呉智英の吉本隆明批判が妄想全開

[追記:4/20 区別がつきにくいとの意見があり、とりあえず呉智英の文章のみ引用冒頭に[呉]を付けました]
第三弾、下記リンクからの続き。
kingfish.hatenablog.com
いかに呉智英の『吉本隆明という「共同幻想」』がデタラメかを検証するために吉本本を延々読んでたらぐったりしてきたので、あまり確認の必要ない第三章からやることに。

吉本隆明という「共同幻想」

吉本隆明という「共同幻想」

呉がケチをつけている「思想的弁護論」だが、これを(kingfish.hatenablog.com)読めばわかるように、被告団弁護人の方針に不満を持つ一人の被告に頼まれた書いたもので

一被告人の依頼において、一被告のためにそうしようということで、草案を作ったわけです(略)
特別弁護人というのは認めがたいということで(略)被告が自分の意見陳述の第二部という形で、僕の草案を読んだというわけです。

保留条件として、俺の言いたいことは全部言わしてくれ、それがたとえあなたの弁護にとって不利になるかどうかはべつにして、とにかく俺にも言いたいことがあるから

そういう意味では、六・一五事件全体に対する弁護というものは、最初から僕のほうで放棄しているわけです。
(略)
できるだけそこに含まれている思想的な問題を出そうと言うわけで草案をかいた

つまり被告団を弁護するためではなく、被告団からはぐれた一人のために、「弁護どころか不利になるかもしれないけど」ちょっと言いたい事を言わせてもらおうというスタンスなのです。批判本を書くならせめて全集くらいはサッと読むのが礼儀じゃないかと思うが(鶴見、竹内との対談は全著作集14巻にも収録されている)、読んでないのか読んだけどあえて例の手法で知らないふりなのか呉は

[呉]
吉本が実際に法廷に立って弁論をしたかどうか分からないが、少なくとも弁護人として書面で意見陳述をしている
(略)全学連の行動が法的には悪かったとしても、法律を離れて考えれば同情すべき点が大きいと主張するよりほかはない。(略)
この当たり前のことが、どうも吉本隆明には理解できていないように思われた

などと書くのである。理解できてないのは呉の方だよ。「機動隊員の攻撃に対する正当防衛、緊急避難、過剰逃避」という線で弁護しようとしている弁護団の方針から外れた一被告のために書いたものなのだよ。吉本自身が「実際の法廷技術としてはたして有効なのか」と言っているわけです。そこらへんの事情を全部無視して特別弁護人のくせにとか(実際そうじゃないし)因縁つけて、何も知らない読者に奇矯な主張をする吉本という印象を与えるのはいかがなものでしょうか。それに吉本は「言いたいこと」の前に、検察の主張が成立しないよと、ちゃんと普通の反論もしているのだよ。
呉は

[呉]
事実、デモ隊は警官隊とぶつかって国会構内に乱入しているのだし、もともとそれを目指した政治的行動なのである。

から犯罪事実は否定しようがない、あとは情状酌量を訴えるしかない、それが「吉本隆明には理解できていない」と書いているが、まともに「思想的弁護論」を読んでいるとは思えない。
小競り合いの中で誰が誰を殴ったかは証明できないので傷害を立件できない、だから検察は共同正犯としてその集団を指導した人間にその罪を負わせようとするのだが、「国会内に入ろうとしてたってことは警備をぶち破る気だったんだろう、暴行の意図があったのだ、だから傷害罪成立」という、以下のような危うい主張なのである。

これだけで直ちに同人らまでが国会の構内に不法に侵入してまでも抗議の意思を表明しようとすることの共謀が成立したものとは速断はできないであろう。したがって、検察官としても右の事実だけを捉えて被告人らと他の多数学生らとの間に本件のすべてに関する共謀があったと主張するものではない。
(略)
 もっとも、国会構内への侵入の意図を読み取り、それに同調して国会構内に侵入したからといって、建造物侵入の共謀は認められても、その余の器物損壊あるいは公務執行妨害についてまで共謀関係を及ぼし得ないといわれるかも知れない。しかし、国会構内に侵入するためには必然的に阻止用物件を排除しなければならず、また、警備警察官の阻止行為に会うであろうことは、当日現場に在った者には、何人も予測し得た事である。
 それを知りながら敢えて侵入の目的を達成しようとするからには、阻止用物件や警備警察官を実力を以て排除しようとの意図を有していたものと見なければならない。(略)警察官に対する暴行の犯意があれば、その結果である傷害についての認識を必要としないことはいうまでもない。

こんな状況なのにあとは情状酌量しかないという呉、法律の知識がなくても通常の言語能力があれば理解できる事がわからない呉、司法試験に落ちたそうですが、無理もないなあ、悲しいことです。
さらに呉はありもしない吉本の主張をつくりあげて印象操作を行う。

[呉]
 つまり、全学連の学生たちの行動は、刑法のどの条文に該当するかという「法律ごっこ」の範疇を超えたものだから法律では裁けない、と言うのである。すぐ後に続く言葉を使えば「現存する国家=法秩序」に「対抗する思想を表現している」から不可罰、無罪だということになる。要するに、全学連の行動は国家秩序への反逆、すなわち革命だったから無罪だという主張である。
 どうもまともな社会人が正気で主張することだとは思えない。

再度説明すると、デモ隊と機動隊の小競り合いで誰が誰を殴ったか認定できないので検察側は共同正犯を持ち出してリーダーの学生に傷害罪を適用しようとしいるわけです。
それに対し吉本は10ページほど費やして共同謀議はないと主張し[さらに第二章では、共産党主導のハガチーデモ後の停滞を打ち破るために行われたとする検察の主張に対し、いかに六・一五デモが共産党とは別の行動であったかを詳細に検証している、しかし、これもまた呉はスルー]、したがって検察の主張は成立しない、その成立していない主張につきあって、六・一五事件のメインの弁護団が、デモの小競り合いで生じた学生の暴力行為を、機動隊員の攻撃に対する正当防衛だ、緊急避難、過剰逃避だという線で弁護していることを、吉本は「法律ごっこ」だと言っているのです。
「革命だから無罪だ」なんて言ってないよ。
「思想的な対立を表現するもの」だったのだから、今この法廷で問題にされている傷害罪の範疇を超えているよと言ってるだけだよ。
吉本が言ってもいないことを勝手妄想して以下のようなアホな事を書いている呉の方がよっぽど「まともな社会人」とは思えないよ。

[呉]
革命(刑法では「内乱罪」にあたる)は、それが完遂された時には無罪である。というより、旧国家は既に打倒されて崩壊しているのだから、革命を罰する法秩序は存在しない。その意味では、旧法秩序内の議論は「法律ごっこ」だろう。(略)
その未来の空想的な革命政府を論拠にして国会乱入は無罪だという主張が通るはずがない。

うわー、なんでしょ、恥ずかしいなあ。
さらにそこから「共同幻想論」に繋がる定番「逆立」ネタが展開されてるだけだよ。「革命だから無罪だ」なんて言ってないよ。

警備警察官の多数が阻止線を構築して存在しなかったならば、何らの衝突なしに集会がもたれ、わたしたちの思想の表現は完成されたことは疑いないところである。
(略)
現行の憲法=法国家を否定するか否かという法の幻想的本質の次元の問題としてであり、それ自体が本裁判の範疇を逸脱するのである。
(略)
 なぜ、憲法=法国家が主権在民を明記しているにもかかわらず、国家に所属する建造物構内が主権者に帰属しないかのように運用法規(国会法、刑法)の規定は矛盾するのであるか?

さらに第一章冒頭から

すくなくともこの法廷では、安保闘争の思想が、公権力の思想と正面から対峙しているのではなく、思想の表現としてのみ成立した行為事実が分断されて「暴力行為等処罰ニ関スル法律」、「刑法」などの条項にあてはまるか否かが争われている。

憲法=法的国家と運用法規との間は、どのような過程によって逆倒するにいたるか?(略)
この逆倒の契機、その屈折点を確定するものは、現在の社会の幻想性の一般的な水準と現実性の水準との切点にほかならない。

で、ここからはこちらの推測だけど、タイトルにも「思想的」とついてて、文章の中でも「六・一五国会構内集会の思想」「思想の表現行為」etcとやたら「思想」が使われているとこ。
吉本は、第一章序論で以下のような所信を述べてから

わたしが思想的な弁護をしようとするべつの客観的な理由は、六・一五国会構内の抗議集会が、あきらかに安保闘争のもっとも豊かな思想の集約的表現であったにもかかわらず、検察官によって提起された公訴事由が、住居侵入、公務執行妨害、傷害等おおよそ思想的な問題とはかかわりない次元にあることである。

このような問題が現れていた前例として「十一・二七事件、羽田事件、四・二六事件」の判決文を引用している。
先に以下の判決文の内容を雑にまとめると、『被告らは「政治的行為で裁かれるならいいけど建造物侵入といった罪で起訴されるのはかなわん」と言ってるけど、憲法で認められてるから思想言論の是非は問えない、そこで違反行為を問題にするしかない』といったかんじ。

 「被告人達は、最終陳述で、ほとんど異口同音に、『われわれは安保改定を阻止することが正しいことであると確信し、安保改定を推進しようとする政府と政治的に真正面から対決したのである。われわれは、この政治的信念及び行動が誤っているということで裁かれるのであるならば幾らでも闘う自信がある。しかし、われわれは、建造物侵入とか、威力業務妨害とか、公務執行妨害とかいう意外な罪名で刑訴された。これは、政府が全学連という最も強力な反対勢力を倒すために、その権力を濫用した陰謀であるとしか思われない。われわれは、この裁判によって何ら裁かれているものでないような気がする。』との旨述べている。しかし、思想、言論の自由が認められている憲法のもとでは、政治的思想や信念自体の是非を裁くことができない反面、どういう政治的思想や信念の持主であろうとも、その行為が法にふれる場合には、法に照して責任を問わなければならない。これらのけじめがはっきりつけられることによって、初めて思想、言論の自由も、これらを基本とする民主主義も守られるといえるのである。」

吉本はこの裁判官の判決文についてこう書いている。

現在の法の担当者がしめしうる見解の自由さの極限が示されているといって過言ではない。
しかし、この裁判官は、現在の進歩派とおなじように、すべての思想的な表現は、なぜ法的国家の本質と正面から対峙することができず、運用法規の次元でのみ法と接触し、その圏内でのみ対峙するに至るのか?という問題になにも本質的に答えていない。

一見不満があるようだけど(いやあることはあるのだが)、デカ字にした部分が吉本が食いついているポイントなんじゃないかなあ。
つまり憲法のもとでは「思想」は裁けない。


続いて10ページ程、呉は安保闘争分析に費やすのだが、えーこれって「共産党の反米愛国主義は排外主義的な愚行」とした吉本が正しいってことになるじゃないのどうするのと思っていると

[呉]
 旧左翼は正しい安保認識ができなかったのではない。しなかったのである。
(略)
かかる安保条約への批判を民衆に訴えて、誰が理解し、説が共感し、誰が政府自民党への怒りをたぎらせるだろう。(略)
もし、政権奪取を目指すなら、日本の「対米従属」を批判し「反米愛国主義」の心情を掻き立てるのが一番である。社会党共産党は現実的な修正主義を選択したのである。最低限、権力の一角に食い込むために。
(略)
 安保闘争で得をするのは、実は社会党共産党だけではない。安保闘争が適度なものである限り、政府自民党も得をする。アメリカに対する圧力になるからである。

うーむ、なんという負け惜しみであろうか。吉本の時代認識が正しかったんやない、共産党かてわかっとったんや、でもそれじゃ盛り上がらへんから「反米愛国」やったんやあ、別に吉本なんか偉くないんやあ、ですって。あの時代に反スタって偉かったなと素直に書いてる鹿島茂を見習って欲しい(kingfish.hatenablog.com)。
吉本は自分たちの勢力を維持するために間違った方向に民衆を駆り立て捨て駒みたいな使い方をする共産党に対して怒ってたんじゃないの、そんなことやっても補完勢力になってあとは衰退してくだけだと言ってたんじゃないの、そこらへん当時を生きてた呉は知ってるんじゃないの。あまり寝ぼけた言い訳をしないでくれよ。
最後に死の二年前、85歳の吉本の朝日新聞インタビューを引っ張り出してきて、実は吉本も

[呉]
アメリカに一矢を報いたい」という「反米愛国主義」の心情で安保闘争に参加していたのである。

と何か一本取った気になっている哀れな呉智英。多分これを読んで、イケると思って「思想的弁護論」を引っ張り出してきたんだろうなあ。吉本が元気だった頃の文章はスルーで、晩年の吉本さんを引っ張り出してきて……なんだかなあ。ハマカーンだなあw。
心に反米感情があったからなんなの。そんな目で隣人の妻を見たから姦淫ですかw
これでまだ第三章の1が終わっただけなんですけど。
しばらく呉のゲスの極みな本は読みたくないので、続きはだいぶ先だろうなあ。