カール・シュミット入門講義・その2

前日のつづき。

カール・シュミット入門講義

カール・シュミット入門講義

 

結局のところ、この箇所でシュミットが言いたいのは、主権とは、「事実上の最高権力」と「法的最高権力」の結合したものである、ということです。どちらか一方からの定義だけでは不十分なわけです。

我々が、「これが法だ」と知覚する時には、必ず「決定」という要素が伴っている、逆に言えば、「決定」がなければ、「法」として「知覚」できない、とシュミットは言っているわけです。何故かと言えば、いかなる「法的理念」も自動的に現実化することはないからです。

「政治神学」

『政治的ロマン主義』で既に示唆されていましたが、シュミットはここではっきりと、神学の諸概念が、国家理論の中に入り込んでおり、国家理論の構成が神学のそれに似ていると主張しているわけですね。全能の神に代わって、立法者が全能の存在であるかのようにイメージされることになるわけです。
(略)
 冒頭で出てきた、「例外状態」における「決定」を、神による「奇蹟」とのアナロジーで説明しているわけですね。全能の神が、世界を創ったけど、創った後は、世界の運行に直接関与せず、自分が定めた自然や歴史の法則に任せている。その例外が、奇蹟が起こる瞬間です。世界を支配している通常の法則を遮断する形で、神が直接的に世界に介入するのが、「奇蹟」です。それによって、この世界の創造者は神であることが、人々の目に明らかになるわけです。それとパラレルに、普段は、実定法が、客観的な法の論理に従って動いているように見えるので、「法」を「法」として妥当させている究極の「決定」の主体のことを考えなくていいけれど、「例外状況」になると、「主権者」が表に出てきて、「法」の本質が明らかになるわけです。これで、シュミットがこの本のタイトルを、「政治神学」と名付けた理由がはっきりしましたね。シュミットにしてみれば、ケルゼンたち法実証主義者は、神の立場にある主権者が表に出てこないですむ、「通常状態」だけを見ているせいで、「法」の本質が分からなくなっているわけです。

神を代理する存在「独裁者」

[ドノソ・コルテスは]一八四八年の二月革命で、王権を支えていた、従来的な意味での「正統性」はもはや消滅したことを認識していたわけです。(略)
[したがって]「これこそが神の意志である」と、正統な立場から主張できる者はいない。そこで、あたかも神自身が奇蹟という形で世界に直接介入するかのように、これこそが「神の意志である」と決定し、新たな正統性、それに基づく秩序を、自ら作り出す存在、言わば、神を代理する存在が必要になります。それが「独裁者」です。
 「独裁者」は、自らの「権威」で法を作るわけですが、正統性の系譜は途絶えているし、民衆の意志に依拠することもできないとすれば、自分で、神の代理としての権威を作り出すしかありません。考えようによっては、アナーキズム紙一重です。シュミットは、コルテスのそういうラディカルさを評価しているわけです。

「決定主義」

実証主義の元祖とされるホッブズは、法の本質を、主権者の命令であると考えていました。ベンサムの影響を受けたオースティンも、主権者命令説を取りました。そこからシュミットは、「命令」する人格的主体の決定を重視する「決定主義」の理論を引き出しました。それに対して、ケルゼンは、「規範」としての「法」を、自然科学の「法則」と同じようなものと見なし、人格的要素を排除しようとしたわけですね。ケルゼンの方が一見理性的に見えますが、法律を解釈しようとすれば、どうしても、立法者がどう考えたか、人格的なものを想定しながら、妥当な立法趣旨を考えざるを得ないところがある。(略)
法学は、法を創造した立法者や、法を解釈して適用する裁判官の人格がより直接的に前面に出て来ます。シュミットがマルクス主義をある意味評価するのは、プロレタリアート独裁という形で、「決定」する主体のことを問題にしたからです。シュミットは、ケルゼンが客観的に捉えようとした「規範」の影に隠れている、人格者の命令という要素を引き出そうとした、と言えるでしょう。

人類そのものは戦争をなしえない

[『政治的なものの概念』からの引用]
人類そのものは戦争をなしえない。人類は、少なくとも地球という惑星に、敵をもたないからである。人類という概念は、敵という概念と相容れない。(略)一国家が、人類の名においてみずからの政治的な敵と戦うのは、人類の戦争であるのではなく、特定の一国家が、その戦争相手に対し普遍的概念を占取しようとし、(相手を犠牲にすることによって)みずからを普遍的概念と同一化しようとする戦争なのであって、平和・正義・進歩・文明などを、みずからの手に取りこもうとして、これらを敵の手から剥奪し、それらの概念を利用するのと似ている。「人類」は、帝国主義的膨張にとって、とくに有用なイデオロギー的な道具であり、その人倫的・人道的形態において、経済的帝国主義のための特別な器である。

上記文に対する著者の見解

人類を口にする者は、欺こうとするものである

 シュミットに言わせれば、結局のところ、「人類の戦争」というのは名前だけで、どこかの国が、「平和・正義・進歩・文明」といった普遍的理念と自分を事実上同一視して、[自分の敵=人類の敵]というレッテルを貼っているだけです。
 90年代から21世紀の初頭にかけて、アメリカの「普遍主義」に対してこれと同じような批判が成されていましたね。(略)完全に左翼ですね(笑)。ネグリとハートの『〈帝国〉』の方が穏健でクールに聞こえます。先ほどの箇所を、著者を示さないで見せたら、現代の左翼の文章と思うのが普通でしょう。現代のポストモダン左派の論客たちが、ワイマール・ナチス時代のドイツの超保守的な法学者がこんなことを言っていると知ったら、感動してもおかしくありません。
 しかもここでまた、プルードンを評価しています。(略)


人類を口にする者は、欺こうとするものである。「人類」の名をかかげ、人間性を引き合いにだし、この語を私物化すること、これらはすべて(略)敵から人間としての性質を剥奪し、敵を非合法・非人間と宣言し、それによって戦争を、極端に非人間的なものにまで押しすすめようという、恐ろしい主張を表明するものにほかならない。


 「人類=人間性」という言葉を使うこと自体がいかがわしいというのは、フーコー以降のポストモダン左派の「ヒューマニズム」批判の文脈でよく言われることですが、それを19世紀半ばのアナーキストが既に論じていて、それに更に20世紀前半のカトリック保守主義者が注目するというのが面白いですね。

疲れたので、明日につづく。