坂本龍一、中二病、男気、確執

音楽は自由にする

音楽は自由にする

  • 作者:坂本龍一
  • 発売日: 2009/02/26
  • メディア: 単行本

ドビュッシー

[中二で弦楽四重奏を聴いて衝撃]
 あまりに夢中になってドビュッシーに共感して、自我が溶け合ってくるというか、もうずっと昔に死んでしまっているドビュッシーのことが自分のことのように思えてきた。自分はドビュッシーの生まれ変わりのような気がしたんです。おれはなんでこんなところに住んでいるのか、どうして日本語をしゃべっているのか、なんて思うぐらい。ドビュッシーの筆跡をまねて、帳面何ページにもわたってサインの練習をしたりもした。
(略)
[ちょっと中二病。のちに、戦メリ・カンヌ祭後、現地に残り『気狂いピエロ』気分を満喫、「ドビュッシーもこんな風景を見ていたのか」と思ったりする]

1889年のパリ万博で、ドビュッシーインドネシアガムラン音楽にはじめて触れ、大きな影響を受けたんです。(略)
そして、ベートーヴェン以後の作曲家が書いてきたような、堅牢な建築のような音楽ではなく、海や雲などを題材にとった浮遊的な音楽を書き始めました。(略)
それがまわりまわって、時間と空間を超えて、アジアの、中学生だったぼくの心を捉えた、ということになりますね。そして、高校生のぼくを興奮させたミニマル・ミュージックも、アジアやアフリカの音楽とつながっている。根っこはつながっていますね。

ロックとケージ

[70年代前半「人民の音楽」としてのロックの話から]
ロック・コンサートの音というのは、曲として聴くと、現代音楽の耳にはかなり単純なものですが、音響として聴くととても面白かったんです。アンプというテクノロジーを使って、小さな音がすごく大きな音に拡大されている。聴衆は、いわば顕微鏡的な空間に入っていくわけです。これはとてもジョン・ケージ的な音響空間です。(略)ノイズを持ち込んだというのも重要な点です。これも、ロックのジョン・ケージ的な側面です。(略)[この二点は]後にエレクトロニカに受け継がれ、今に至っている。

新宿西口フォークが嫌いで「そんなチャラチャラした音楽で革命ができるか」と絡んだりしていたが、ゴールデン街で偶然隣になった友部正人のバックで半年日本中のライブハウスを回って「俺たち」シリーズ気分。フォーク人脈が広がる。相変わらずフォークの歌詞に興味は持てなかったが、その音楽からは「アメリカ音楽の水源のようなもの」を聴き取る。
今ではロハス坂本

70年代に入り、新左翼運動がつぶれてしばらくして、みんな新しい出口を探していたんだと思います。ヤマギシ会のようなものができたり、日本の環境運動が生まれたのもあのころかもしれない。そういうニューエイジ的な動きの中心になっていたのが、中央線沿線でしたよね。
 ぼくもそういう動きに関心はあったけれど、政治に負けたからといって、じゃあ有機農法だとか部族だとか、そっちに行っちゃうのは負け犬だと思ったりもして、あまり近寄りませんでした。

山下達郎

[坂本が何年もかけ勉強した高度なハーモニーを、山下は]
独学で、耳と記憶で習得したわけです。山下くんの場合はアメリカン・ポップスから、音楽理論的なものの大半を吸収していたんだと思います。そして、そうやって身についたものが、理論的にも非常に正確なんですよ。彼がもし違う道を選んで、仮に現代音楽をやったりしていたら、かなり面白い作曲家になっていたんじゃないかと思います。
 もちろん、複雑なハーモニーのことを突っ込んで話せる相手なんてお互いそういませんでしたから、2人はすぐに意気投合しました。
[他に、このような驚きを感じたのは、細野と矢野]

[セッションをした阿部薫、よく話した間章。高一ではじめてつきあった年上のガールフレンドは自殺]
 そういう死を、どう考えたらいいのかは、わかりません。ただ、そういう親しい人が死ぬと、いかに人間と人間は遠いか、いかに自分はその人のことを知らなかったかということを思い知らされます。生きている時は、お互い適当にしゃべったりすることもできるから、なんだか相手のことを分かったような気になっている。でも、その人が死んだとき、まったくそうでないことがわかる。いつもそうですね。僕の場合は。

千のナイフ

[アレンジャーの音楽ロボットになってのスタジオ仕事、創造性のない毎日]
 YMOのファースト・アルバムが出る前月、78年10月に、ぼくは初めてのソロ・アルバムを発表しました。音楽の日雇い仕事で夜中まで働いて、そのあと明け方まで、自分の機材を持ち込んだコロムビア・レコードの小部屋でちょこちょことレコーディングをする、というネズミのような暮らしを何カ月も続けて世に出した作品でした。そういう過酷な環境での創作活動を支えたのは何だったのかと振り返ってみると、それはやはり「ニヒルな日雇い労働」の消耗からの回復を希求していたということだと思います。
 デビュー前の2年ほどの間は、昼の12時から夜の12時ぐらいまで、あちこちのスタジオを駆け回って演奏してお金をもらう、という毎日でした。疲れてしまって、やさぐれていた。

サカモト、大地に立つ

[YMOツアー・ロンドン公演。「ジ・エンド・オブ・エイジア」をやったらカッコいいNWカップルがすぐ前で踊りだした]
 それを見ていたら、ああ、俺たち、なんてカッコいいんだろう、と思えてきた。「俺たち」っていうか「俺」でしょうか、自分の曲ですから。こんなカッコいいカップルを踊らせているんだから、俺たちって、俺ってすごいぜ、みたいな、そんな恍惚感を演奏しながら覚えた。電気が走るような感じ。そして「そうだ、これでいいんだ」と思った。
 ぼくはそれまでずっと、自分はこういう方向性で生きていくんだ、と思い定めるようなことはなるべく避けていました。できるだけ可能性を残しておく方がいいと思ってもいた。でもそのときロンドンで、「この形でいいんだ」と思った。自分の進むべき方向を、そうやって自分で確かに選び取ったのは、実はそれが初めてのことだったかもしれません。

復讐の「CUE」

[突如のYMO人気に戸惑い引篭もる坂本]
「俺はこんなつもりじゃなかった、YMOが俺をこんなふうにした」
(略)
[たまったストレスをぶつけるようにアンチYMOで『B-2ユニット』を制作。その中の「ライオット・イン・ラゴス」を二度目のYMOワールド・ツアーであてつけのように何度も演奏]
 2人に仕返しされたのが、[坂本抜きでつくられた]「キュー」という曲。(略)YMOの曲だからぼくも参加しないわけにもいかなくて、ライブではドラムをやることになった。音には参加せず、リズムを叩くだけ。
 「CUE」ですから、何かの合図、というような意味が含まれている。合図、きっかけ、手がかり、そういう意味のタイトル。すごく意味深ですよね。ぼくは黙ってビートに徹しながら、これは完全に、2人の復讐なんだな、と思いました。
 実は、2007年の春のライブで、久しぶりに、3人でこの曲をやったんです。「『キュー』をやろう」と、幸宏が言い出した。ちょっと恐る恐るという感じで。この曲についてはいろんな思いもあったから、ぼくが嫌がるんじゃないかと思ったのかもしれない。でも「うん、やろうやろう」ということになった。近ごろはみんな、涙腺も弱くなってきて、本番ではちょっとじーんときちゃったりして。

矢野顕子

[矢野さんとのこと、ツアー中の「歩く生殖器」的流れなのかと思ってたけど、違うのね]

矢野誠さんという、すごく才能のあるミュージシャンと結婚していたんです。矢野誠さんのことは、ぼくもとても尊敬していました。とにかくすごくユニークな、かなり変わった人でした。ひとから変わっているといわれるぼくが言うぐらいですから、その程度はわかっていただけるのではないでしょうか。
 ぼくはどうも、そういう人と暮らしている矢野顕子さんを、自分の力でなんとかしたい、と思ったのでしょうか。救う、というようなことではなかったとしても、矢野顕子という天才が、ぼくなんか手が届かないような特別な才能が、このままではだめになってしまうのではないか、それをぼくがなんとかできるのではないか、と考えたというのか。本当におこがましいんですが、そういう男気みたいなものがあったと思います。これはとにかく、男としても、人間としても、音楽家としても、守らなきゃいけない、本気でそんなふうに思っていました。

エスペラント

[フェンレイのバレエ公演のためにつくった。ガタリから「バレエはつまらないけど音楽は素晴らしい」と賞賛された]
 どうして[実験色の強い]『エスペラント』の方向性で音楽を続けていかなかったんだろうと、今になって悔しく思ったりすることもあります。あのまま続けていれば、すごいことができたかもしれない、なんて。でもまあ、それが人生ですよね。

甘粕

[役者で来てたのに、突如戴冠式の音楽をつくってと言われ、機材もなければ、時間は三日ほど]
 ベルトルッチ監督は「エンニオはどんな音楽でもその場ですぐに書いたぜ」とニヤッと笑う。ぼくとしては、そこで引き下がるわけにはいきませんでした。
(略)
[旧満映スタジオで録音]
スタジオに着くと、かたことの日本語のできるコーディネーターのおじいちゃんがいて、「あんたが甘粕シェンシェイね」と言う。なんと、甘粕本人を知っている人でした。訊ねてみると、18歳のころから、満州映画協会のオーケストラでフルートを吹いていたとのこと。「甘粕シェンシェイには可愛がってもらった」「甘粕シェンシェイはえらい人、大人ね」と言っていました。そうやって現地の人に慕われて、魅力的な面もあったんでしょうね。
 場所は満州映画協会、演奏は地元の楽団ですから、つまりほとんど当時のままの音がするんです。違っているのは、そこに立っていた甘粕の銅像毛沢東のものに変わっていたことぐらい。あとはもう昔のままです。そこここに甘粕の亡霊が見えるようで、怖かったですね。
(略)
[撮影終了半年後にサントラの依頼、突貫工事二週間でつくりあげるも、試写で映画を観たら]
ぼくの音楽はすっかりズタズタにされ、入院するほどまでして作った44曲のうち、使われているのは半分くらいしかなかった。
(略)
それぞれの曲が使われる場所もかなり変えられていたし、そもそも映画自体がずいぶん違うものになっていた。もう、怒りやら失望やら驚きやらで、心臓が止まるんじゃないかと思ったほどです。
 それ以来、試写会というものにはあまり行かないようにしているんです。

険悪なYMO「再生」

周囲の人たちのお膳立てで再結成したんです。騙されたというと言い過ぎですが、まあ、のせられちゃったんですね。
 あのころはやっぱり、今と比べるとまだまだ若くて、散開前の確執がぜんぜん癒えていなかった。むしろ、ぼくはよりエゴが強くなっていたと思います。
 レコーディングやミックスはニューヨークでやりました。ニューヨークなんだから俺が仕切る、みたいな感じで、ぼくがずいぶん強引に自分の好みを押し付けたように思います。ぼくは「今ニューヨークではそうじゃないんだよ」というような調子でした。当時はハウスが流行していて、ハウス独特のテンポや音色でないとダサい、みたいな思い込みがちょっとあったんです。(略)
 当然、2人とも不機嫌そうにしてましたし、ぼくも不機嫌でした。東京ドームでのライブでも、3人はけっこう険悪な雰囲気で、ほとんど目も合わせませんでした。あまり楽しくはなかった。いまのHASYMOとはぜんぜん違いました。

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