台湾ナショナリズム 東アジア近代のアポリア (講談社選書メチエ)
- 作者:丸川 哲史
- 発売日: 2010/05/07
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
「台湾民主国」
のコンセプトは、フランスの共和制にならったもので、フランスに留学していた台湾における洋務運動の推進者で、当時副将となっていた陳季同のアイディアであったと言われている。当時フランスはベトナムを領有していたことから、その同情を買い、干渉を呼び込もうとした動きとも推察されている。(略)
[「台湾領有戦争」は軽視されているが、日本軍死者は5000人に上り、日清戦争の過半数に相当]
[台湾領有後、フランスへの売却も検討された]
初期投資のためのコストヘの不安を押してまで台湾の植民地経営を続けていくことに、どのようなメリットがあったのか。それは結局のところ、台湾の植民地経営を立派に「成功」させることにより、西洋列強と同様の地位を主張するところに最大の眼目があったからである。だから、台湾における公的な建物や道路などのインフラ整備には、内地以上に重視された部分も見受けられる。台湾は、日本が植民地帝国主義への道程を歩む一大実験場となった、と言えよう。
霧社事件
[1930年の霧社事件]は、1910年代に主に漢人中心の武力抵抗に手を焼いていた時期からかなりの時間が経って引き起こされたものとして、台湾総督府からすれば意外な感覚があったようである。(略)
[霧社出身の原住民の若者で警察官となっていた花岡兄弟が]
日本と蜂起側の板ばさみになり、追いつめられる過程で自殺を図ったことなども(男たちの後を追うように多くの女性たちも自殺している)、日本人に大きなイマジネーションを与えた。日本人の立場は当然のこと総督府権力側にあるわけだが、原住民の抵抗の中に現代社会の中で見失われたとされる「武士道精神」を投影し評価を与えるなど、一種倒錯した「同情」も生じたりもしていた。
(略)
[メディア技術の進歩により]掃討の過程が逐一内地において即日報じられ、後に展開されることになるメディアと戦争との関わりの原型となった。そのためこの第一次霧社事件は、翌年の来るべき「満州事変」の予行演習の意味合いが後に持たれるようになる。
琉球
[カイロ会談時の蒋介石の日記。日本が中国から奪った土地は返還されるべき]
ただ琉球は国際的機関を通じて米国との共同管理となってもよい。これらは、私から提起したことであるが、それは第一に米国の内心を慮ってのことであり、第二に琉球は日清戦争の前に既に日本に所属していたからであり、また第三にこの地に関しては私たちが単独で管理するよりも米国の方が適切にやれるだろうからだ。
農地改革
1953年、国民党政権は大陸統治時代に実行を試みたものの閥=地主の反対で頓挫していた土地改革「耕者有其田」――土地を耕す者にその土地を再配分する政策を台湾で実行し、そして「成功」を収めた。重要なのは、この土地改革も、「赤化」の浸透を避けたいとする当時の米国政府と利害が完全に一致するところから、その大きな支持を得ていたことである。その意味でもこの土地改革は、白色テロからの流れの中に位置づけられる。(略)
[これにより]土地と人口の流動化が容易になり、産業育成と産業構造の転換に「成功」した。土地改革が比較的スムースに進んだ[のは大陸からの国民党政権と台湾の地主階層との癒着が少なかったことが一番の要因](略)
国民党政権はこれにより台湾自生の地主階級の力を削ぐことに「成功」し、また当時の住民の大多数であった農民を味方に引き付けることに「成功」するところとなった。このときの台湾地主層の喪失感は、主に日本や米国など海外で活躍することとなる、後の台湾独立運動家の精神的背景を形成したとも言われている。
朝鮮戦争
[米国に見限られ共産党軍による台湾解放も時間の問題だった時に勃発]
朝鮮戦争は、台湾における中華民国の事実上の主権状態が成立した起点でもあり、それがなければ、今日私たちが知る台湾はあり得ていない。台湾は大陸から派遣された解放軍によって「解放」されていた可能性が高いのである。その意味で、朝鮮戦争という出来事は、台湾においてタブー視されている。
[大陸中国奪回の起点にしようと蒋介石は米国に参戦を申し出るも拒否されている]
クウェート侵攻
イラクのクウェート侵攻は、大陸中国の「台湾解放」をシミュレートするものでもあった。人民解放軍首脳にとって、イラクのクウェート侵攻が米国の作戦によって粉砕された事跡は大きなショックとなった。実際には、79年の「台湾同胞に告げるの書」において、旧来の武力による「台湾解放」は半ば放棄されていたとも言えるが、湾岸戦争の結果によって、海峡を渡った作戦が実際にも不可能であると思い知らされたことになる。