ダーウィンの生涯

チャールズ・ダーウィンの生涯 進化論を生んだジェントルマンの社会 (朝日選書)

チャールズ・ダーウィンの生涯 進化論を生んだジェントルマンの社会 (朝日選書)

ペイリーの『自然神学』

ダーウィンの時代に主流となったのは、自然界の巧妙な仕組みや構造に神の偉大なデザインを見ようとするデザイン論であり、その標準的な教科書となったのがペイリーの『自然神学』であった。
(略)
ダーウィンが同書から受けた影響の深さは、おそらく本人が自覚している以上であろう。『種の起源』で挙げている適応の事例の多くは、ペイリーの取りあげたものであった。(略)
ペイリーが神のデザインという言葉で済ませてしまった問題を、ダーウィンは自然選択という自然法則によって説明しようとした。ペイリーの『自然神学』を自然選択説によって書き直したものが、ダーウィンの進化論であったといっても言い過ぎではない。

ビーグル号での立場

フィッツ=ロイ艦長と社会的に対等の立場にあったのは、ダーウィンただ一人であった。
 当時、イギリス海軍の艦長は他の乗員と個人的に接触してはならないことになっていた。食事をするのも一人。乗員と話すのは用事のあるときだけであった。艦長はきわめて孤独だったのである。南アメリカ南端のような荒涼とした海域で困難な航海を何年にもわたって続けているときには、その孤独は耐えがたいものだったろう。事実、ビーグル号の最初の艦長ストークスは、精神に異常をきたしてマゼラン海峡で自殺している。(略)
[伯父が自殺していることもあって不安だった]フィッツ=ロイは海軍に所属しない話し相手を連れていく必要があったのである。それも貴族の出のフィッツ=ロイの相手をするのだから、ジェントルマンでなければならなかった。自然史というのは、同乗者を誘う手段であり、海軍本部を納得させる口実であった。

ガラパゴス諸島

ダーウィンガラパゴス諸島で、直接、進化論に結びつくような観察はしていないし、まして、ここで生物進化の可能性を考えたということもない。後にガラパゴス諸島がその生物相により進化論の島として有名になったため、ダーウィンはここで進化論を着想したという間違った解釈が広がってしまったのである。

その後のフィッツ=ロイ

[ビーグル号航海での海図作成等で受賞。ニュージーランド総督になるも理想主義的施策で解任。1863年に海軍中将]
[1854年商務省が気象統計官職を新設]
任務は気象データを収集して統計を作ることだったが、フィッツ=ロイはそれに満足できず、船の遭難を防ぐために天気予報を試みるようになった。簡便な気圧計を考案して漁村に配り、実用化されたばかりの電信を使ってデータを集め、天気図を作成した。1861年からは新聞各紙が日々の天気予報を掲載するようになった。
 当然のことながら、しばしばこの予報ははずれ、笑われることも多かった。さらに学者からは、科学的根拠のない予報として非難され、フィッツ=ロイは精神的に追い込まれていった。1865年(略)のどを切って命を絶った。(略)
 一般にフィッツ=ロイの名は、ダーウィンが乗船したビーグル号の艦長としてのみ知られているが、むしろ天気予報の先駆者として評価されるべきであろう。

その後のビーグル号

[1837年第三回航海準備中のビーグル号を見に行ったダーウィンは]
「この小さな船を見て、私が乗船しないと考えるのは、はなはだ奇妙な気分です。船酔いさえなければ、私はためらいもなく、再び出発するでしょう」と述べている。
 1845年、ビーグル号は海軍から離れ、沿岸警備隊の監視船として使われることになった(略)
 1870年、ビーグル号は競売に付されて525ポンドで競り落とされ、スクラップにされた。船体の一部を記念に残すといった配慮は、まったくなかった。
(略)
ビーグル号が日本に売られ、海軍の練習船「乾行」になったという奇妙な話が、明治以来、日本の内外で広まり、現在でも一部で信じられている。日本に売られて「乾行」となったのはイギリス海軍で四代目のビーグル号だったが、それが三代目のダーウィンのビーグル号と混同されてしまったのである。
 四代目の軍艦ビーグル号は(略)1854年クリミア戦争で活躍し、海戦史に名を残している。

地質学者ダーウィン

ビーグル号航海中の研究によってダーウィンは地質学者として認められ、帰国後のダーウィンは、まず、地質学者として活躍することになった。

ダーウィン・フィンチ

ダーウィンガラパゴス諸島でフィンチには注目せず、その標本には採集地が記載されていなかった。(略)フィンチが進化論を生んだのではない。(略)
 ダーウィンは『ビーグル号航海記』第二版でガラパゴス諸島のフィンチについて、図版を入れて解説している。そのため、しばしば、ダーウィンガラパゴス諸島のフィンチを種分化の好例としたとされる。しかし、『種の起源』ではフィンチについて一言も言及していない。(略)
1947年に鳥類学者のラックの『ダーウィン・フィンチ』が刊行され、ガラパゴス諸島のフィンチが種分化の好例として有名になった。そのために、ダーウィンにとってもフィンチが重要であったという誤解を広めてしまったのである。

祖父の進化論

当時、進化論は危険思想であった。ライエルの『地質学原理』の本来の目的は、ラマルクの進化論を否定することであった。ヘンズローをはじめ、ダーウィンの周辺にいる科学者たちはみな、進化論を否定していた。後に独自の進化論を展開するオーエンも、この時点では進化論を否定していた。ダーウィンは進化論に転じたことを公にできなかった。ダーウィンは秘密裏に進化論の研究を進めていった。
(略)
 祖父エラズマスの思弁的な万物進化論は、チャールズがめざす実証的な進化理論とは異質なものであった。[祖父の著]『ゾーノミア』第一部の生理学的な議論がチャールズに示唆するところがあったにしても、それがチャールズの進化論に大きな役割を果たしたということはない。
 しかし秘密裏にただ一人、進化論に取り組んでいるチャールズ・ダーウィンにとって、尊敬すべき祖父エラズマスが進化論を唱えていたということは、精神的に大きな支えになったと思われる。

枝分かれ的進化

 ダーウィン以前にも生物進化論を唱えた者はいるが、それは共通の祖先からの枝分かれ的進化ではなく、別々の祖先からの直線的進化であった。たとえばラマルクによれば、地球上では新しい原始生物がつねに無生物から自然発生しており、原始生物は生物自身に内在する力によってしだいに高等なものに変化していく。古く誕生したものほど高等な生物になる。現存する各種の生物は、それぞれ別個の原始生物から変化してきた。ただし、環境によって進化の道筋に違いが出てくるので、生物を分類すると直線ではなく、枝分かれ的に表現されることになる、という。ラマルクの系統樹は枝分かれ的進化を示しているのではない。
 ダーウィン以前の進化論は化石生物の変遷との関連で考えられていたが、ダーウィンの発想の原点は生物の地理的分布であった。そのために最初から枝分かれ的進化を考えることができたのだろう。
 枝分かれ的進化は、ダーウィンによって初めて確立した考え方なのである。現在ではこの考えがあまりにも当たり前のものになっているため、かえってこの面でのダーウィンの功績が忘れられがちである。

明日に続く。