じなのではなく、新皮質がそれを処理する方法が、目からの信号でも耳からの信号でも同じであると主張する。さらには、運動の制御も同じ原理でおこなわれると述べている。(略)
 はじめてマウントキャッスルの論文を読んだとき、わたしはあやうく椅子から転げ落ちそうになった。ここに、神経科学のロゼッタ・ストーンがある。(略)マウントキャッスルの提案がきわめて大胆で、信じられないほど美しいことは、しっかりと認識してほしい。
(略)
 新皮質の神経網が驚くほど「柔軟」に形成されることも、神経科学者は発見した。つまり、流れ込む入力の種類に応じて、つながりと機能を変える。たとえば、生まれたばかりのフェレットの脳に手術をほどこし、目からの信号がふつうは聴覚野として発達する領域に送られるようにする。その結果、驚くことに、聴覚野の中に視覚を伝達する経路がつくられる。べつの表現をすれば、このフェレットは脳の通常なら音を聞く領域を使って、ものを見ている。(略)ネズミが生まれた直後に、視覚野の一部を触覚が扱われる領域に移植する。そのネズミが成長すると、移植された組織は視覚ではなく、触覚を処理している。このように、視覚、聴覚、触覚という細胞の役割は、生まれながらに決まっているわけではない。
 人間の新皮質も、あらゆる点で同じように柔軟だ。生まれつき耳が聞こえない人は、ふつうは聴覚野になる領域でも視覚の情報を処理するようになる。先天的に目の見えない人が点字を覚えるときには、新皮質のいちばん後ろの通常は視覚野になる部分が使われる。点字は触れて読むわけだから、主として触覚の領域が使われるという誤解がある。だが、新皮質のいかなる領域も、何もしない状態には満足していられない。視覚野が目からのものと「想定」される入力を受けとれないときは、それにかわるほかの入力パターンを探しまわる。そして、この場合には、新皮質のほかの領域から入力を得るようになる。
 以上のすべてから、脳の領域がどのような機能に特化するかは、成長の過程で流れ込む情報の種類に大きく依存することがわかる。
(略)
 マウントキャッスルの主張は正しかった。新皮質のあらゆる領域では、単一の強力なアルゴリズムが実行されている。それらの領域を適切な階層につなぎ、感覚入力を流し込めば、周囲の環境が学習される。したがって、将来あらわれる知能を備えた機械には、人間と同じ感覚や能力を持たせなくてもいい。新皮質のアルゴリズムは、いままでにない感覚とともに、いままでにない方法で実行できる。その結果、柔軟な真の知能が、生物の脳を離れて人工の皮質の上に出現する。

次回に続く。