保釣運動とは何か、杉原千畝

尖閣から南シナ海へ埋め込まれた冷戦の影」から引用。
[油田が発見されて領有権を主張しだしたと日本では理解されているが、きっかけは沖縄返還]

中華民国は、米国に対して、日本に琉球列島を返還するなら、釣魚台は中華民国に返還せよと、日米両国に要求した。この時に日本政府は「尖閣諸島には領土問題は存在しない」、琉球列島の一部であることは明白だと突き放した。ところが米国の態度には、あいまいなところがあった。日本に返還するのは、領有権ではなく施政権であり、領有権の解釈については、日中両国の問題であると逃げた。それが後の尖閣紛争の種になった。
[同様の主張を中華人民共和国もしており、国交正常化を模索していた米国はそちらの方を気にしていた]
(略)
第二次世界大戦戦勝国である中国の領土を、同盟国だった米国が敗戦国・日本に引き渡すとはなにごとか。釣魚台の帰属は、台湾島全体の帰属にもかかわる重大問題として、中国人のナショナリズムを刺激したとしても不思議はないだろう。 
米国の不条理に対する中国人の抗議行動は1971年、ニューヨークの留学生を中心にして起きた。これが保釣運動である。
(略)
米中国交正常化の最大のトゲが台湾問題であり、そのトゲの一番先端部分が尖閣諸島(釣魚島)だった。キッシンジャーと秘密会談をした周恩来首相の関心は、海底油田ではない。ポツダム宣言に従って、台湾を中国の領土として承認させることだった。(略)
現在の胡錦濤政権の「核心的利益」は、台湾とチベットを指している。その「核心」という概念は、この周キッシンジャー会談で詳しく展開されている。米国の「中国封じ込め政策」によって宙に浮いた中国の領土のことだ。台湾であり、インドが占領するチベット南部のことである。
 周恩来は「サンフランシスコ講和条約はだれが書いたか」とたずねている。「ダレスです」とキッシンジャーが答える。ダレス国務長官の封じ込め政策と「台湾の地位未定論」を、周恩来は問題にしているのだ。
(略)
カイロでは米国のルーズベルト大統領が、日本の植民地だった台湾を中国が回収するだけでなく、複数回にわたって「琉球は回収しなくていいのか」と持ちかけた。この時点でルーズベルト蒋介石政権が中国本土から追われるとは予想していなかったろう。(略)
 カイロ会談で蒋介石は、第二次世界大戦後の中国の国境線は、清国が奪われた国境線の回復と考えた。琉球諸島も返還されると思っていた。だが、米国が一時的に占領を希望するなら、中国への返還は将来の課題としてもかまわないと考えていたのではないか。だからルーズベルトのささやきに、戦後すぐに琉球を回収しなくてもいいと答えたのだろう。
(略)
 サンフランシスコ講和条約は、中華民国中華人民共和国もいない会議で決まった。カイロ宣言で「中華民国に返還」するとされた台湾のほか、新南諸島(南沙諸島)、西沙諸島について、日本は権利を放棄すると明記されたが、その後の帰属先は書かれていない。一方、沖縄や小笠原などの南西諸島については、米国が施政権を行使すると明記された。
 中国人からすれば、サンフランシスコで米国に台湾を奪われたのである。中華民国は翌年、日本と個別に日華平和条約を締結した。この交渉で中華民国側は、「日本は中華民国に台湾を返還する」という文言を入れ、台湾の地位を明記しようとした。しかし、日本は「サンフランシスコ条約ですでに放棄した以上、その後の地位を言及する資格がない」と言い続け、事実上「地位未定論」に従った。
(略)
 20年後、沖縄返還交渉が始まった。これに介入して、釣魚台を米国から中華民国に返還させれば、米国に台湾を中華民国の領土だと認めさせることになる。そう望みをかけたが、米国は領有権中立論で逃げた。米国に向けられるべき怒りが、複雑に屈折して日本へ向けられ保釣運動となった。根底には、中台分断を拒むナショナリズムがある。

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満洲の情報基地ハルビン学院

満洲の情報基地ハルビン学院

杉原千畝ハルビン学院の前身、日露協会学校の一期生だ。とはいえ、岸谷隆一郎らのように各県で行われた試験を受けて入学した学生ではない。(略)すでに外務官僚であった杉原はその特別枠で学籍を置いたのである。(略)
 ハルビンで杉原は一人のユダヤ系ロシア人女性と恋に落ちた(略)
[杉原は東清鉄道買収においてソ連提示額を1/5まで値切ったが、それを可能にしたのは妻経由のユダヤ人脈]
(略)
 満洲流入するユダヤ人が増えるなか、大連特務機関長の安江仙弘大佐と海軍大佐の犬塚惟重が中心となって、五十万人規模のユダヤ人を満洲国が受け入れるという計画が密かに進められた。
(略)
 外交上の理由とは(略)「日本の傀儡国家」という国際社会のイメージを、ユダヤ人を受け入れることで拭い去るためである。米国は移民法を盾に裕福あるいは特別な技能をもつユダヤ人以外に対するビザ発給に極めて消極的であったし、英国は同国が統治していたパレスチナヘのユダヤ人の入国について、人員制限を理由に拒否していた。そうした状況下で満洲国がユダヤ人を受け入れれば、「本当にヒューマンなのはわれわれだ」ということを日本が世界にアピールできる。(略)
[杉原は]満洲国で頓挫したユダヤ人受け入れ計画を、個人の意志で引き継いだ。(略)
[戦後]杉原を待っていたのは依願退職という形での外務省からの解雇通告だった。理由はユダヤ人へのビザ発給という外務省の訓令違反である。だが、本当の理由は別のところにあった。
 外務省は人員整理の必要に迫られていた(略)
当時、外務省の実権を握っていたのは、日米開戦時にワシントン向け宣戦布告文のタイプ打ちを放置するという大失態を演じた書記官と、彼を処分しなかった参事官だった。(略)米国に真珠湾への奇襲攻撃に対する報復という大義名分を与え、独ソ開戦後、もっぱらドイツ側に有利な情報を本省に送り続けて、日本政府をミスリードしていった責任者たちがそのまま居座り、現地からリアルな情報を送り続けた杉原が去ったのである。