ムッソリーニ

ムッソリーニ(上)

ムッソリーニ(上)

17歳童貞喪失

[生前未刊『我が生涯』から]
売春宿に入ると、血がのぼって顔が赤くなるのを感じた。何と言えば、何をすればいいのかわからなかった。だが、売春婦のひとりがわたしを膝の上に乗せてキスや愛撫で興奮させ始めた。彼女は中年過ぎの女性で、身体のあらゆる部分からぜい肉がはみ出していた。わたしは彼女に自分の童貞を棒げた。支払いはたったの50チェンテージミだった。売春宿を出て、酔っぱらいのようによろよろ歩いた。犯罪を犯したような気分だった(略)
裸の女性たちがわたしの生活、夢、願望のなかに入り込んだ。出会った娘たちを自分の目で裸にして、頭のなかで荒々しく欲情を満たした。謝肉祭の時期には人々が集まるダンスに通い、踊った。音楽、ダンスのリズム、娘たちとの肉体的な接触、彼女たちの髪の香り、刺激的な汗の臭いで輝く肌などがわたしのなかに肉欲を呼び覚まし、日曜日ごとにフォルリの売春宿でそれを解消した。

スイス

19歳から21歳までの二年半をムッソリーニはスイスで過ごす。(略)それは彼の人格と政治観の発展を完成させるのに決定的な期間となった。貧しさ、怒り、妬みなどがそのプロセスで強力な役割を果たすことになる。(略)
「わたしは教師の仕事をやめ、[政治活動で逮捕された]父を監獄に残したまま(略)一リラの金もなく、スイスヘ労働者として行ったのだ」。(略)彼にはプランがなかった。だが、この当時スイスは、彼のように、よりよい生活を切望する数千人の人々をヨーロッパ全体から惹きつけていた。その多くは経済的な移民および政治難民たちで、レーニンのようにロシアから来た人々やムッソリーニのようにイタリアから来た人々だった。スイスは小規模なアメリカであり、より容易に到達できるアメリカだった。

レーニン

ムッソリーニはのちになって、レーニンと会ったことを思い出せないと言うときもあれば、会ったと言うこともあった。レーニンはのちにイタリアの社会主義者たちに対してこう語っている。「きみたちのなかでムッソリーニだけが革命を実現する心と気質を持っていた。どうしてきみたちは彼が離れていくことを許したのかね?」

暴力革命

唯一の解決策は「物理的、具体的、肉体的」暴力である。なぜなら「思想が書棚にとどまっている限り、それは完全に無害」だからだ。(略)彼は民主主義者であったことは一度もない。だが、彼の考え方としてつねに社会主義者であり、そうあり続けた。ムッソリーニレーニンの両者とも同じ結論――革命は議会と民主主義を通じては不可能である――に到達していた。議会と民主主義は革命思想のパワーを必ず霧散させてしまう。ムッソリーニにとって社会主義ファシズムがもたらすもののあいだには矛盾は存在しなかった。彼から見れば、社会主義を裏切ったのは彼ではなく社会主義者たちだった。実際のところ彼は、生涯最後の日まで自分を社会主義者であると考えていた。

インターナショナリズム

1924年ムッソリーニアメリカ人ジャーナリスト、ジョージ・セルデスにこう語った。「わたしの人生の転機は戦争だった。戦争は世界をわかりやすく見せてくれた。インターナショナリズムの完全な破産が明らかになった。われわれはそれまで、内容空疎なインチキのために戦っていたのだ。わたしはそれまでの人生をインターナショナリズムのために戦い、それを宣教し、その大義のために監獄に行った。そして突然戦争が起こり、わたしはまずインターナショナリズムが死んだことを理解した。というのも、インターナショナリズムはそれまで実際に生きていたわけではなかったのだ。そしてわたしは生まれて初めて真実の義務を持つようになった。それはわたしの祖国のことだ」。

決闘

1915年5月24日、イタリアがオーストリアに宣戦すると、ムッソリーニはこれを「革命戦争」と呼んだ。(略)
ムッソリーニの敵たちはすぐに彼が志願しないことを嘲笑する言葉を活字で山のように積み上げた。臆病者の戦争屋というのが彼らの批判だった。(略)[その一人と]またもや決闘を行った。ふたりとも負傷した。イタリアでジャーナリストたちが諍いを解決する伝統的な方法は、名誉毀損訴訟よりも(違法だが)決闘だった。どの新聞社にも記者たちがフェンシングを習う部屋があった。最初に血が流れた時点で両者が和解を試みるという暗黙のルールがあった。しかし、和解が不可能なことも多く、そうなるとどちらかが続けられなくなるまで決闘は継続した。決闘は非合法であったため、夏なら郊外の野原で、冬なら屋内のジムで、秘密裏に行われた。(略)
ムッソリーニはその生涯で少なくとも五回決闘を闘い、その最後は1922年のことだった。

32歳、後方に残そうとする司令部の提案を断り山岳地帯前線へ

1916年のほぼ全期間を前線で過ごした結果、ムッソリーニはすっかり元気がなくなってしまっていた。たくさんの死骸、ネズミ、シラミ、伝染病、汚物、寒さ、湿気、雪交じりの天気、行動の欠如、勝利の欠如などがその原因だった。戦争は未来派の人々が描き出した美しい詩ではなかった。(略)「雪、寒さ、果てしない退屈。秩序、反秩序、無秩序」という言葉だけだった。
 ムッソリーニの戦場日記への書き込みはまばらで、陰気かつきわめて感覚的に鋭いものだ。「放棄されたオーストリア人兵士の死体についてもう少し書いておこう。死んだ男は自分の上着のカラーを口にくわえているが、奇妙なことにそれがまったく無傷である。だが、その下の腐敗が進行している肉のなかに骨が見える。靴はどこかへ行ってしまった。その理由は明白だ!オーストリア兵の靴はわがイタリア兵の靴よりはるかに上等だからだ(略)
今日はクリスマス……この日付はわたしには何の意味も持たない……近代文明はわれわれを《機械化》した。戦争はヨーロッパ社会の《機械化》のプロセスを絶望的な地点まで推し進めてしまった。(略)男たちが戦う。戦争は男たちを束ねる。ここからパワフルな考え方が生まれることになった。それは「塹壕貴族」――革命の前衛となるべきエリート――という考え方だった。

「力と合意」
25%の得票で勝利できる小選挙区制を導入し天下を獲った際の論説

自由主義派の紳士諸君に教えてもらいたいが、これまでの歴史のなかでもっぱら人民の合意のみの上に成立した政治体制がひとつでもあっただろうか。……そんな政治体制はこれまでひとつもなかったし、これからもないだろう。海の波が打ち寄せる砂の模様のように、合意は変化しやすい。……人々はおそらく自由にうんざりしてしまっているのだ。人々は自由を過剰なまでに享受してきた。いまでは自由は、19世紀前半の世代がそのために戦って死んだ、厳しく汚れなき処女ではもはやない。新しい歴史の夜明けの薄明かりに直面している大胆で落ち着きがなく、荒々しい若者たちにとって、自由よりもはるかに大きな魅力を持つ言葉は別にある。秩序、序列、規律などがそれだ。
(略)
人民に付された主権という形容詞は悲劇的な茶番である。人民は代表を送り出せるかもしれないが、間違いなくいかなる主権も行使できない。……人民の主権という張りぼての王冠は、平常の時期なら受け入れられても、奪われ、革命や平和、あるいは戦争などの未知の運命へ進むことを受け入れるように命令される。……人民に気前よく与えられた主権は、必要とあればいつでも奪い取られる実例を諸君は見てきた。主権を人民のものにしておくのは、それが無害あるいはそういうものと思われるときだけ、つまり平時のときだけである……。
 国民投票で宣戦を布告する戦争など考えられるだろうか?………完全に合意の上に成立する政治体制など一度も存在したことがないし、これからもおそらく存在しないだろう。……しかし、人民が力で強制されていると思わないようなやり方で、したがわせるほうが正しい。