西尾幹二を傷つけた言葉

三島由紀夫自決への熱い文章をバカにされた38年前の無念を晴らすべく再検証、自分は間違ってなかったと書き綴っているのだが、元々著者に興味のない当方はそういう話より、70過ぎても忘れらない屈辱の記憶になんかしみじみ。いろいろ「傷ついて」、朝生のあの顔付きに至るというわけか。

三島由紀夫の死と私

三島由紀夫の死と私

エーッ!保守じゃないんだw

三島事件の衝撃は、大概の保守的な読書人の頭を真白にしました。興奮していたのはむしろ彼らなのです。自分の心が正常でなくなっていると、正常な文章が異常に見えるものです。すべては時間が解決してくれていて、今私の文を読み返す読者が正当な判断を下していると信じます。
 私は保守ではありません。左翼ではもちろんありません。そういうレッテル貼りがいかに不毛であるかを痛切に感じます。

言論界追放の予感

 保守化し安定していく大衆社会の中で、知識人の多くは自分をごまかし、沈みこんで行く。私はそれを拒否する感情を持っていました。そのころ、「幻想のなかへ逆戻りするな」とか、「紛争収束後の安易な保守感情を疑う」などという論文を書いていました。学生たちに同調して変革を訴えていた大学教師たちが、学生たちを裏切ってきれいごとを言い出したことが私には許せなかったし、永遠に「自分」というものに突き当らない言論人の自己隠蔽病を黙視できなかったのです。そういう言論人は進歩派、保守派を問わずゴマンといました。(略)
 三島さんの自殺に直面したとき、私が身体に震えがくるほど衝撃を受けたのは、三島さんと時代への怒りを共にしていると秘かに自惚れていたことと関係があります。私は自分が問われている、と直感したからです。三島由紀夫は知識人たちに向かい、お前たちに出来るか、お前たちはこれまで言ってきたことをなぜ実行しないのか、と言っているようにまっすぐ聞こえたのです。(略)
三島さんの自決は私に矢のように突き刺さり、お前の怒りなんか偽物だよ、と叱られたような気がしたのでした。恐しさを感じた一番大きな原因がそれであったと思います。(略)
 それに、全身に震えるほどの恐怖を感じた理由は明らかにもう一つあります。正直いうと私は自分の立場がこれでいっぺんに失われたのではないかという未来への不吉な予感を覚えました。私は言論界に自分のいる場所はこれでなくなった、と瞬間的に理解したのです。そして、事実その通りになりました。若かったから、私はなんとか立ち直れたのです。

 三島さんの自決のあと私はフツリと政治評論をやめました。その気になれなかったからですが、時代がにわかに霞がかかったようによく見えなくなったからでもあります。
 間もなく渡部昇一井上ひさしが人気者になる新しい時代がやって来ました。純文学の文壇にも古井由吉が登場し、ひたすら非政治的に傾く「内向の世代」がもてはやされました。

20年後の1992年に書いた「不惑考」

日本文化は三島的決断の美学から、山本七平的認識の相対化論に所を譲った。文壇は以前にもまして自閉した専門集団と化し、文芸論争は起こらなくなった。
 私の政治的発言は現実において正しさを証明し、新左翼は敗退した。しかし言論界に私の居場所はなかった。私の正しさを誰も相手にしなかった。こんな筈ではなかった、と私は思った。(略)
三島の死は私自身の敗北の姿をうつす写し鏡であった。

三島を「ごっこ」と切り捨てた江藤淳

 わが国の現実を否定的にとらえ苛立っている点において、江藤さんと三島さんは同一基盤の上に立っていました。であるなら、ここを踏み破って、一歩でもほんとうの現実に近づこうとした三島さんの真意を江藤さんは黙って見守り、静観してあげるべきではなかったのでしょうか。(略)三島さんの「兵隊ごっこ」がバカらしいと簡単にどうして言えるのでしょうか。

私を傷つけた言葉

 当然ながら二つの論文に文壇の反響はありませんでした。私の周りにいた保守系の文化人や教養人は誰も拙論を論評しませんでした。三島さんの死に嘲りのニュアンスを言葉にした江藤淳の影響は思いのほか大きかったのかもしれません。今でも忘れないのですが、同じ時期に文壇で仕事を始めた入江隆則さんが私に面と向って、「西尾さんもとうとうあんなことを書いてしまったからね」と言ったことばは私を傷つけました。それは粕谷一希氏と同じような口調でした。三島さんの死を積極評価したのはいけなかったという意昧でしょうか。日本文化会議の大磯シンポジウムの帰りに、名だたる保守系文化人が誰いうとなく、「三島論はたくさん出たけど誰が一番見抜いていたかなァ」というと、芳賀徹さんが「そりゃ西尾さんだなァ」と仰有いました。これは好意的なお言葉でした。するとどこからか、誰からか分りませんが、どっと二、三の笑い声が上りました。冷たい笑い声で、やはり私を傷つけました。そして、ひとこと日本思想史の源了圓氏が「西尾さんはちょっと興奮していましたね」と仰有り、それ以上なにも詳しくは語りませんでした。

そんな時、澁澤龍彦が評価してくれ

[三島自決問題は]ニヒリズムとラディカリズムの問題で、それ以上でもそれ以下でもない。(中略)ずい分いろんな人が三島論を書きましたが、このことをはっきり問題の焦点として見据えた人は、ぼくの知っている限りでは、西尾幹二さんだけだったようです。この人は三島文学の愛好者でもないし、まことに穏健な思想の持主らしいんですけれども、ふしぎなこともあればあるもので、少なくとも問題の核心をつかんでいましたね。

こんな桶谷秀昭の文章に救われたり

 わたしは以前、三島由紀夫の純粋天皇制という理念を、もはや天皇制が現実的、政治的に機能することが不可能な戦後を背景にしてはじめて成り立つ美的理念にほかならない、という主旨を書いたことがある。(略)
 わたしには、戦前の日本浪曼派のあの民族の無意識への回帰が、はるかにドラスティックに三島由紀夫に再び実現されるとは予想することができなかった。(略)
およそ民族の無意識に同化することは、死によってしか果たされえないのである。
 和魂の憂憤は人に死の支度をいそがせるのである。