どこまでがドビュッシー? 青柳いづみこ

グレン・グールド 27歳の記憶 [DVD]

グレン・グールド 27歳の記憶 [DVD]

[同業者は口を揃え]彼は、「自分の知るそんな作品の、どんなに難しい、やっかいなパッセージでも、ウォーミング・アップなしに演奏できる能力」を誇っていた。
[練習しないと音に出るという通説に反し]
「いちばん調子がいいのは、まさに久しぶりに弾くそのときです」とグールドは語る。
 「セッションの二週間前になると、一日に二時間は練習するかもしれません。それでも私にとってはかなりの練習時間なのです。(略)実際の練習はいつも頭の中でおこなっています」
 『二十七歳の記憶』でも、このことが証明づけられる。ふと難所で止まることがあっても、普通のピアニストのように何度もくり返し練習するかわりに立ち上がり、窓の外の風景を見ながらひとしきり頭の中で音楽を反芻したあと、また楽器の前に戻る。そして難所を苦もなく通りぬける。
(略)
 「ボクは作曲家になりたかった」
 じゃあ、どうしてならなかったの?
 「ボクの書く曲は音が古いって言われるんだ。七十年ぐらい、いや五十年かな」(略)
 「多数派の意見によれば、調性の時代は終わったそうだ。でも、ボクが求めるスタイルは違う」(略)
[シェーンベルクが]「調性の時代」に終止符を打つと、逆に不協和音を使っていないと奇異の目で見られるようになる。(略)
 作曲界はアイディア合戦になり、他人と違う技法を試みることで評価される反面、音が古かったり伝統的なスタイルで書かれていればそれだけでオミットされてしまう時代がつづいた。
(略)
 1955年1月にニューヨーク・デビューを果たしたと言っても、場所はカーネギーホールではなくタウンホールで、客席はガラガラだった。それまでのグールドは、年間の演奏回数が四回から六回ぐらいで、カナダのローカルなピアニストにすぎなかった。そもそも、国際的なキャリアを積んでいないグールドがどうしてセンセーショナルなレコード・デビューをすることができたのか、
不思議なのである。(略)
コロンビア・レコードの責任者オッペンハイムは、1905年に白血病で亡くなったディヌ・リパッティにかわるピアニストを探していた。以前にグールドと共演したことのあるヴァイオリン奏者が、グールドのコンサートのことを教えた。
 奇妙なプログラムだった。17世紀の作曲家のオルガン曲、バッハのシンフォニアやパルティータ、ベートーヴェンの『ソナタ第三十番』。ロマン派と近代をとばして、いきなり新ウィーン楽派ウェーベルンとベルクの作品。一般の聴衆にとっては超前衛で、作曲の専門家にとっては時代遅れという、微妙なスタンス。
 若いピアニストの醸しだす「呪術的な雰囲気」に魅せられたオッペンハイムは、会場にほかのレコード会社が来ていないことを確認したあと、レコーディングを申し出た。
 大手レコード会社が無名な音楽家の演奏を一度聴いただけで契約をむすぶのは、きわめて異例のことだったという。ここでグールドが提案したプログラムが、彼のその後を決定づけることになる。バッハの『ゴルトベルク変奏曲』は、当時は18世紀の異物、博物館行きの作品とみなされていた。コロンビアの重役たちは翻意させようと試みたが、彼は頑として応じなかった。どちらが正しかったかは、歴史が証明している。
(略)
1955年という年が、ピアニスト、グールドには幸いした。戦前の大物はほぼ引退し、戦中派は消耗し、後続はまだ育っていなかった。アシュケナージショパン・コンクールで二位になり、病気療養していたミケランジェリがようやく活動を再開した年である、リヒテルのニューヨーク・デビューは五年後。まだじゅうぶんに席があいていた。
 グールド自身、北米で成功する秘訣を熟知しており、セッションと宣伝のタイミングが絶妙で、刻々と変化する状況が「信じられないほど幸運に作用した」と語っている。
 しかし、ここからが想定外だった。レコードがヒットした結果、グールドのもとには各国から出演依頼が舞い込み、ツアー演奏家の生活を強いられることになる。
(略)
 ツアー演奏家というのは、「移動」と「くり返し」の二つの要素から成り立っている。シーズンはじめに何種類かのブログラムをつくってしまうと、それを一年中弾いている。もちろん、同じ土地では弾けないからあちこち旅行することになる。
(略)
演奏家なら、くり返して弾くことによって演奏が練れてくる、と喜ぶ。でも、創作家は一度名作をつくってしまったらくり返さない。
(略)
 「ピアノを弾く作曲家」ながら作曲で勝負できず、ツアー演奏家としても継続することができなかったグールドは、「作曲家のように活動するピアニスト」として再出発することになる。

ドビュッシーとポー

なぜドビュッシーとポーの取り合わせかというと、19世紀末パリでは、ボードレールが翻訳・紹介したポーの怪奇小説が大ヒットし、ドビュッシーも周囲の詩人たちもことごとくポーの「グロテスクの美」に夢中になっていたという背景がある。
 1887年、当時25歳のドビュッシーは、アンケートで「好きな作家は?」ときかれてフローベールとポー、詩人はボードレールと答えている。ちなみに、「好きな画家」の回答はモネではなく、ボッティチェッリとギュスタヴ・モロー。
 1890年には、ポーの怪奇小説の音楽化も企てていたらしいのだ。ある文芸評論家がロマン・ロランに宛てた手紙によれば、「奇異なほど文学に興味をもっている若い音楽家アシル・ドビュッシー」は、「エドガー・ポーの短編、なかでも『アッシャー家の崩壊』にヒントを得て、心理学的に展開するテーマにもとづく交響曲を作曲中」だったという。
(略)
[フランスを代表する作曲家となり、1904年にはボヘミアン時代を支えた妻を捨てて富裕な銀行家夫人のエンマと駆け落ち]
上昇志向の強いドビュッシーも名高いサロンの歌姫を娶ってはみたものの、あまりに生活レヴェルが違いすぎて、召使や料理人を雇っての贅沢な暮らしに稼ぎが追いつかなかった。
 1908年ごろからは直腸癌の前兆もあり、痛みをとるためにモルヒネを服用する時期もあった。絶望の淵に沈んだドビュッシーは、自らの家庭を『アッシャー家』になぞらえ、主人公ロデリックの不吉な運命を自分に重ね合わせていくのである。
 ポーの原作を脚色して台本を書いたのも、ドビュッシー自身だった。物語では瓜二つの双生児という設定のロデリックと妹マデリーヌの年齢をぐっとひきはなし、一、二行登場するだけの医者の役割を拡大させ、マデリーヌに横恋慕して兄をさしおいて生き埋めにしてしまうというあぶないキャラクターに設定している。

オーリッジ

音楽は演奏されてはじめて音楽になる。作曲家と演奏家をむすぶ媒体となる楽譜は、単なる記号にすぎず、きわめて曖昧で、きわめて不完全な伝達手段にすぎない。(略)
音楽は音と音の連なり、行間の中にある。どう連ならせるか、が演奏家の腕の見せどころだ。
 どう連ならせるか、には流行もある。第二次世界大戦前後は、即物的な解釈が正統的とされていた。それ以前の、自由に楽譜を改竄して弾く風潮への反動からだ。(略)
 しかしこのごろは、近代の作曲家たちの自作自演録音も出回り、当の作曲家自身が必ずしも楽譜どおり弾いていない事実も明らかにされている。
 「楽譜に忠実に」にもっとも激しく異議をとなえたのはグレン・グールドだろう。自らも作曲をするグールドは、霊感が降り立ったとき、作曲家がそれを正しく楽譜に書きとめたとはかぎらない、と主張する。自分はその「霊感」の源まで遡って、そのレヴェルで解釈し、演奏したいのだ、と。そんなグールドも、テンポやリズムや装飾音には改竄を加えたが、音の高さまで変えて弾いたわけではなかった。
 しかるに現在では、もっと驚くべきことがおこなわれていることを、私は最近になって知った。
(略)
 オーリッジの編集方針について高橋悠治さんは、以下のように解説している。
 まず第一に、ドビュッシーは楽譜を細部まで書くのがめんどうな人だった(これは本当で、彼の楽譜には臨時記号の付け落としやリズム上の矛盾が多い)ので、部分的に即興で弾いてしまったり、他人に演奏を聴かせたものもスケッチのまま放置したり、弟子格の作曲家たちに補筆させ、オーケストレーションしたものも自作と認めている。
(略)
オーリッジの仕事も、ドビュッシーの弟子たちがやっていたようなことを引き継いだ面と、現代イギリスのシステム音楽からの影響という両面があるだろう。オーリッジはサティの作曲法を解析し、『オジーヴ』や『ノクチュルヌ』を改訂したり補筆完成させたりしているが、これも同じ流れからだろう、と高橋さんは分析する。
 もっとも、かんじんの補筆については、転調感覚や響きのセンスは必ずしもドビュッシー的ではないし、サティの補作部分もあまり自然ではないと感じるという。
 だったらむしろ、すぐれた作曲家・ピアニストである高橋さん自身がドビュッシーのスケッチをもとに新たな作品をつくったほうが霊感に満ちた音楽ができるような気がするのだが、スケッチ使用の権利はオークションで競り落としたオーリッジにあるし……。

ショパンとリスト

 寄せ書きでは親しげだが、ショパンとリストの関係はなかなか緊張をはらんだものだった。だいたい、二人はいろんな意味で正反対だったのだ。
 リストは体格に恵まれ、華麗な指さばきやダイナミックな技巧で聴衆をノックアウトする、典型的な「ヴィルトゥオーゾ」だった。しかしショパンは、身体も華奢で指も細く、手の幅も狭く、ピアノを弾いても大きな会場では音が聞こえなかったと言われる。
 「ショパンは、自分が群衆にはたらきかけるような人間ではないこと、大衆をたたくことができないことを知っていた」とリストは書く。大衆を動かすためには「からだを動かし慣れている労働者のような力強い腕を必要とする」。
 1839年に本格的な演奏活動にはいったリストは、八年間で約千回の公開演奏をこなしているが、ショパンは、パリに往んでいた十八年の間に、ホールと名のついた会場で演奏したのは十数回でしかない。リストに「貴族のご落胤のよう」と言われたショパンは、エレガントな容姿、立ち居振る舞いで上流階級の人々に手厚く迎え入れられ、彼らのサロンを主な仕事場としていた。
 リストはプロフェッショナルな弟子をたくさん育てたが、ショパンの弟子たちはアマチュアがほとんどで、その教えは公的な教育機関に伝わらなかった。
(略)
 ショパンはリストのピアノを弾きこなす力を尊敬し、「彼のような弾き方ができればと思う。……彼が弾いてくれると、ぼくは自分の音楽が好きになる」と言っていたけれど、リストが自分の作品にいろいろ余計なものをつけ足して弾くことには腹を立てていた。
(略)
リストの紹介でショパンのレッスンも受けることになったレンツが、リスト直伝のショパンマズルカを作曲者の前で弾いたところ、こう言われたという。
 「華麗なパッセージのところは、あなたのものじゃないでしょう。彼が教えてくれたのですかね――あの人ときたら、あたりかまわず自分の爪跡を残したがるんですから」
 リストはレンツに、二オクターブにもわたる装飾的な異稿を教え込んだのだ。
 しかし、実のところ、生徒がレッスンで彼の作品を弾くたびにさまざまな異稿を楽譜に書き込むのは、ショパン自身なのだった。
 ショパンは、ロッシーニベッリーニなど、イタリアのベルカントのオペラに強い影響を受けていた。この時代の歌手たちは、書かれた音符の上に即興でさまざまな装飾をつけ足して歌う習慣があった。ちょいとひっかけたようなアポッジャトゥーラ、細かくふるわせるトリル、ばららんとくずすアルペッジョ、ずり上げたり下げたりするポルタメント、くるっとまわすターン、ジグザグゆらすストラシーノ、音の間を分割するディヴィジオン。
(略)
 ベルカントの歌手たちは、即興のアイディアを盗まれることを恐れて記譜しなかったと言われる。ショパンは、自分の装飾音を小さな音符の形で楽譜に書き込み、様式化した。だからといって、それをそのまま教科書的に演奏しろという意味ではなかったようだ。
 レンツによればショパンは、この種の装飾音が「練習の成果ではなく、あたかも即興されているように聞こえなければならない」と力説していたという。弟子たちの楽譜のあちこちにも、そのつどひらめいた装飾音を書き込んだ。その装飾音が、残されている楽譜によってさまざまなのだ。弟子たちに例を示すときも、あまりにそのつど変わるので、弟子たちはいったいどのヴァージョンを弾いたらよいのか、とまどったという。
 なかでも重要なのは、スコットランド貴族のジェーン・スターリングが編纂した楽譜である。
(略)
 異稿のほうでは、歌手のポルタメントを音符化したものが、なおさら華やかなカーブを描いている。正規版では単音だった装飾句に重音が加わり、超絶技巧を披露できるようになっている。ターンもトリルもより複雑化し、繊細微妙なアラベスクを描く。
 弾いているうちに、不思議な気分になってくる。ショパンの場合、「楽譜どおり」とはどういうことなのか。
(略)
ベルリオーズは、楽譜に起こす前にオーケストラのスコアが頭の中でできあがっていたと言われる。シューマンは机の上で五線紙を相手に作曲したので、演奏するとき弾きにくいところがある。
 ショパンは五線紙の前で作曲せず、ピアノに向かって鍵盤に指をすべらせる。その結果沸き起こった霊感を書きとめようとする。しかし、そこから先が大変なのだった。いざ五線紙に向かうと、完全な形で降りてきた霊感をそのまま音符化できないというジレンマに襲われる。(略)
[ジョルジュ・サンド談]
それは彼のピアノの上に、突然の、完全な、崇高なものとして訪れてくる。またはそれは、ある散歩のおりに彼の頭のなかで歌となって鳴り、それを彼はいそいで、楽器の上に投げ出すことによって彼自身にきかせようとする。しかしこのとき、かつてわたしが立会ったもっとも苦しい労役がはじまるのだ。(略)彼は自分の部屋にまるまる何日も閉じこもり、泣き、歩きまわり、ペンを何本も折り、ひとつの小節を百回も繰りかえし、また変え、それを同じ回数だけ書き記し、また消し(略)六週間ひとつのページにかかりきり、そのあげく、初めの発想のときに記したとおりのことをまた記しつけるようなことにもなった」
(略)
彼がひっきりなしに弟子の楽譜に異稿を書き込んだのも、書いても書いても霊感がすり抜けてしまう楽譜というものに対する無力感のあらわれかもしれない。

次回につづく。