ダーウィンが信じた道

 

博愛に燃え反奴隷を唱える裕福な女子(←現代ならネットで相当いじられそうdaze)に囲まれて育ったダーウィンは、黒人を自分達とは違う劣等種とする奴隷制支持者たちの「多起源論」を打ち破ろうと「進化論」に突き進んだ。南北戦争前後の成り行きにやきもきするダーウィン。興奮するネ。

ダーウィンが信じた道―進化論に隠されたメッセージ

ダーウィンが信じた道―進化論に隠されたメッセージ

 

奴隷解放を唱える二人の祖父

1780年代から1830年代にかけてイキリスで広まった反奴隷制という気運は、アメリカという植民地を失ったあとのイギリス人の心に、愛国的な誇りという新たな感情を生み出した。ダーウィンの人格形成期には奴隷制反対運動がかつてないほど高まっていた。こうした人道主義的環境のなかで育ったのは彼だけではない。(略)
[ダーウィンの二人の祖父は満月の夜に「ルナ協会」という科学研究会を開催。工業都市バーミンガムの製品がアフリカとジャマイカからの奴隷と交換されることを知った、祖父エラズマス・ダーウィンは圧倒的筆力で奴隷解放を謳った。]
エラズマスは啓蒙期の申し子だ。熱烈な共和制支持者の彼は、アメリカの独立とフランスの革命を応援した。機械を発明し、未来を予測し、たくさんの詩を書いた。彼にとっての進歩は、望ましくないものを排して高きに昇るための、性欲が駆動力となるゆっくりとした前進であって
(略)
[ウェッジウッド創始者]ジョサイアは「誤りようのない人間機械」という時間交替制の分業システムを築いた。彼の宗教観も機械のように合理的だった。彼の一家は、三位一体とイエスの神性を初期キリスト教からの堕落だとして否定する「合理的な非国教徒」だった。(略)神の世界はそれだけで完璧なエンジンであって、人々はその完璧なる人間イエスに従っていれば向上する。救済は、階級やしきたりや人種にかかわらずすべての人に開かれている。その教えのもと、女たちも男女平等の意識に目覚め、ウェッジウッドの次世代の妻や娘は男と同等に奴隷制反対の動機をもつことになる。 
(略)
ジョサイアとエラズマスは共同作業で奴隷貿易と闘った。鋭いペン先をもつ太った医者は、どっしり構えて義足の製陶家を支え、製陶家のほうは事業の才覚とロンドンのショールームを通じて首都の人脈を使った。

人道的な取り組み

母の死後、威圧的な父を避け、叔父ウェッジウッド二世のメア屋敷で四人の従姉妹と過ごすチャールズ。

人道的な取り組みは彼らの生活の中心だった。メア屋敷で、女たちは孤児院や募金活動、診療所、読書室、日曜学校、虐待防止団体、「禁酒のためのお茶会」[とりわけ反奴隷運動]などを支援していた。(略)
 奴隷の売買は1807年に非合法となったが、商人や船長は金儲けのためなら法を軽んじるのをいとわなかった。(略)
ウェッジウッド家の女たち――ジョスの妹のサラ、妻のエリザベス(ベッシー)と未婚の四人の娘(そのうち一人がダーウィンの未来の妻となる)――は推進役となった。もっとも、メア屋敷の博愛の嵐の中心人物は、50歳のサラだ。私有地に自分の屋敷をもち、簡素な暮らしをしていた裕福な未婚女性であるサラは、父ジョサイア・ウェッジウッド一世から相続した2万5000ポンドの収入を浪費するための対象を求めていた。信心深く人道主義に燃えていた彼女は「1000ポンド近くも」ばらまいて、ベッシーを驚かせた。(略)
[1828年設立の女性反奴隷制協会]初回会合では、ベッシーが書類を読み上げ、メンバーは「東インドの砂糖しか使わない、薦めない」と決議した。厨房を管理する女性たちは西インド諸島の砂糖の不買運動を再燃させるのに最適の集団である(略)ベッシーが「私たちは犯罪者の生産品を使わないことで、犯罪に加担せずにすむのです」と宣言した。しかし、倫理的消費行動はほとんど前進しなかった。紳士階級の大部分が無関心だったことや、トーリー党からの嫌がらせがあったためだ。

骨相学

[モートンの論文では]「アメリカ先住民」の拷問への耐性については、「脳の構造に帰する」差異により「さまざまな性格が生まれつき備わっている」ことを前提とした記述となっている。(略)骨相学者が頭を測るのに用いた道具は、そのまま形質人類学者の頭蓋測定用具になってゆく。そして、こうした測定をおこなう両学者たちは、人種ごとの気質は環境ではなく遺伝で決まるものだという見方を強めていくのである。
 人種人類学をその後の数十年にアメリカとイキリスで奇妙な方向に向かわせたのは、骨相学だった。頭蓋骨の形と人種の気質の関係は、モートンに決定的な影響をあたえ、この男は死後、「アメリカ派人類学の父」という名をもらうことになる。そしてこれこそが、奴隷制を正当化する科学、ダーウィンが対決しようとした相手なのだ。 

ホイッグ党政権誕生

 トーリー党政権は1830年11月に倒壊した。この時代初のホイッグ党内閣が、ついに議会改革と奴隷制廃止に乗り出した。ダーウィンケンブリッジで試験問題を読んでいるころ、新しい反奴隷制法案の請求が「満場一致で採択」され(略)
だが、まっ先に黒人問題が取り上げられると信じていたメア屋敷では、トマス・ファウエル・バクストンが「すべてのニグロの解放を議会に提案しただけ」だったと知り、怒りの嵐が吹き荒れた。「なんてこと! 私たちはこんな些細なことで不運な人たちを一生、鞭を打たれる立場に引き渡してしまうの?」。

ビーグル号、ブラジルへ

ダーウィンはサルヴァドルの蒸し暑い通りを歩きながら、そこで生活する奴隷たちの現状に向き合った。あらゆる労働が「黒人によっておこなわれ」、その黒人たちは「重荷」のせいでふらつきながら、歌で「リズムをとりつつ、気力を奮い立たせている」。「ニグロの礼儀正しさ」には驚かされた。黒人のウェイトレスの接客態度の丁重なこと。黒人の子どもたちにピストルやコンパスを見せたときの、うれしそうな顔。ダーウィンは出かけるときは念のため武装してはいたものの、その必要はなかった。奴隷たちのほとんどは、彼が思っていたより幸せそうに見えた。
(略)
闇取り引きは日常茶飯で、黒人は家畜同然に倉庫に押し込められる。(略)拷問具、猿ぐつわ、手指足指、突起つきの首輪がいたるところにある。ダーウィンの当初の印象は、あっというまに変わっていった。(略)
[主人に自由になりたいかと聞かれた奴隷が「いいえ」と答えた話を披露したフィッツロイ艦長に]
奴隷制の立場を唱える者ならだれでも、幾度となく反論として聞かされる詭弁だ。(略)「主人の目の前で奴隷が言うことに……本心が出ているわけがないではありませんか!」と口にしてしまった。(略)フイッツロイは激怒し、「君は奴隷の言葉より私の言葉を疑うのか」と咎めた。(略)
このときから、ダーウィン奴隷制に反対する気持ちを積極的に認めることになる。
 ダーウィンは下級将校室で食事をとることになった。そのとき励ましてくれたのは、「気取らず男らしい信仰心」と奴隷船への嫌悪を隠さない、話し好きの少尉バーソロミュー・サリヴァンだった。

奴隷解放

ジョスはグレイ卿のホイッグ党内閣の「忠実な支援者」であり続けた。家族はグレイ内閣を、「あらゆる非人道的行為を許さない完璧な内閣」だと考えていた。(略)
[1833年]議会はついにイギリス植民地の奴隷80万人の解放を決めた。その日、ダーウィンはアルゼンチンの大平原、パンパスを馬で走る旅に出ていた。数ヵ月後、チリ沖合いで、彼はその知らせを受け取った。「あなたも私たちと同じくらいよろこんでくれることでしょう」と、姉スーザンが書いてよこしたのだった。

ダーウィン大地に立つ

五年におよぶ周航で見たもの聞いたもののうち、ダーウィンの脳裏に生涯、取りついて離れなくなるできごとが一つあった。八月中旬の雨季が終わろうとするころ、ビーグル号が南米大陸で最後に寄港したペルナンブコでのことだった。町は「不潔」で「むかむか」した。悪臭のなかに家々が「陰気に突っ立っている」。この地では、少数派のヨーロッパ人が「黒または浅黒い色の肌」の海に「異物」のように浮かんでいた。数か月前に300人のアフリカ人が町の南に陸揚げされ、大農園まで連行されたという。そしていまも、海上では鎖でつながれた男と女の荷がこちらに向かっている。農園主たちは「残忍な密輸」を守るために団結し、イギリス領事側はいっそう海上巡視を強化していた。(略)
ダーウィンは一軒の家から叫び声があがるのを聞いた。虐待がまさにおこなわれている現場だった。(略)
ダーウィンは熱帯で、本物の痛みを、鎖でつながれた足を、サトウキビ畑で鞭打たれた傷跡の残る背中を、じかに感じて理解した。この航海を通して、彼は奴隷制という向かい風を受けるよう針路を固定した。邪悪な強風に逆らって帆を揚げることにした。こうして彼は、日に焼け、潮風にもまれ、大人になって、祖国に戻るのである。

明日につづく。
[関連記事]
kingfish.hatenablog.com