永山則夫 封印された鑑定記録・その3

前回の続き。

永山則夫 封印された鑑定記録

永山則夫 封印された鑑定記録

西村を飛び出して三男のところへ行くも、追い返され、やけになって停泊中のデンマーク船で密航を試み、発見され、送還。長男のつてで板金工場に勤めるも、馬鹿扱いする長男へのあてつけで警察沙汰を起こし、少年鑑別所へ。数日後釈放され、同じ工場にしばらく勤めたが、ついに長男の家を飛び出し、

職を転々。

 米屋の後、東京に戻ってきてから勤めた池袋の喫茶店では、マネージャーが自分にだけ飲物の作り方を教えてくれないような気がして、上司に嫌われたらもう駄目だと辞めた。羽田空港の喫茶店では、自分と同じ板柳町の出身者がいることが分かるやいなや、荷物も置いたまま一目散に逃げ出した。洋服屋の窃盗がばれてしまうと思うだけで怖かった。
 永山は当てもなく無賃乗車を繰り返し、最後はタクシーに乗って日光までたどり着いた。(略)
 「死んでもいい」と思った。
 あまりの薄汚れた永山の格好と、ひどく落ち込んだただならぬ様子に、タクシーの運転手は永山を降ろしてからすぐ警察に通報した。華厳の滝の手前まで歩いたところで、警察官がやってきた。
(略)
[長男の家に連れ戻されたが、長男は]一言も話しかけてくれなかった。
 「今度こそ死のう」
 決意した永山は、ひとり近所の田んぼの真ん中に立ち、長男の家から持ってきた安全剃刀で手首を切りつけた。朦朧としたまま血が流れるのを見ていたが、出血はしばらくしたら止まってしまった。(略)
 家に戻ると長男の妻が驚いて、その父がガーゼで治療をしてくれた。しかし、誰も何も聞かなかった。「なぜ」と尋ねてくれる大人はいなかった。当の長男は相変わらずマージャンに出掛けて留守のまま。永山は再び、一銭も持たず家を飛び出した。「もう長男の世話にだけは絶対にならない」と誓った。
 永山は後日、半年ほどしてから、こっそり長男の家を訪ね、世話をしてくれた長男の妻に働いて貯めた5000円を届けている。食べさせてくれたお礼をしなくてはいけないと思ったからだ。長男の妻は「ありがとう」と言って受け取ってくれた。以後、その妻とは二度と会うことはなかった。
[数日後、アメリカ海軍横須賀基地に侵入]
基地の中に停泊している船に乗り込めば、日本を離れることが出来るかもしれないと思ったからだ。その日の昼間、基地に入ってみようとフェンスをよじ登ると、簡単に侵入できた。日も高いので、一旦、基地を出て出直すことにした。
 夜になって、今度は海から泳いで渡ってみた。また拍子抜けするほど楽に侵入できた。水面には物々しいサーチライトが照らし出されていたが、全然、恐ろしくなかった。むしろ見つかってもいいと思っていた。アメリカ兵なら不審者を見つけたらすぐ撃ち殺すだろう。撃ちぬかれた自分の脳みそがバラバラに飛び散ってサーチライトに照らし出され、海にプカプカ浮いている光景を想像してみたりもした。死への距離は、少しずつ縮まっているようだった。
(略)
[基地の中の自動販売機を荒らしてるところ発見される]
彼らは予想外にやさしかった。通訳の人は、「物を盗むなら、こんな所に来なくても」と気の毒そうに言って、射殺どころか丁重に横須賀警察署に送り屈けられた。(略)
 青森から東京にやってきて右も左も分からなかった少年は、上京からわずか一年半後には住む場所を失い、基地に侵入して逮捕されていた。(略)少年が堕ちていくスピードは加速度的に増していく。
 永山は事件を起こすまで、この横須賀基地に通算四度も忍び込んでいる。
(略)
[この後、少年鑑別所へ送られ、地獄のリンチを受ける。出所後、兄達のように定時制高校に通うことにするが、中学から内申書がなかなか届かず、血書で催促の手紙を送る]
当時の永山には、物事を必死に頼むための手段が他に思い浮かばなかった。いつか映画で観た、時代劇の血書のシーン。永山の行動の判断基準はいつも「映画で観たこと」だった。牛乳屋を一度逃げ出して、沖仲仕に。18歳の夏に、同僚に誘われ「筆おろし」

初体験

小汚い暗い部屋に通された。30は超えていそうな、シミーズ姿の痩せた女(略)
永山 それでね、彼女が(上に)乗るっていうんだ。パンツそのままにして、なかなか脱げなくて。それまでさ、映画で勝新太郎とかのを観てるでしょう。(略)
それが嫌でね、むこうが入れてくれたんだけど、うまくピストン、出来ないんだ。それで黙ってモジモジしてたんだ。一応入ったけど映画と違うんだなあ……。彼女の見たけど真っ黒なんだ、紫色で、それ見て、なんか、おっかなくなっちゃって、背筋がぞっとして、何ていうか、あんまりいい感じがしなかったんだな。駄目なんだなあ、子どもだったんだね。よっぽど言われて何とかやったけど、いざ出陣って時にね、まだ出来てなかったんだ。(略)
俺、買うの、すごく嫌だったんだ……。(略)
胸や唇にも絶対に触らせてくれなかった。よく見ると女の顔は痩せこけて、何ヶ所か殴られたような痕があった。客をいかせられない時に殴られるのだろうか、歯もなかった。とにかくそこは暗くて汚かった。ふとセツ姉さんと男が寝ていた時の風景が頭をよぎった。ヨダレを垂らしたセツ姉さんの顔――。やる気は益々なえた。
(略)
永山 終わった後、とにかく洗おうって思ってね、水道あるとこ、駅の近くの水道でゴシゴシやって洗ってね。俺、なんか嫌だったんだ、空しいっていうかね。「こんなもんか、こんなもんか」って……。なんか女の人に憧れてたのがあったんだ。俺、本当にヤだったんだな。あれ、無いほうがいいね、女の人、可哀相だよ……。
 結局、最後までいくことが出来ず、すっかり自信を無くした。劣等感はますます募った。女の人の「性」にはいつも、セツ姉さんの影がつきまとった。女の人と話をするのは、それまで以上に苦手になった。
 以後、どんなに沢山、稼いだ時も二度と女を買おうとは思わなかった。筆おろしがうまくいかなかったからだけではない。都会では、自分のような田舎者の貧乏人と売春婦は、何をされても文句ひとつ言えない同じような立場に居ることを、永山は敏感に感じていた。
(略)
[次男に定職につけと言われ]トラック会社の運転手の補助、明治製菓の倉庫の雑用係、新宿の水道局のパイプの敷設工事など、職を転々とした。(略)
 そんなことをやりながら、永山は定時制高校に通う夢を捨て切れないでいた。もう一度だけ、来年の春から頑張ってみようか。そのためには三男がやっていたのと同じように、時間が自由に使える牛乳店にまた勤めるしかない。

定時制高校で学級委員長になるも被害妄想

永山 俺、どうして委員長になったのかなって。向こうが委員長にして辞めさせるっていう考えだったのかもしれないって、俺が脱落するようにして。全員で俺の名前書いてね。選ぶことで辞めさせるっていう、ほら、牛乳屋の仕事はキツイってこと知ってるんだ。それで俺がくじけるからって負担かけて。隣に座ってた人も何かヘンだったんだ。俺、それでなくても、保護観察のこと先生に言うべきかどうか大分、迷ってたし。本当は言いたかったんだ、だけど委員長になってしまって。牛乳屋の人に委員長になったって言ったらね、「いいじゃない、頑張れよ」って言うわけなんだ。俺、嫌でね。牛乳屋も保護観察のこと知ってたのかな。俺、だいたい勘付いてたよ。あんまり自信なかったんだ。よっぽど逃げたかったんだな……。
[また追い詰められ、相談に乗ってくれない三男へのあてつけもあって、給料日直前、給料と相殺と考えて集金の三万を持ち逃げ。実家へ逃げ帰るも追い返され、沖仲仕に]

石川医師の分析

相手の行動をすべて被害的に受け止め、たとえ良いことをされても悪い方向へと考えてしまう、典型的な「被害念慮」のパターンである。
 永山は、最初は必死に働く。それは不安をかき消すためであり、劣等感の裏返しの行動だ。そして心身ともに疲れ果て、それ以上そこにいられないという切羽詰まった極限状況に自分が置かれているかのように思い込み、ついには他人から見ればささいなことをきっかけに、すべて放棄して逃げ出す。逃げて、もっと条件の悪い所に行き、そこでまた頑張って、さらに極限状況に陥ってどうにもならなくなって逃げるという悪循環を繰り返していた。石川医師は言う。
 「人間不信、そして不安、それが異常なレベルで強いと感じました。
(略)
 辛い現実から逃げ出した時、永山はいつも「安心した、自由になった」と喜ぶ。だが、心の中に憎悪は溜っていく。逃げ出すだけでは腹が立つ。その憎しみを仕返しに転化しようとする時、必ず「当てつけ」の行動をとる。そして、一時的に相手を困らせて復讐した“つもり”になり、すっきりする。しかし、現実には何の解決にも復讐にもなっていない。しかも永山の当てつけの方法は、密航や窃盗など悪いことをして自分が捕まるといった自虐的な方向に働き、社会的に自らを貶めていく結果を招いてしまっている。

[沖仲仕の思い出]
「人間を人間と思わない現場で、何かあると殺してドラム缶に詰めて海の中に捨てるんです。給料は親方にピンはねされるし。(略)
[数日前につくった雪だるまは]頭が溶けてなくなっていた。「四人を殺したことはまったく悪かった。無期になるくらいなら死刑の方がいい」

拳銃

[四度目米軍基地侵入]
 白い象牙の銃把を持った小さな拳銃は、とても美しかった。食べ物を探しに入った少年は“宝物”を手に入れた。
 かつて妹と姪を殴りつけ、自信をつけた木刀。その木刀と同じように、拳銃は少年に自分が強くなったかのように錯覚させた。
(略)
[野宿しようと東京プリンスホテルに侵入したところを警備員につかまり、逃げたい一心で射殺。京都の八坂神社で野宿しようとして、また捕まり、射殺]
永山 逃げようとして、ジャンパー、後ろから掴まえられて、それで、俺、転んじゃったのね。その時、拳銃、ポケットから落っこちちゃったの。それで俺、慌てちゃって……。懐中電灯で顔、照らされて、後ろにホテルの光、あって、よく分からないんだ。相手の顔、全然、見えないんだ。帽子がおまわりに似てて。
“警察官”から逃れたい一心で、咄嵯に拳銃の引き金を引いた。
(略)
永山 あの人……、最初、倒れなかったでしょ。鉄砲っていうのは、当たったら、もっと血がドッと出るものだと思ってたから、俺、まだ半信半疑だったのね。それで、晩、公園の近くのかで寝て、起きて新宿かどっかで新聞、買ったら、「死亡」とかなんとか書いてあってね、それで「どうしよう」って思って新聞、捨てて、兄貴のアパート行ったんだ
(略)
「二人、殺してしまった。今度は自分が死ぬ番だ」
[東京へ戻り、次男に事件のことを告白。自主しろと言う次男に、死にたいと言う]
[次男証言]
このまま則夫が捕まったら、私も共犯で捕まると思い、「このまま死んでくれたら」と思って、悪いことは承知で現金を渡してやったのです。

青森へ死出の旅

「これ迄の生活の結晶点のように思えた。」(略)則夫は、「二人も殺したから自分も死ななければならない。」と死ぬ覚悟を自分に言い聞かせながらも、「俺は何のために生きてきたのか。このまま死ぬのはくやしい。やりたいことを何一つ出来なかった。何か足りない。充たされない。何かに対して強いうらみが心の中でうずまいてどうしようもない」と、まず強いうらみを自覚した。
(略)
 決意を固めさせたのは、最後の相談相手として選ばれた次男が、「どうせ死ぬなら熱海でいいじゃないか」と則夫の気持ちを逆なでする様に言ったことに対する憎しみと当てつけでもあった。当てつけというのは次男が「どうせ死ぬなら手間をかけさせずに死ね」と言ったことに対し、則夫は逆に、「どうせ死ぬなら大暴れして手間をかけさせて死ぬ」ことで次男に当てつけてやることだと考えた。
 この時、則夫は、相談相手にもなってくれず、かえって自分を厄介者視し見捨てた親、兄弟、ひいては社会全体に対して憎悪の塊と化していた。
(略)
[函館と名古屋でタクシー運転手射殺。拳銃を埋め、「自殺すると決めた20歳になるまでに、これまで出来なかったことを全部やろう」と、半年新宿のジャズ喫茶で働く]
 「死」が並ぶ、昭和四四年四月四目、五ケ月ぶりに、横浜に埋めていた拳銃を掘り出した。中野のアパートに持って帰ってから、迷いもなく頭に銃口を向けて引き金を引いた。しかし、弾は出なかった。土の中ですっかり湿気ていたのだ。ひどく落胆した。高まっていた時機を逃してしまったと思った。拳銃と弾は乾かすためにコタツに入れた。
 二日後、原宿にある専門学校に侵入。わざと警報機を鳴らし、駆けつけてきた警備員めがけて派手に拳銃を発射した。出来る限りの大暴れをして逃げた。そして翌朝、半ば自首する形で巡回中のパトカーの前に姿を現す。四件の犯行に使った拳銃を持ったまま警察に捕まること、それは自殺することも叶わなかった永山にとって、兄や姉、ひいては家族に対する復讐の総仕上げだったのかもしれない。

別れの悲しみを知る

 自分が殺害したタクシー運転手に子どもがいたことを知らされ、かつての自分が置かれていた境遇に重ねた。父がいない寂しさを誰よりも知っているのに、同じような子どもを作ってしまった、せめてその子が大人になるまで貧乏な思いだけはさせたくない、どうすればいいのか、彼なりに考え始めた。そして独房でノートに自分の思いを綴りながら、これをいつか本にして印税を届けようと思うようになった。
 独房に入ってから経験したある別れも、被害者遺族のことをより深く考えさせることになったと永山は打ち明けた。逮捕された後、半年間ずっと独房に籠っていた。他の収容者の目にふれて噂されるのが嫌で、運動にも出ずひとりで過ごした。そんな時期に何かと目をかけてくれた看守がいた。部長と呼ばれるその人は、永山の頭をなでてくれたり、将棋の相手をしてくれようとしたり、運動場にある花を、「命があるから大切にしなさい」と渡してくれたりもした。まるで父親みたいに感じていた部長だったが、ある日突然、永山の前からいなくなった。後に人事異動で横浜に行ったと知らされた。
永山 その時もね、被害者のこと、考えてたんだよね……。被害者……。俺、そんな別れっていうのは、あんまり経験したことないわけなんだ。本当にこう、「本当に惜しいな」っていう別れ、したこと、ないでしょう。いつも自分の方から逃げていくわけなんだ。ところが、ここ(独房)にいたら、俺の方から寄っていっても仕方がないっていう別れ方になるんだ。それで、彼がいなくなって落ち込んで、そこにあるのは被害者のことだったんだ……。あのね、こうやって生きた別れも、そのぐらい人の気持ちを動かすんだったら、死んでしまった別れっていうのは、もっと悲しいんだろうなっていう……。

鑑定を永山に否定される

石川医師にとって検察官や裁判官からの厳しい言葉は、確かに不愉快には違いなかったが、耐え難いというほどでもなかった。むしろ「これですべて終わった」と、どこか吹っ切れたように感じていた。なぜならば、永山への鑑定を終えた直後、医師として根底から打ちのめされる出来事が起きていたからである。
 それは四年前、完成したばかりの石川鑑定が関係者に手渡された時のことだった。
 弁護団は、自分たちも聞いたことのない新たな情報にただ驚いた。ところが、当事者である永山則夫本人が、鑑定の中身を否定したのである。永山は鑑定書を読んだ後、「これは自分の鑑定じゃないみたいだ」と言ったという。
 鑑定書の分析に記載された「被害妄想」「脳の脆弱性」「パラノイア的」「神経症徴候」「精神病に近い精神状態」などといった言葉に、永山は敏感に反応した。(略)
[獄中で猛勉強し]無知だったかつての自分を否定し、学問を知るひとりの人間として社会に発言することに生き甲斐を見出すようになっていた[永山にとって](略)石川医師がぎりぎりまで配慮して表現した診断結果は、彼がようやく手に入れた自尊心をも酷く傷つけることになった。
(略)
 何よりそれらの医学用語は、心を病んでしまった長女セツのことを思い起こさせた。自分もセツ姉さんのように精神病になるかもしれないと恐れ戦いた日々があった。
(略)
 「『被害妄想』などという言葉に引っかかったっていうのは患者でもよくあることだし、そんなに驚きはしなかったですよね。だけど『これは自分の鑑定じゃないみたい』ってね、あれでショックを受けましたね……。
(略)
裁判官や検事は別としてね、彼ぐらいは自分が言いたいことを表現した鑑定書だという風に言ってくれるだろうと僕は思い込んでいたわけ。ところがね、別の人の話みたいだっていうのを聞いて本当にショックで、びっくりしましてね……。あれだけエネルギーを注ぎ込んで作ったものを否定されるっていうのは、もうやりようがないと思ったですね、一体、本当に……」
 ここまで一気に言葉を繋いだ石川医師の目は、深い失望と哀しみを顕にしていた。
 「(略)批判しても精神療法だったら、彼が批判したこと自体を話し合って、なぜ批判しているのかを明らかにして彼も私も納得すると。じゃ次はこうしようって出来るでしょ、でも鑑定は出来ない。もう意味がないと思いましたよね。それでもう、精神鑑定は絶対にやるまいと決めたんです。もう、あれ以上の精神鑑定はやりようがないと思ったんです。反論も対話もできず治療にも結び付けられないのなら、二度とやるまいと……」
(略)
 この鑑定を最後に、石川医師は将来を嘱望された犯罪精神医学の道をすっぱり退いた。医師の原点に立ち戻ろうと考えた。それは40歳を前にした決断だった。(略)
以降、石川医師は臨床医として、患者に向き合う日々を過ごしていくことになる。

死刑判決

 判決は石川鑑定について、判断の材料となる前提を間違えており重大な疑問があるとして一顧だにしなかった。(略)
[2012年の右陪席豊岩根元裁判官証言]
「(略)石川鑑定を読んで驚きましてね。『これじゃあ極刑、無理じゃねえか』と言っていた人もいたほどでした。私自身、あのような立派な精神鑑定言は見たこともなくて、その後の自分の裁判でも何かと参考にさせてもらいました。だけど、当時の裁判官には心理学的な知識もありませんし、どこか『所詮は医者が言っていることだから』というような雰囲気がありましたよね。
 裁判の結論は決まっていましたから、排斥するより仕方がない、そう、仕方がないということになってしまうんです。ある結論を導き出すために、ある証拠を否定しなくてはならない。そういう時、良いところは言わないで、悪いところを見つけて、それで敢えてひっくり返すと、そういうことでしたね。それは今だって変わらないんじゃないんですか?」
 あまりに率直な意見だった。豊岩元裁判官は最近の裁判員裁判を見ていると、まるで被害者の仇討ちの場になっているようで危惧を感じると話し、証拠を見て判断することの大切さを訴えようと取材に応じてくれたのだった。
[昭和56年一審が破棄され無期懲役に。当時の弁護士は石川鑑定に依拠した判決だと確信](略)
 二番判決の後、船田裁判長は一斉にマスコミのバッシングに晒される。四人殺しを死刑にしないのは、事実上の死刑廃止判決だと非難され、永山事件は、その内容よりも死刑制度の是非を問う議論へと変容していった。
 [二年後最高裁判所は二審を破棄](略)
 東京高等裁判所に審理をやり直すよう差し戻したその判決は、事実上の死刑判決だった。
(略)
 一度は生きることを許され、またも死刑を下される中で、ついに永山の心はもたなかった。彼は再び心を閉ざし、永年支えてくれた弁護団とも、妻ミミとも関係を断った。もはや死刑判決を確定させる手続きを踏むだけの場となった法廷に静かに立ち、独房ではひとり小説を書く日々を送るようになる。彼の小説に登場する人物はいつも、板柳の家族とミミだった。

永山の遺品の中に石川鑑定書

 死刑が執行されるその日まで、永山則夫は生涯、「石川鑑定」を手放さなかったのである。(略)
 「これ、原本ですか? これが、彼の部屋にあったんですか?」(略)
 「ああ……、こんな風にしてね……」
 医師は、それから何度も何度も頁をめくっては、つぶやいた。
 「ああ、彼は書いていますね、ここにも、ああ、線が引いてあるわ。これは、彼の手垢がついているんだね。こんなところにも、線がありますよ。このことは僕、全然、知らなかったですよ……」
 鑑定書を見つめる両の目は、もう涙を堪えられなくなっていた。
(略)
あの笑顔を見た時は、やはり面接は、精神鑑定とはいえ治療的だったと思ったんです。(略)ああ本当に良くなったと思ったんですよ。
 お互い、全身でぶつかり合ったんです。それは並大抵じゃなかったですね。(略)38歳ですから、エネルギーがあったんだね。あの時、彼の人生と私の人生が、うまく一致したんでしょう。でなきゃ、こんなに詳しくは出来ないですもん。共感するところが、どこかあったんでしょうね」(略)
「[鑑定書の否定]は表面的な言葉だったかもしれないけど、僕は真面目だから、真に受けて……。本当に真に受けちゃったですね。だから、彼は僕の人生を変えたでしょうね。あの事がなかったら、犯罪精神医学をもっともっと研究していたでしょう。
[だが精神療法に意義があったので悔いなしと石川]
(略)
 面接の最終日に撮影された、24歳の穏やかな笑顔。(略)
 「せめて、ここだけでは一緒にと思ってね」
 そう言って医師がカードケースを裏返すと、母ヨシの写真が現れた。青森・板柳町の旅館で話を聞き終えた後に撮影した写真。どこかすまなそうな、淋しげな笑みを浮かべている。すべてを語り尽くして穏やかになった息子の表情とはどこか違う、複雑な笑顔。(略)
 生前、事件について石川医師から問われた時、一度だけ大きな声で泣くようにして語ったヨシの言葉を思い出していた。
 ――則夫、とにかく甘えたかったんだの。おら、分かってたけど、出来んかった。おら、今でも信じられねえ。金、ほしくてやったんじゃねえのにやったんだって、則夫、言ってるんだなって、おら思った。誰が何と言おうと、今に分かるって。金、ほしくてやったんじゃねえ。なんぼニュースに出ても、本に出ても、こんなん嘘だ、今に見てろ、分かるって。

これがその穏やかな笑顔。
姉セツとも往復書簡もかなり泣けるけど、カッツアイ。