吉本隆明 宮沢賢治の世界

この本で、「(こんなことは実に稀れです。)」というフレーズが挿入される[宮沢賢治 革トランク]とかヴォネガット先取り、斬新だわ。
グスコーブドリの伝記」の創作メモのタイトルが「宮沢賢治 ペンネンノルデはいまはいないよ 太陽にできた黒い棘をとりに行ったよ」。 

 『銀河鉄道の夜

舞台装置の特徴は、丘の上からみると、町は灯りが点々とついている。そして、そのまわりの野原は暗くなっているわけですけれども、なにか、宮沢賢治はこういうその町と童話の舞台を同時に、つまり銀河系の中の地球の位置というものと同じように類推して、設定しているのです。ですから、町の灯りが点々とみえるというのは、いわば銀河系で星が濃密にあつまっている場所が、いわば町の灯りがみえるところであり、それから、そのまわりの林や牧場のある野原というのが、いわばその空間をしめている真空の地帯なんだ、というふうに類推しているわけです。それで自分は町の灯りをみていると同時に、いわば銀河系の中の地球から、銀河系の宇宙全体をみているというような、そういういわば二重に重ね合わされた舞台装具というのを作っているのです。

「青森挽歌」の中には描かれていないけれども、『銀河鉄道の夜』の中にはかんがえられているところがあるとすれば、死後の世界にも、ある段階性があるんだというふうな考え方だとおもいます。この考え方はまったく法華経的といったらいいのか、日蓮宗的といったらいいのですか、そういう考え方だとおもいます。
(略)
[鳥を捕る人は]殺生したというか、殺生するのを商売としたそういう人ということなんでしょうけども、そういう人がまず鉄道の死後の世界を通っている列車から、最初に消えてしまうわけです。(略)
キリスト教信仰の姉弟と青年とが乗り合わせるのですけれども、それがつぎに消えていってしまうのです。そのつぎに、ジョバンニの親友であるカムパネルラが消えてしまうのです。(略)
[友達を]助けて、そして自分の方が死んじゃったというふうに設定されています。そういう善なる行為をした子どもなんです。(略)
そして、ジョバンニはどういうふうに想定されているかというと、現実の世界から幻想の世界へ、その幻想の世界から死の世界へ、そして死の世界から死後の世界へ、死後の世界のさまざまな段階をこえて最後の唯一無二の世界へ、というようなところまでいける切符をもっているというふうに、作品の中では想定されています。(略)
自分を殺して、多く人々のためにつくすことに生涯を終始したという、そういう人間がいたとすれば、そういう人間だけが最後の唯一無二の世界へいける。そういう切符を手にもっているんだ。そういういわば世界観を、宮沢賢治はこの中で披露しているというふうにかんがえられます。 

「マリヴロンと少女」 

[声楽家マリヴロンに憧れ、一緒に連れて行ってくれと懇願する牧師の娘]
マリヴロンは、そんなにすばらしい仕事をしているとは自分にはおもえない。声を出してうたって人々をなぐさめるとしても、うたっているあいだだけ十分か十五分しか、自分が万人に対して慰安を与えられない。あとはなんでもない。それにくらべれば、牧師の娘であるあなたが父親と一緒にアフリカに行って、その土地の人たちを手助けできるというんだったら、そのほうがはるかに立派な仕事なんだというのです。
 しかし、少女は納得しないで、自分はどこからも光のあたらないただの娘にすぎないけど、あなたは万人が仰ぎ見るような人で、あなたがうたえば、そのうたの光はみんなにあたって、みんなが悲しみをなぐさめられる。だから、あなたとわたしはちがうんだといいます。そこでマリヴロンが「あらゆる人は皆自分の生きてきた跡を残している。それは鳥が飛んだあと、空に軌跡を残していると考えるのと同じで、残したものがその人にとっての芸術であるし、人間にとって最も価値ある芸術である。だから、何人も皆、生活それ自体に芸術を描いている」とマリヴロンは少女にいいます。あなたは生活それ自体で自分のうしろにちゃんと芸術をのこしてきているんだ。だから、わたしとあなたはちっとも変わらないんだ、というのですが、少女のほうはそれでも納得しません。

あなたが立ち止まって何かをかんがえているときには、かんがえているそこにわたしはいつでもいるんだといいます。(略)
 安楽行品ないしは法華経全体でいいますと、このマリヴロンの言い方は宗教に属しています。(略)芸術にはそういう作用はないのです。(略)ある人がつくった芸術がその人にはぜんぜん通じないとか、受けとり方がぜんぜんちがっちゃうことがあります。(略)
あなたがかんがえるそこにいつでもわたしはいるんです、ということは芸術からはいえないのです。わたしの書いたもの、つくったものも読むことによってあなたなりの受けとり方がありうるだろう。そして、それはもしかすると役に立つ、くらいのことはいえるかもしれませんが、それ以上のことは芸術にはいえないのです。つまり、おれの芸術を読んだらおまえ天国に行くぞ、みたいなことはいえないし、また、おまえはかならず心が清められるぞ、かならず救われるぞ、みたいなこともいえないわけです。
(略)
宗教がほんとうに宗教であるなら、おまえは何かかんがえたり悩んだり、芸術のことをおもったりしたら、そこにいつでもわたしはいるんだよ、とそういえなければ宗教でないということになります。それ以外に宗教が人を同化することはできないのです。いつでも、あなたが悩んだりかんがえたり、立ち止まったりしたとき、現実のからだは離れていても、その場所にわたしはいつでもいるんだとかんがえてくれていいんだよ、といえるのは宗教の立場だとおもいます。わずかに、宗教と芸術のちがいはそこだけなんだというところまで、宮沢賢治は追いつめていったとおもいます。それが宮沢賢治の安楽行品の読み方だったでしょう。安楽行品は芸術をまったく否定していますが、しかし宮沢賢治は自分は矛盾をもちながらその両方を生涯やってきて、そこまで追いつめて解決したんだとおもいます。

独特の倫理観はどこから出てくるのか

法華経の第二十章の常不軽菩薩品が宮沢賢治が倫理としてひっかかったところだとおもいます。常不軽菩薩という菩薩がいて、その菩薩は、別に修行をするわけでもないし、法華経を読むわけでもないし、また座禅をくむわけでもありません。でも、どんな人にもかならず手を合わせて礼拝をして「あなたはやがて菩薩になられる方です」というのです。僧侶仲間は、あいつはちっとも修行しないでへんなことばかりいってるとおもいます。また「あなたはやがて菩薩になられる方です」と拝まれた人も、なんて気持ち悪いことをいってるんだ、この坊主は、と軽蔑されるという存在でした。
(略)
銀河鉄道の夜』という作品を例にしますと、鳥を捕る人が列車に乗り込んできます。(略)
ジョバンニとカムパネルラは気さくで人がよくて、自分勝手に話しかけてくるので、ちょっと迷惑そうな感じで受けとめているわけですが、いつのまにか、鳥を捕る人は振りかえるといなくなっている。いなくなってから、ジョバンニは感じるところがあって、自分はあの鳥を捕る人に対してなんとなく気分のうえで邪険な扱い方をしたような気がします。ほんとうはもっとちゃんと対応してあげるべきだったとおもうのに、馬鹿にしたわけではないんですが、なんとなくあなどったような、うとましいような感じで、鳥を捕る人が「あんたはすごい」なんていってくれるとそれを迷惑そうにおもう、そういう感じ方で受けとめた。あのときちゃんと向き合って、鳥を捕る人に対応してあげるべきだったな、とかんがえて
(略)
さっきの宗教と芸術という問題にもつながっていくわけです。鳥を捕る人というのは、ほんとうになんでもない人なんで、べつだん信仰のある人でもないし、とくにすぐれた人でもない。ずるさも持っているし、人のよさも持っているし、機敏さも持っているし、軽さも持っているし、なんともいえない一種の生活感もちゃんと持っているごくふつうの人です。そういう人に自分と合わない波長のところで積極的にかかわられたとき、うるさいなあ、面倒だなあ、とおもう心境というのは、誰でもが日常体験するところです。宮沢賢治の倫理観によれば、それはだめなんだ、ということになります。

欠点

 もちろん宮沢賢治にもいやだなというところはあります。シモーヌ・ヴェーユにもあります。いやだとおもわない人はおもわないでしょうが、ぼくはおもいます。たとえば、宮沢賢治の詩や童話にこういう言い方をするところがあるでしょう。お前たちが苦労して、野原を耕しながら身につけていくものがほんとうの学問であって、学校へ行って、テニスなどやりながら教えている先生から教わるのはほんとうの学問ではないとか、酒を飲んでいい加減に管を巻いているやつはだめだ、水を飲むほうがいいといっています。ぼくは、それは宮沢賢治の欠点だとおもいます。テニスや女遊びをしながら教える先生が悪い先生とは限らないし、そういう人が教えることがだめだとも限らない。つまり、そういうことについて結論づけることはできないと、ぼくはおもいます。だから、そういう言い方をする宮沢賢治は、ぼくはだめだ、それは違うとおもいます。
 これはシモーヌ・ヴェーユも同じです。彼女は、自分のもっているあらゆる思想、理念、イデオロギーが挫折して、本当の女工さんになってしまう。インテリがいい気持ちになって階級移行したのとはまるで違います。しかし、体は弱いし、作業は不器用だし、頭以外は使ったことがないから非力で、周りの職工さんや労働者から怒られたり、怒鳴られっぱなしで、ヘトヘトになってしまう。(略)
やってしまうことに感動する人もたくさんいますし、それが偉さだとおもっている人もたくさんいますが、ぼくはそうおもいません。
 頭だけがよく、体が弱い人、非力で肉体的な仕事をしたことのない人が工員さんになりきることにどんな意味があるのか。全く無意味だとおもいます。意味をつけようにもつけようがないと、ぼくはおもいます。それがヴェーユの弱点であるし、息苦しくて仕方がないところのようにおもいます。もっと自然なほうがいいとおもいます。しかし、それは人それぞれだからいいのですが。
 宮沢賢治にもそういうところがしばしばあります。菜食主義者だったとか、生涯妻帯しなかったとか。つまり、あの人は超人、菩薩になりたかった。そのために、盛んに精進に精進を重ね、無理に無理を重ねていく。
(略)
現在でも宮沢賢治が受けている理由の一つだとおもいます(笑)。しかし、そういうふうに宮沢賢治をおもっている人たちは、城のように囲ってしまい、ほかの人は入れない。偉い人の特性で(笑)、仕方がないのですが、どうしてもそうなります。そこが弱点としてたくさんの問題をはらんでいると、ぼくはかんがえます。

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ジョバンニが走って銀河の渚にしゃがんで水素のような「水」に手をひたしても、読むものの眼は手をひたしているジョバンニも燐光をあげてさざなみたつ水をも同時に視ている。この読むものの遥かな遠方からの眼は、いわば作者の二重視の立体的な装置に依存している。この眼が景観を時間化している秘密である。