愛国者の憂鬱 坂本龍一・鈴木邦男対談

愛国者の憂鬱

愛国者の憂鬱

 

老化でロハス

坂本 (略)[40代半ばで]だんだん老化を意識しはじめたことも大きいかもしれません。それまで僕は本当に元気の溢れる人間で、全然病気もしなかったんです。一緒に仕事している周りはバタバタ倒れるんだけど、僕だけは三日徹夜して仕事しても平気、みたいな感じで。(略)馬並みの体力だったので。
(略)
[食生活を気にするようになり]桜沢如一マクロビオティックとか、合気道なんかにも興味を持ちました。
(略)
[70年代、有機農法マクロビオティックへ流れた新左翼]に対して「政治で負けたからといって、精神的に逃避するのはいかん。政治での負けは政治でもう一回取り返せ。それが論理だろう」と思って長いこと軽蔑してたんです。(略)でもいざ、自分が老化を意識しはじめると、衝撃を受けまして。手に入る桜沢さんの本を片っ端から読みました。あとは、野口整体野口晴哉さんの著書にも本当に影響を受けました。それまでまったくそういうこととは正反対の生活をしてたのに、急にガラッと変わって。けっこう僕はイデオロギーがガンッと自分の中に入ると、そっちに行っちゃうタイプでもあるんです。まるで正反対になったので、周りはみんなビックリしてましたし、ずいぶん困ったと思います。(略)環境とか、エコとか言い出したのも、その頃でした。

愛国者脱原発

鈴木 (略)坂本さんには、針谷大輔くんの『右から脱原発』にも「自分は愛国者であって、国を憂いている」と、序文を寄せていただきまして、仲間としてありがたいです。右翼のみんなは「坂本さんがよく書いてくれたなあ」とびっくりすると同時に感謝してますよ。
坂本 福島第一原子力発電所の事故が起きた2011年の夏の終わりぐらいに、初めて「右からの脱原発運動」のデモがありましたね。「子供たちを救い出し美しき山河を守れ!!」という幟が出てきたときは「日本にも本物の右翼がいたんだ」と感動しました。我が意を得たりという感じで。それ以前は右からのそういう声が聞こえなかったので、僕自身が右翼の愛国者になって、脱原発を言わなきゃいけないんじゃないか、と真剣に思ってました。

右からの脱原発

右からの脱原発

  • 作者:針谷大輔
  • 発売日: 2012/11/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

君が代

坂本 送っていただいた、CD「君が代のすべて」にいろいろ収録されてましたね。大変面白かったです。フェントン作曲の初代「君が代」の方が、曲としてはいいですね。(略)賛美歌風のもいい曲ですね。
 今の「君が代」はずいぶん中途半端なものになっていて、旋律は確かに日本的な部分はありますけれども、そこに風変わりな和音がついています。エッケルトというドイツ人がつけたそうですが、非常に折衷的なんです。はじまりは、単旋律ですけど、途中から和音がついてきます。ティ〜ラ〜ラ〜ララ([千代に」の箇所)ってところですね。最後はまた単旋律に戻る。たぶん、エッケルトは日本的な雰囲気を出そうとしてやったのでしょうが。

君が代のすべて

君が代のすべて

  • アーティスト:国歌
  • 発売日: 2000/12/06
  • メディア: CD

小田実『何でも見てやろう』

坂本 (略)一番印象に残っているのは小田さんの最初の奥さんです。日曜の午後にはいつも家にいるという感じで、父に小田さんの[女癖]の愚痴をこぼしていました。
(略)
あれはうちの父が書かせたんですよ。学生だった小田さんに「一年かけて世界を廻って来い」って、お金を渡したんです。(略)それで僕も小田さんには親近感を持ってました。(略)
うちの父が初めて小田さんに会ったのは、小田さんがまだ高校生のときでした。父が文学論を語ると、小田さんは高校生のくせに「坂本さん、それは間違ってますよ」なんて平気で言って。すごかったそうです。

高橋和巳

坂本 父は高橋さんのことを本当に我が子のように親身に世話していました。「埴谷雄高さんを引き継ぐのは高橋和巳だ」という強い信念を持っていたようです。高橋和巳が埴谷さんのような偉大な作家になってほしいと願っていました。だから、高橋さんが京大から誘われて教官になるときも、親父は「ダメだ」と大反対しました。「そういう安定した職に就いたら、お前、書けなくなるぞ」と言って。結局高橋さんは京大に行って、そうしたら京大闘争が起こって、巻き込まれてしまいましたね。

高橋たか子

坂本 家にもよくいらしてました。(略)美しくて、ものすごく聡明な方でした。僕も奥さんの本を何冊か読んでますけど、書くものも素晴らしいですね。奥さんが家に来ていた当時は、僕は10代の子どもながら、「美しい人だなあ」と思って覗いてましたけど(笑)。
(略)
[夫についての文章は]
ちょっと冷たい感じですね。(略)
どちらかと言うと、高橋和巳さんは土着的で、いわゆる日本人らしい人です。奥さんの方は、仏文出身のインテリですから、高橋和巳のことを少し批判的に見ていたところがありました。

右翼

鈴木 左翼が強いときは僕たちの右翼運動も伸びたんです。右翼のみんなは仲もよかったし。(略)ところが、敵がいなくなると右翼の方の運動も全部なくなってくるんですよ。(略)そもそも学園を正常化させようという目的があったから、「左翼がいなくなって、もう正常化したじゃないか」となったんです。(略)応援してくれた人たちも「日本は平和になったんだから、もういいだろう」となっていきました。それで、みんな普通の日常生活に戻っていったんです。大学に戻ったり、政治家の秘書になったり、新聞社に勤めたり。運動に残った少しの人間たちは「運動が伸びないのは、われわれと同じようなことをやりながら裏切ってる奴がいるからだ」「エセ右翼がいるからだ」と言って。なんか仲間で食い合いしたりするんですよ。

末松太平福田恆存

鈴木 (略)[二・二六に参加した末松太平には数回会ったが]何か若者に対して絡むんです。「君たちは民族派だなんて言うけれども、そんなものは人が決めることであって、自分で名乗る必要はない。蝶々は自分のことを蝶々だと思っているか」と言うわけですよ。(略)
末松さんは「二・二六の人たちが生きていたら、今は公害反対運動だけで革命やる」と言ってました。
(略)
すごく感性が鋭いんですけど、若者に対する労りがなかったですね。何かピシャッと潰すんですよ。福田恆存っていう人もそうだったんですよ。(略)「民族派かあ。でも君らは畳に座るより椅子に座った方がカンファタブルだと思うだろう。あと、新幹線に乗ってカンファタブルだと思うだろう。それで民族派か」と言うんです。あんな大学者が、学生に論争仕掛けても仕方ないと思うんですけど。僕は、そういうことを言われてムッとしました(笑)。でも、今振り返ると、ある意味、学生とも対等に付き合ったのかなぁと思います。
(略)
[大島渚には朝生で]
「何か右翼のくせに甘いこと言ってる。はっきりしろ!」って感じで叱られた。

「日本人としての音楽」

[13年前]ベルリンのコンサートで一人でピアノを弾いていたんです。(略)
弾いてる途中で突然強烈な感覚に襲われました。何をやってるんだ、自分はと。彼らの先達である19世紀のブラームスっぽいような音楽を、極東生まれの日本人の僕が20世紀に作って、ドイツ人の前で弾いて悦に入ってる――何たる恥ずかしいことしてるんだと。弾き続けるのがやっとの感じになってしまって。もうそのときは落ち込みました。つまり、「日本人としての音楽」をやってないじゃないかということなんです。

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