グールドの野望、ドビュッシーは印象派じゃない

前回のつづき。

「十九世紀系」vs「ザッハリヒ系」

[安川加壽子がラザール・レヴィ]に習っているときはまだ若かったので、指導を無抵抗に吸収し、クラシック後進国だった日本に持ち帰った。
 安川自身はすぐれたピアニストだったが、指導はとても厳格で、少しでも楽譜と違うことを弾くとそのつど指摘された。テンポのゆれも許さず、生徒が弾いている間中、手や足で拍子をとっているから、しばられたような感じがして生きた心地もしない。(略)
 成人してからパリに留学し、レヴィの指導を受けた井上二葉は、レヴィ自身も生徒が弾く間中、拍子を叩いていたが、決して無味乾燥な音楽づくりを求めたわけではなかったと回想している。
 あるときレヴィは井上の楽譜にうねうねした線を描き、「くずさないで、というとお前の線はまっすぐになってしまう。しかし、音楽はうねっていなくてはならない」と言ったという。
(略)
レヴィは1953年にも来日し、公開講座を開いているが、初来日のときは「楽譜に忠実に」ばかりくり返していたレヴィが、二回めのときは「一字一句正確にではなく、音符の行間を読み取らなければならない」とつけ加えるようになり、安川をとまどわせたらしい。
 「十九世紀ロマンティシズム」対「新即物主義」の闘争は、戦前・戦後をはさんだ時期から二十一世紀のこんにちに至るまで尾をひいている。
 ひとつには、ピアノ教育が門下制のため、「十九世紀系」の先生に習えば自由奔放になるし、「ザッハリヒ系」の先生に習えば謹厳実直になる。
(略)
 2010年のショパン・コンクールでは、「十九世紀系」と「ザッハリヒ系」がはっきり明暗を分けた。技術的なレヴェルが驚異的に向上してしまったこんにちでは、他人よりミスなく正確に弾く……ことでは差別化がはかれない。海外のコンテスタントたち(とくに旧東欧系)は、テキストから逸脱しない範囲でどのように創意工夫して解釈するかに腐心し、予選会はアイディア合戦の様相を呈していた。日本勢が第二次予選で全員敗退したのは、解釈に対する受け身な姿勢と無関係ではないような気がしてならなかった。
(略)
グールドなどは、客観的に情勢を分析し、本当は後期ロマン派が大好きという自分の嗜好を封印してまで、「行間に音楽を入れない」スタイルを打ち出した人である。(略)
[14歳のプライヴェート録音収録]曲は、クープランのクラブサン曲「パッサカリア」やショパン即興曲第一・二番』。いずれも、デビューしてからのグールドが一度も弾いていない珍しい作品だ。
 「パッサカリア」を弾く前、まだ声がわりしていないグールド少年が、こんなことをしゃべる。
 「先生たちはバロックを弾くときはペダルを踏んではいけないよと言うけれど、自分はせっかく発達した楽器であるピアノの機能をじゅうぶんに発揮しないのはもったいないと思う。よって、ペダルをたくさん踏んで弾いてみせましょう」
 ところで、後年のグールドはこれとはまったく反対に、ピアノをわざわざチェンバロのように改造し、ペダルはまったく踏まずにバッハを弾いたのではなかったろうか。
 グールドがトロント音楽院に在籍していたころ、音楽界はすでに「新即物主義」のトスカニーニ全盛時代だったらしい。しかし、メンゲルベルク指揮するワーグナー『トリスタンとイゾルテ』を聴いて滂沱の涙を流した14歳の少年は、アンチ・トスカニーニ派で、フルトヴェングラーの大ファンだった。作曲家も、実はマーラーなど後期ロマン派が好きだったが、仲間たちの手前それを言い出せない雰囲気だったという。
 カナダのラジオ放送局に残されているグールドのメジャー・デビュー前の録音を聴くと、彼が二年間をかけて、ともするとロマンティックになりやすい自分のスタイルを刈り込み、時代に合わせて「即物的」に仕上げていった過程がよくわかる。

 モーツァルトベートーヴェンショパンやリストの時代には、作曲家が自分で書いた曲を弾くのが当たり前だった。その後、あまりに演奏技術が発達しすぎてドビュッシーラヴェルのように「自分で書いた曲が弾けない」作曲家が増え、演奏家という職業が成立するようになった。(略)
[リストの]時代には、他人が書いた曲をいかに見事に弾くか、ではなく、いかに見事にアレンジするか……がメシの種になった。
(略)
 演奏家が専業になると、それを育てる教育シムテムも発達する。何しろ他人のつくった曲を弾くわけだから、音符という名の記号を解読すべく、ある程度の客観的な学習が必要になる。先にも述べたとおり、必ずしも弾き手に合った奏法で書かれているわけではないから、技術的なトレーニングも必要になる。リストをはじめ、ヨーロッパ各地の名伯楽のもとにピアニスト志望者が殺到し、切磋琢磨した結果、演奏技術は飛躍的に向上し、また平均化した。

グレン・グールドの野望

 国際コンクールで優勝し、カーネギーホールでデビューするというオフィシャル(?)な出世の図式をわざとはずしたのも、グールドの作戦のひとつだったろう。なぜなら、コンクールを受けるとショパンエチュードを弾かなければならないから。
 ショパンエチュードは、ファッション・モデルなら身長制限、オリンピックなら標準記録のようなもの、国際コンクール出場の必須条件なのだ。ライプツィヒでおこなわれるバッハ・コンクールですら、予選の課題に出るという。
 「バッハを素晴らしく演奏する者でも、ショパンエチュードを弾かせたらせいぜい中程度、ということもありえる」と、ロシアの名伯楽ゴルノスターエヴァは語る。
 「偉大なバッハの解釈者グレン・グールドショパンエチュードを弾きはしなかった。もしグールドが今このコンクールに出場したとしたら、二次予選すら通過できたものかどうか……」
 もちろん、グールドは二次予選で落ちたりしたくないのでコンクールを受けなかった。若いころのグールドはショパンエチュードをまったく弾かなかったわけではないが、公開演奏の曲目は、「別れの曲」こと『作品10-3』や『作品25-7』など、ゆっくりした練習曲に限られていた。超絶技巧を計るものさしのような『作品10-2』のプライヴェート録音もあるが、これは友人二人と共謀して「三本の手」で弾いたものらしい。ほかならぬ友人の証言が残っている。
 十四歳のころに弾いたショパン即興曲第一番』『同第二番』のプライヴェート録音を聴くかぎり、グールドがショパンの練習曲を、バッハ『ゴルトベルク変奏曲』と同じようなレヴェルでこなすのは困難だったろうと思われる。左利きのグールドはショパン特有の右手の複雑なフィギュレーションに――完全には――対応しきれなかったようだし、両肩を極端にすぼめて弾く奏法のために、左右の大胆な跳躍にも弱かった。
 技術的な問題以外にも、楽譜どおり弾かない彼の解釈では、複数の審査員の支持を得ることはむずかしかっただろう。そのためにコンクールを回避したグールドは、結果として、コンクール優勝者たちよりもはるかに有名になってしまったのだから、皮肉なものである。
(略)
[グールドの奇妙な解釈はウケ狙いではない]
 非人間的な猛スピードでおしまくったベートーヴェンソナタ作品111』の第一楽章。逆に、ハエが止まりそうなテンポで弾いた『熱情』ソナタ。極端にゆっくり始まってだんだん速くなっていくモーツァルトトルコ行進曲つきソナタ』。男性的な第一主題と女性的な第二主題を同じ速さで弾くことを主張してバーンスタインの度肝を抜いたブラームス『ピアノ協奏曲第一番』。
 専門家を激怒させたグールドのアプローチは、本書でずっと追求しているテーマ、つまり、「音楽というのはどこまで行ったらその音楽に聞こえなくなるのか」ということを確かめるための実験だったように思う。
(略)
[アンドルー・カズディンは]『トルコ行進曲つきソナタ』の第一楽章について次のように回想している。
「(略)この当時のグールドは逆に、ある曲をどれだけゆっくり演奏できるか確かめてみるという別の課題を、しばしば故意に自分自身に課すようなところがあったのである」
(略)
[早く弾くほうが難しいと普通は思うが]
遅く弾くときは、はるかに長時間、音楽的緊張や感興を保つという、別の意昧のむずかしさが出てくる。
 グールドは実験のインパクトを増すために、あえてクラシックの名曲中の名曲を材料に選んだ。たとえば、ベートーヴェン『熱情』ソナタ。ライナーノーツでグールドは次のように書いている。
 「『熱情』は主題の保持力を追求した作品である。この時期のかれには、非才の手にかかったら十六小節の導入部さえできるかどうか危ないような素材から、巨大な構築物を創造するという自負心があった」(略)
『熱情』の第一楽章は、ドラ♭ファというわずか三つの音でできている。(略)
[普通は]まず第一主題を哲学的に弾き、「運命の動機」の連続ではスピードを上げて技術があるところを見せ、第二主題はテンポを落としてゆったり歌う。何しろ第二主題だから抒情的に弾かなければならない。
 これに対しグールドは、第一主題をいかめしく開始し、連打音もそのままのテンポを保ってポツポツと弾き、同じ素材を使っている第二主題もきわめて謹厳実直に弾く。まるで、作曲者に倣って「主題の保持力」をテストしているみたいだ。
 グールドの演奏が「とてつもなく遅い」と感じたカズディンが、手元にあったルドルフ・ゼルキンのレコードの第一楽章をテープに録り、グールドの録音を二倍速に録音しなおしたら、両者はぴったり一致したという。
 このようなにべもないアプローチで、なおかつ巨大な構築物を相応のレヴェルで支えつづけるのは並大抵ではなく、逆にグールドの圧倒的な才能を証明づけることにもなる。極限にまでひきのばされた言葉や動作の中で緊張感を維持する能役者たちの努力と精進を思い浮かべるとわかりやすいかもしれない。
(略)
[作曲家のもとに降り立った霊感そのものを音にするという野望を抱いたのは]
 十三、四歳のころ、モーツァルト『フーガK394』を練習していたとき、家政婦がかける掃除機の音で耳がいっぱいになった。モーツァルトの音楽がヴィブラートの光背に包まれるのを感じた。バスタブで耳に水を入れたまま、頭を左右に振って歌を歌うときのような。もちろん、指先が鍵盤と触れ合っている感覚はあったが、自分が弾いている小さな音は少しも聞こえなくなった。
 「ふしぎなことに、あらゆるものがふいに、掃除機が鳴りだす前よりよい響きになっていたのでした。そして、なかでも現実には聞こえてこない部分こそがいちばんよく響いていました」
 掃除機の音で耳がふさがれていたとき、グールドが聴いたのはモーツァルトがバッハをお手本に教科書的に書いたフーガではなく、モーツァルトが書きとめることのできなかったフーガ、モーツァルトのもとに降り立った霊感だった。
 こうしてグールドは、「想像力という内なる耳で聴く」ことを学ぶ。内なる耳で聴く音楽は、楽譜ではなく、楽器でもなく、実際に鳴っている音ですらないことを。
(略)
[著者も]ドビュッシーがピアノ・ロールに録音した前奏曲や小品を聴いたとき、とても不思議な心持ちがした。音符ではなく、音でもなく、楽譜の向こうから流れ出したものがふわふわこちらに漂ってきて、頭でも耳でも心でもなく、内部組織に直接浸み入ってくるような感覚をおぼえたのである。
 ドビュッシー自身が、自分の書いた楽譜をそのまま弾いていない。あるときはリズムが違い、あるときは音高が違う。しかし、そうした違いは浸み入ってくるものには何ひとつ影響を与えなかった。逆に、書かれた音符やリズムを完璧に守って弾いていても、何ひとつ流れてこない演奏は、それはやはりドビュッシーではないのだと思う。

ドビュッシー印象派じゃない

 フランス留学から帰国したころは、よくこんなことを言われたものだ。
 「あなたのドビュッシーには、どうもルノワールが足りませんねえ」
 冗談じゃないと思った。ドビュッシー印象主義音楽の創始者だと言われる。言われるだけではなく、学校の音楽の教科書にそう書いてあるので、全国津々浦々にレッテルが広まった。
 まず、印象派の代表的画家と言われるルノワール自身が、自分は印象派を捨てて、初めて自分自身になることができたと語っている。ドビュッシーは、ピアノ組曲『映像第二集』を作曲中に、「私は、あのバカ者どもがよぶところの『印象主義』とは全く『別のもの』をつくろうとしています」と書いた。
 ドビュッシーのまわりにいたのは、印象派の画家ではなく象徴派の詩人・文学者たちである。若いころ通った文学キャバレ「黒猫」の頽廃詩人、シャルル・クロ、モーリス・ロリナ。象徴派のたまり場「独立芸術書房」で出会ったヴィリエ・ド・リラダンユイスマンスマラルメの火曜会の常連たち、アンリ・ド・レニエピエール・ルイスポール・ヴァレリーアンドレ・ジッド。
(略)
十九世紀末デカダンス、つまり反自然。印象派とは真逆だ。
 ドビュッシーが好きだった画家はモネではなく、ギュスタヴ・モロー、イギリスのターナーラファエロ前派のロセッティ、バーン・ジョーンズ。指し示す方向は耽美派
 そして、「オンディーヌ」や「パックの踊り」「妖精はよい踊り手」など多くのピアノ曲のヒントになったアーサー・ラッカムの絵本。ラッカムは単なる童話のイラストレーターではない。オーブリー・ビアズリーの仲間うちにいた怪奇・幻想の版画家だ。
(略)
 私がドビュッシーで博士論文を書き、その後も関連の本を書いているのは、ドビュッシーについて深く知り、よりよく演奏するためではない。もちろん、派生していくらかそうなったとは思うが、本来は、よく知っているものがよく知っている形で理解されていないため、自分の解釈がポジティヴに受け止められなかったので、そのことをマニフェストしなければ演奏活動がやりにくくなると感じたからである。