前日のつづき。
自由主義
シュミットから見た「自由主義」は、「政治的なもの」それ自体を直視せず、「倫理」あるいは「経済」に還元しようとする傾向があります。(略)ただ「倫理」と「経済」はある意味、対立する関係にありますから、自由主義的な“政治”理解は両極の間を揺れ動くことになるわけです。
(略)
「政治的単位」としての国家が存在する限り、戦争の可能性を伴った「政治的なもの」はなくなることはないのに、[権力=暴力=悪]という前提で、消滅しつつある要素であるかのように見せようとするのが、「自由主義」だということになります。
マルクス主義
シュミットは、マルクス主義が説得力を獲得した要因として、ブルジョワ的な自由主義を、「経済」の領域に完全に追い込むことに成功したことを挙げています。(略)ブルジョワ的自由主義は、「経済」と「倫理」の二本柱の上に成り立っています。(略)自由主義は、単に金儲けを推進しているだけでなく、行為主体としての個人の自由を尊重し、お互いにフェアにプレーするための「正義」の枠組を作るべきことを主張します。スミス、ミル、ロールズなどのリベラルな正義論は、経済の中に倫理を求める議論だと言えます。マルクス主義は、そうした倫理性を否定し、自由主義=資本主義の本質は、貪欲に利益を追求する「経済」だけだと主張しました。それは、半ば自由主義自身の主張だったわけです。
「産業社会」への転換が、「経済」中心的な見方を強めたということですね。資本主義的な生産体制が確立し、労働者は、自由な経済主体ではなくなり、市民社会的な道徳は次第に衰退していった。マルクス主義は、そこをがんがん攻めたわけです。
『政治的なものの概念』からの引用
倫理・経済の両極をめぐるだけの、このような定義や論理構成をもってしては、国家・政治を根絶することはできず、世界を非政治化することもできはしない。〔むしろ〕経済的な対立が政治的なものとなり、「経済的な権力的地位」の概念が生じえたということが、経済から出発しても、他のどんな分野からでもと同様に、政治的なものという点に到達しうるのだ、ということを示しているにすぎない。
(略)
よく引用されるワルター・ラーテナウの、こんにちでは、政治ではなく経済が運命的なのだ、ということばは、この印象から生まれたものである。より正確には、こういうべきであろう。すなわち、政治はいぜんとして運命的なのだが、ただ、経済が政治的なものとなり、それゆえに「運命的」となるという事態が生じたのである、と。
[帝国主義は]技術的に完全な現代的武器を手中に収めている。このような手段を用いるについては、じつは、本質的に平和主義的な用語が作りだされるのであって、そこにはもはや戦争という語はなく、ただ執行・批准・処罰・平和化・契約の保護・国際警察・平和確保の措置だけとなる。対抗者はもはや敵と呼ばれず、その代わりに、平和破壊者・平和攪乱者として、法外放置され、非人間視される。また、経済的権力地位の維持ないし拡張のために行われる戦争は、宣伝の力で「十字軍」とされ、「人類の最終戦争」に仕立てられざるをえない。
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