ユーロ消滅?―ドイツ化するヨーロッパ

自らを欧州の教師で、道義上の啓蒙家であると理解することで、「二度とないように」という重荷から解放されたい、ドイツ。

ユーロ消滅?――ドイツ化するヨーロッパへの警告

ユーロ消滅?――ドイツ化するヨーロッパへの警告

序文

ドイツによる民主主義の資格の剥奪

 2012年2月末「今日この日にドイツ連邦議会ギリシアの運命を決定する」と、私はラジオのニュースで聞いた。緊縮義務と予算策定権という主権への介入をギリシアが甘受するという条件が連結した第二「支援計画」が決定される。私の中のひとつの声は、「当然だ。その通りだ」と言っているが、もうひとつの声は、「いかにして、こんなことが可能なのだ」「あるひとつの民主主義が他の民主主義の運命を決定しているというのは、一体どういうことなのだ」と愕然としながら問いかけている。なるほど、ギリシア人はドイツの税金を必要としているかもしれない。だが、緊縮措置はギリシア国民の自己決定の空洞化に等しいものである。
 いらだちを覚えたのは、発言の内容自体に対してだけではない。この事態が当たり前のこととして甘受されていることに対しても、いらだちを覚えたのであった。
(略)
 このような他者による民主主義の資格の剥奪が注目をあびないのならば、私たちはどんな国に、どんな世界に生きているのだろうか、またどんな危機に直面しているのだろうか。「今日ドイツ連邦議会ギリシアの運命を決定する」という言い方は、自らを過小評価した表現である。ギリシアだけではなく、ヨーロッパがすでに問題となっているのだ。「今日ドイツがヨーロッパの存亡を決断する」という文言が、時代の精神的、政治的状況を的確に表現している。
(略)
[敗戦から]70年足らずを経て、もの覚えの良い生徒から欧州の教師にまで上昇したのである。しかし、ドイツ人の自己理解では、「大国」という言葉は相変わらず、汚い言葉と見なされ、「責任」という言葉に置き換えた方が望ましいとされている。
(略)
欧州の危機は頂点に達し、ドイツは以下のような歴史的な決断を迫られているのである。あらゆる抵抗に抗し、ヨーロッパの政治統合というヴィジョンを新たに活性化するのか、あるいは、「ユーロが私たちから離れていく」まで、先延ばしの政治と時間稼ぎの事なかれ戦略を維持していくのか。ドイツは力が強くなりすぎたので、決断をしないという贅沢をする余裕はないのである。
(略)
イタリアのジャーナリストで作家のエウジェニオ・スカルファリは、「ドイツがユーロを挫折させるような金融政策を取るのであれば、そのヨーロッパの挫折はドイツに責任があることになろう。それは、両大戦とホロコーストに続く、第四番目の罪になろう。ドイツは今、ヨーロッパに対する自らの責任を果たさなければならない」と述べている。

欧州の新たな権力構造、メルケル女王

 多くの人々が、メルケルの中に戴冠していない欧州の女王の姿を見ている。このドイツの首相の力の源がどこにあるのかと問うならば、彼女の行動の特質を示す以下の指標に答えが求められるであろう。行動しないこと、まだ行動しないこと、遅れて行動すること、つまり躊躇するという性向である。欧州危機において彼女は最初から躊躇したし、今日まで躊躇している。彼女は最初、ギリシアの債務の悲劇を欧州の政治日程にまったく載せたくはなかった。それから初めて彼女はギリシアを救済することを拒絶した。後にスペインとイタリアに支援がされることが望ましいことになると、彼女は妨害した。メルケルにとって、各債務国の救済は実際にはまず重要なことではない。彼女はとりわけドイツの有権者を獲得したいのである。デア・シュピーゲル誌が書いているように「世界市場におけるドイツの競争力を保持するために、彼女はドイツの貨幣を守らなければならない。そしてついでに場合によってはヨーロッパを救済する必要があろう」
(略)
ドイツの命令とは「倹約せよ、安定を達成するために倹約せよ」というものである。
(略)
 ただし、メルキァヴェッリ[メルケル+マキァヴェッリ]の手法は次第に限界に近づくかもしれない。いずれにせよ、ドイツの緊縮政策はこれまで決して成果を示せていない。その反対に、債務危機はスペイン、イタリア、それどころか、おそらくやがてフランスをも襲おうとしている。貧者はますます貧しくなり、社会の中間層には没落が迫り、暗闇の中で明かりは見えていない。
(略)
 他の諸国が次第に債務の奈落に沈んでいくのに対して、ドイツの経済は今のところ成功の道を進んでいる。これはこの国の社会の雰囲気にも表れている。政治やメディアや世論において、自分の業績を自覚することに基づいた新たなナショナルな誇りが感じられている。この新たな自己理解は、一言で言うなら「私たちは確かに欧州の主ではないが、教師である」というものである この「私たちは再びナショナリズムの主体であるし、ナショナリズムがどこでうまくいくかも知っている」ということは、「ドイツ普遍主義」と呼べるものに根拠をもっている。つまり、緊縮財政という真理のことである。
(略)
 財政危機やユーロ危機に関してだけでなく、環境問題から核エネルギーに至るような他の領域においても、ドイツ人は自ら責任を負う義務があると思っている。ドイツ人は、だらしのない国家に包囲されているという感情を抱いている。スペイン人やイタリア人やギリシア人やポルトガル人は、人生を楽しむということに関しては自分たちよりも優れているであろう。だが、彼らは軽薄で、軽率だ。彼らはもうそろそろ、財政規律や税のモラルや自然を大事にする付き合い方がどんなものなのかを学習しなければならない。グローバル化された世界では、きちんとした決算ときれいな環境が優先されることを、彼らは理解しなければならない。
 南側の国々が必要としているのは、補習であり、倹約や責任感というようなことに関しての一種の再教育である。ほとんどのドイツ人にとって、これはクールな数字から必然的に導かれる要求である。ここでドイツの傲慢さとか、ドイツの権力欲とかが推測されるのであれば、それはひどい誤解ということになろう。ドイツ人の視点からすると、最終的には、ギリシアやスペインやイタリアを世界市場に「適合したものにさせる」ことのみが重要である。そのことを現在、ドイツ人は歴史的使命と見なしている。コールは東ドイツ全体に繁栄する光景が広がることを約束したが、メルケルはこれを今や欧州全体に願っているのである。
 この新たな自己意識は、ドイツ人が「二度とホロコーストがないように。ニ度とファシズムがないように。二度と軍国主義がないように」といった「二度とないように」という重荷からある程度解放されるので、重要なのである。
(略)
 ドイツ人は、時の経過と共に自らの教訓を学習した。彼らは民主主義の看板を背負うことになった。脱原発の看板も、緊縮の看板も、平和主義者の看板も背負うこととなった。彼らは長くて、時折困難な道を歩んできた。
(略)
公的に罪を告白し続けてきた数十年の後、つまり半世紀以上「二度とナチズムを繰り返さない」ということを掲げてきた後、メディアや政治や世論において反対方向の運動が示されている。(略)
「二度と贖罪のレッテルを貼られなくてよいように」ということである。ドイツ人はもはや人種差別主義者や好戦的であるとは見なされたくないのである。彼らは自らを欧州の教師で、道義上の啓蒙家であると理解したいのである。
 この診断が正しいのであれば、なぜ「ドイツによるヨーロッパ」と言うことが、政治的に不快感をもよおさせるのだろうか。その解答は、「あまりにも多くの過去を呼び起こさせるものであるからだ」ということになろう。「ドイツによるヨーロッパ」という言い方は、歴史的に汚れていて、きわめて繊細なタブーを破ってしまう。というのも、それが新たな権力構造を言葉にしているからである。

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