横尾忠則 『言葉を離れる』

「中学二年生の時、江戸川乱歩南洋一郎の少年向けの小説を三、四冊読んだきりで、30歳になるまで読書を必要とする生活とは無縁の人生を送ってきた」著者の半生が綴られてる。そこらへんは飛ばして最後の方から。

言葉を離れる

言葉を離れる

モチーフは絵葉書の滝

[ファインアートが合体の対象としたサブカルチャーはマンガ、広告、写真だったので]
ぼくは挿絵を絵画の中に導入したかったのです。鈴木御水、梁川剛一、山川惣治、ドレを中心に、シャーロック・ホームズジュール・ヴェルヌの挿絵など洋の東西を問わず一画面の中に混合させてしまいました。
(略)
 挿絵的世界を主題にした一連の作品に取りかかると同時に、次なる主題が無意識的世界で準備されていたことをある日滝の夢を見始めることで知り、無意識が開示されることになりました。それから滝の夢を連続して見るようになりました。日頃滝に対する関心が強かったわけではありません。滝の夢を見る前は水の底の小石まで鮮明に見える美しい清流の中を川魚が何匹も流れに逆らいながら泳いでいる光景を夢で度々見ていました。この種の夢は目覚めたあと不思議と浄化作用がありました。それに対して滝は圧倒的なエネルギーと力を与えられた気分で、どこか高揚するものがありました。
(略)
 滝の夢の反復はぼくに滝の絵を描かせる動機になりました。当時現代美術で滝の絵を描く作家は皆無だったので、主題のオリジナル性を強調していましたが、その内国内でも滝をテーマにする「滝の画家」と名乗る作家も現れ始めました。そうなるとぼくは二番手の作家と対抗する気もしなくなり、あっさり滝の絵を描くことを止めてしまいました。
(略)
 ぼくの滝の絵はストレートに滝を描くのではなく、人物を含む様々な事物が混在する複雑な形態の中を滝が流れているという作品で森羅万象が全て滝で結ばれているような作品です。このような滝の絵の資料として滝のポストカードを蒐集するようになりました。
(略)
最初は絵のモチーフで集め出した滝のポストカードでしたが、カムデンのお店からどんどん送られてくるようになり、気がついたら一万三千枚に達したというわけです。(略)
 カムデンのアンティークショップに依存するだけではなく、実際に国内の滝巡りをしながら滝のポストカードを集めました。(略)ぼくの滝巡りは滝見物ではなく、滝の観光地のお土産屋で滝のポストカードを買うことなのです。本物の滝を前にして絵を描くわけではありません。ぼくは子供の頃から模写しか興味がなかったわけですから、滝のポストカードを模写するだけです。ナイアガラの滝やイグアスの滝に行っても真っ先に走って飛び込むところはお土産屋で、滝のポストカードを買うのです。買ってしまってから本物の滝を見物するというわけです。
 ぼくがモチーフにする対象は滝に限らず、その大半は大量生産された印刷物からです。印刷物はその性格から複数部数存在しています。このようにマスプロダクションされた印刷物は大衆の目を通した一種のイコンでもあります。イコンには人々の願いや祈りや欲望の想念が印刷物の表面に付着してイコンエネルギーになっています。このように手垢ではなく、目垢のついた印刷物の図像を絵にするのが好きなのです。マスプロダクションされた印刷物を使用するという点はポップアートと似ていますが、その意味するところはかなり異なります。ポップアートは消費社会の産物を使用することで批評になったりしていますが、ぼくの滝のポストカードは同じ大量生産されたものでも、そこに人間の想念や思念が付着しているということで、ポップアートの物質性に対して精神性が強調されています。そこがアメリカと日本との違いということでもあります。このような発想は日本的というより、ぼくの内部の土着性の吐露を意味しているようにも思います。

絵のモチーフなんて行きあたりばったり。

 滝の絵を描いたり滝のポストカードのインスタレーションを発表しているぼくの作品を見た人はぼくが滝に対して並々ならぬ思い入れを抱いていると思っているようですが、ぼくは滝が好きでも嫌いでもありません。平均的な日本人が滝に興味を持つのとさほど変りはないと思います。(略)
絵のモチーフなんて行きあたりばったり、出会い順に決まるものだと考えており、その主題に特別の思い入れも執着も何もありません。また主題の意味するものを必要以上に深く考えることもありません。滝は滝以外の何物でもないのです。滝は滝なのです。その滝に様々な装飾的な言葉をくっつける必要はないのです。(略)余計な言葉をくっつけて語れば語るほど滝は滝でなくなって別の物になってしまいます。(略)禅は言葉を排して単純になることでしょう。絵も同じです。言葉が頭の中で戯れている間は無心になれません。言葉の支配から完全に離脱して初めて絵が描けるのです。言葉が頭の中から消え、肉体が発する言葉のみに耳を傾ければいいと思うのです。言葉が頭を支配している間は絵が描けても、魂は描けないと思います。
 この間藝大の大学院修士課程の卒業制作展を見に行って、生徒から自作について語ってもらいました。その言葉の大半は観念的で、肉体の言葉は全く聞こえてきませんでした。現代美術はいつの間に言葉を必要とするようになったのでしょう。自作を観念的に語れない者は美術家失格とでも教えられているのでしょうか。そして鑑賞者までいつの間にか洗脳されて、頭の中を言葉いっぱいにして絵を理解することになるのでしょうか。その時、鑑賞者の本能や感性は必要ないことになります。言葉ってそんなに信用できるものでしょうか。
(略)
絵は観念ではなく肉体です。だから絵では絶対ウソはつけません。馬鹿は馬鹿な絵を、頭のいい人は頭のいい絵を、病弱な人は病弱な絵を、その人の本性がそのまま肉体を通して表現されます。

言葉を離れる

若い頃は私がいて他人がいました。他人を意識する私がいました。老齢になると私と他人がひとつになるような気がします。そのことは作品の方が先に気づいてくれます。私が背負っている自我を私から下ろして身軽になりたいのです。確かに自我が私を作り、作品を創ってきました。しかしそんな私の季節は終ろうとしています。言葉さえも私から下りたがっているような気もします。だからですかね、ぼくの中から言葉が毎日のようにひとつ、ふたつと滑り落ちていくのです。人間が死ぬということは肉体の中から全ての言葉が失くなる状態を言うのではないでしょうか。言葉が残っている間は死ねないのかも知れません。そして死んだら新たな言葉が生まれ、生きていた時代の言葉はその機能を失うことになって、向こうではその意味も内容も伝わらなくなることでしょう。ですから生きている間にうんと使い果たして、言葉の器を空っぽにして旅立つようにできれば最高ですよね。なぜなら言葉の中には人間の煩悩がビッシリ詰まっているからです。

画家に目的はない

[三島由紀夫の死について]
 普通はみんな目的を持ちます、結果も考えます、大義名分があります、そういったことで初めて行動を起こすわけだけど彼の中にはそれはないんですよ。ところがそれを論じようとする人は結果を見る、目的を探す、大義名分はなんだったのかということに関心を持つんだけど、三島さんにははっきりそれがないんですよ。そこは絵描きの人間に似ていると思うんです。画家って目的も持ってないんですよ。ギャラリーで展覧会をするとか、有名になるとか、そんな目的じゃないんですよね。目的もないし結果も考えない。(略)
それでそういう質問されたらセザンヌも困ると思う。なんでリンゴばっかり描いてるかって、描きたいから描いてるとかそんなことしか言えなくなってしまうと思うんですよね。そのリンゴがなんで美術の革命を起こしたかはわからないし。ぼくは芸術で革命を起こす、あるいはいままで観たことないような美術に触れた時は観た人の意識というのか、概念がその時ドドドドって崩れていくと思うんですよ。それがぼくはその人の革命だと思うんです。
(略)
 絵の現物はその人の身体から流れ出たアウラというのがあるわけですよね。タッチとか、そういったマティエールに移し込まれているというのか、それを観客は観るんですよ。われわれはゴッホの麦畑や、ゴッホの郵便配達夫を観ているんじゃなくて、塗りたくった絵具のタッチを観ているんですよ。あのタッチの心地よさをみんな観ているわけで、美術史家的に観るとそこにいろいろな説明が加えられますよね。彼の人生経験あるいは彼の思想や歴史や宗教心、ありとあらゆることが美術史的に説明される。そうではなくて、あの厚く塗られた物質としての絵の具を観ているんですよ。だから例えばマグリットのように技術を消したような絵からさえも絵の具の表層を観るんです。ただマグリットの場合はすごく思索ということ、考えるということを絵にしている人で、デュシャンほども徹底してないけども、絵を通してものを思索するわけですよ。そんなめんどくさいこと、それよりゴッホみたいに絵の具を観ているほうがいいんじゃないですか。だからマグリットの受ける今日性というのはたぶんマグリットの絵が言語的で観念的だというところもあると思うんですよね。
(略)だけど彼は20世紀の芸術に大きい影響はさほど与えてないと思うんですよ。芸術の前進が見られないんですよね。ピカソなんかどんどん自分の描いたものを否定してそれを破壊させ、崩落させながら進歩していくわけだけどもマグリットは同じスタイルでずっと来ているから芸術の進歩はないんですよ。マグリットは絵描きと呼べないかも知れない。むしろ哲学者と呼んだほうがいいのかも知れない。絵描きとしてはよくないですよね。すごく技術の優れた上手い看板屋さんみたいなものだから。だけど、彼の絵の普遍性は彼の絵が全部思索しているということにあるでしょうね。だからマグリットは文学者が奸きなんですよ。また観念的な人によって愛されているんです。だけどデュシャンから見れば「甘い!」ということになるでしょうね。デュシャンの考えはすごいですからね。ピカソだったら「お前そんなことで頭使ってる時間があるんだったらもっと描け」と言うでしょうね。
(略)
サント・ヴィクトワール山は一体何枚描けばいいのか。文学だったら、一作書けば同じようなものを何作も書く必要はない。ぼく達はそうじゃない。ひとつのことを描くと。どのように描けばこの絵を通して本当のことが言えるのかということを模索しているわけですよね。100枚描けばいいのか、200枚描けばいいのか。実にくだらないことを追求しているわけですよね。世間にとっても自分にとっても実にくだらない。これものすごく頭のいい、明晰な奥さんがいれば「あなたなんでこんな毎日なんの役にも立たない同じものを描いているんですか」って言われるかも知れない。ぼくが絵描きの奥さんだったらそう言いますね。意味がないことをやっているわけだから。意味のないことをいかに深く追求するかということで、これは描いていかないとわからないんですよ。よくこれで誰も怒らないで許してくれるなという。すごく笑っちゃうくらい不思議ですね。
 だけどこれはやっぱり自分の中で革命を、自分なりのレボリューションを起こしたいという気持なのかも知れないですね。昨日までうんと抽象化されたあれを描いた。ついに抽象まで来たじゃないか。これで終りかなと思ったらそうじゃない、今度は具象にボーンと180度もどってしまった。ここから描き始めて、また抽象にいくと思うんですよ。そうするとあの抽象じゃない別の抽象にいくかも知れない。あるいは……全然わからない。人生はこういうものなのかなと。

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