オープンリークス、はじめました

ジュリアン・アサンジと袂を分かち、オープンリークスを始めた元No2によるウィキリークスのリーク。

ウィキリークスの内幕

ウィキリークスの内幕

攻撃や検閲ではありませんでした

 随分長い間サーバーも一つしかなかったのだが、外部に対しては違う印象を与える必要があった。ウィキリークスのインフラは盤石だと思わせる必要があった。一つしかないこのサーバーがダウンすると、外部の人間はそれを敵の攻撃や検閲の結果と考えたが、真相は、単なる技術的な問題による不具合という地味な理由に過ぎなかった。正直に言えば、プロ意識の欠如とか、少なくとも不注意によって引き起こされた不具合もあったかもしれない。当時、二人の大ボラ吹きの若造がたった一台の時代遅れのサーバーを使ってウィキリークスを運営しているという真相を敵が知っていたら、ウィキリークスの台頭を阻止するチャンスもあったかもしれない。

スパムメール

ジュリアンはゴタゴタを最大限に広げるのを楽しんでいるように見えた。人間は怒るのが好きなんだ、とジュリアンは私に説明した。たとえば、彼はスパムメールを歓迎すべき悪と考えていた。人間はスパムメールに腹を立てるのが好きなのだ。
(略)
我々は、「機密文書は受け取った順に処理する」というルールも長い間重視していた。あまりにも重要度の低いもの以外は、受け取った情報はすべて公表しようと考えていた。実際、2009年の末まで我々はこの原則を守った。その後ジュリアンは次第に、メディア受けのいいテーマからとりあえず公開しようと主張するようになった。このやり方がのちに、我々のあいだに争いを引き起こす元となった。

サイエントロジーで「カルト」を学ぶ

[ジュリアス・ベア銀行リークで名を売ると、サイエントロジー情報が寄せられ、その実情をたっぷり知る]
 最近、ウィキリークスも最後の数ケ月間は一種の宗教のようなものになってしまっていたのではないかと思うようになった。少なくとも、ウィキリークスは内部批判がもうほとんど不可能なシステムになってしまっていた。何かうまくいかないことがあれば、その原因は外的なものでなければならなかった。グルは侵すべからざる存在であり、グルに疑問を抱くことは許されなかった。外部から我々に危険が迫ってきた。そして、それが内部の結束を強めた。批判を口にする人間は、コミュニケーションを断ち切られることによって処罰され、あるいは、処分を受けるぞという戒告によって脅された。そして、どのメンバーにも、自分の目下の任務に必要なだけの情報しか与えられなくなった。
 少なくとも、これだけは言える。サイエントロジーの文書を読み、ジュリアンは「カルト」という現象を正しく理解したのだ。

ジュリアンはウィキリークス脆弱性を指摘する記者をバカ扱い

この戦略はうまくいった。難攻不落だと思わせるためには、背後関係ができるだけ複雑怪奇に見えるようにしておけばいいのだ。私は記者たちに、技術的背景をできるだけ複雑に説明しようと努めた。「さっぱり分からない」とは言えない記者たちは、やがてぐったりしてギブアップした。それはテロリズムの原則だった。あるいは官僚主義の原則とも言えるかもしれない。つまり、「噛みつける場所が分からなければ、敵は攻撃できない」というわけだった。
(略)
あとになってから考えると、「問題を問題にしないことによって片づける」というジュリアンの戦略があんなにも長期間うまくいったことに驚いてしまうほどだ。

著作権保護を批判する者が著作権を主張する

[マスコミがウィキリークスのネタを自身の特ダネとして発表することが頻繁になり]
ウィキリークスの文書にウォーターマークを付けておけば、記者のウソを簡単に暴くことができたのだが。(略)
 確かに、これは非難を招きかねない行為だった。別の領域では著作権保護を批判しているくせに、これは一種の著作権保護要求じゃないか、と。(略)
単なる著作権保護を遥かに超えた動機があった。そこには、疑問点がある場合には文書に追加情報を入れられるようにしておきたいとの意図もあったのだ。その追加情報なしでは世間に誤った印象を与えかねない文書をメディアが勝手に使うことを阻止したい、というのが我々の狙いだった。

「アーキテクト」

二人目の技術者である「アーキテクト」は2009年の初めにウィキリークスに加わった。(略)ジュリアンにとって、「サーバーにアクセスできる人間が増える」ことは耐え難い精神的苦痛なのだった。(略)
 ついにシステムを覗くことを許されたとき、アーキテクトは仰天した。(略)彼がそこに見たものはカオスだった。リソースは乏しく、攻撃してくださいと言わんばかりに不器用に組み立てられたがらくただけで、定義されたプロセスやワークフローは皆無だった。
 アーキテクトは仕事に取りかかった。その後数ケ月かけて、彼はきちんとした役割分担を確立した。二人の技術者がフォーマットを統一し、処理済みの文書を我々に転送することになった。つまり、エンジニアとアーキテクトは技術を担当し、ジュリアンと私は内容を担当する、ということだった。

創設者はオレ

 ジュリアンを激怒させる確実な方法が一つあった。ウィキリークスに関する記事に、「ダニエル・シュミット」が創設者だと書いてあるだけで充分なのだった。彼は、創設者という称号を私に横取りされるのではないかとひどく心配していた。ウィキリークスが本格的に軌道に乗り、カネも名誉も名声も手に入った頃から、彼はこう感じるようになったのだろう。(略)
実際私は、インタビューでは必ず、「自分は初期の頃からのメンバーだが、創設者ではない」ことを自分から話すようにしていた。

迫害という広告

 迫害に対するジュリアンのこの強迫観念がどこから来るのか、私にはどうしても理解できなかった。それはまるで、「国家の敵ナンバーワン」と宣言されることによって初めて自分の抵抗の重要性が確かめられるといった感じだった。(略)
 常に迫害を受けているというオーラをジュリアンが身にまとうことで、ウィキリークスのリークに対する期待はいやが上にも高まった。ウィキリークスマーケティング部は不要だった。

ジュリアンはメディアと独占契約

「資料は到着した順に公開する」「メディアに決断を左右されない」というウィキリークスの当初の要求は、もはや笑い話だった。そしてメディアは我々を、彼らが望む場所――つまり彼らの足元――に置いた。彼らは我々の両腕を縛り上げ、自分たちのストーリーを自分たちだけで利用したのだ。

本当に機密情報の処分権限が公衆に移行するのか

ヘルフリート・ミュンクラーの記事の中にはひとつ重要な指摘がある。彼によれば、機密が常に特定の権力者の手中にあることを批判する人間は、現在の公開戦略で本当に機密情報の処分権限が公衆に移行するのか、あるいはそれは単に機密の番人を交代させるだけなのかを今一度問い直さなければならない。アメリ国務省と軍が後生大事に守ってきた機密情報は今、ジュリアン・アサンジと五つの巨大メディア会社の手中にある。

オープンリークス、はじめました

 オープンリークスとともに我々は新しい道を歩み始めた。我々は責任を単純に多くの肩の上に分配することにし、各人の適した分野に責任を振り分けた。内部告発資料を受け取るセクションと公開するセクションを分割すれば、あまりに多くの決定権が中央部に集中する事態を回避できる。それだけでなく、責任者の一人が政治的な影響力をふるう誘惑にかられるのを阻止することもできるはずだ。