闘う皇族

闘う皇族  ある宮家の三代 (角川文庫)

闘う皇族 ある宮家の三代 (角川文庫)

  • 作者:浅見 雅男
  • 発売日: 2013/08/24
  • メディア: 文庫
 

 色盲

病弱な大正天皇に代わり貞明皇后が息子の嫁選び、久邇宮良子に内定。
学習院身体検査で久邇宮家三男の色盲を見つけた軍医が興味にかられ調べたところ祖母からの遺伝と判明。良子が色盲遺伝子を保有していた場合、未来の天皇の息子が色盲になる可能性を上司に報告。
これを知った山県有朋久邇宮邦彦の叔父で皇族筆頭の貞愛親王久邇宮家の方から辞退するよう依頼(大正天皇の嫁に内定していた貞愛親王の娘が肺病を理由に取消された過去があったので、久邇宮家も納得するだろうという目論見もあり)。

久邇宮家の反撃

ところが邦彦王は逆に皇后に「天皇家が一度決めた事を覆したら国民が動揺しますよ」と意見書を送る。これに皇后が激怒。一宮家が天皇家に意見、しかも手紙で、病弱とはいえ天皇を無視して直接皇后に、とは無礼千万。手紙を突き返す。それでもヘコまない邦彦王、意見書のコピーを山県に送りつける。それでも邦彦王側が要望した五博士による色盲の見解が最初の報告と同様の結果だったことで、さすがの邦彦王も納得かと思われかけたが。

善意から政治化

破談にされた女性が不憫、一番の問題は、内定取消しが天皇の徳を傷つけることだと、正義感で杉浦重剛が動くうち、話が反山県派の耳にも入り、政治的ネタにしようという動きが出てくる。さらに久邇宮家による「山県暗躍」という怪文書が出回り、政府は皇太子婚約問題報道を全面禁止。これが火に油。流れは「内定」変更なしとなり、孤立した山県は軟化。

驕る邦彦王

婚約解消派が侘びを入れるように訪問してきたことで勝利を確信した邦彦王は、洋行前の皇太子に拝謁を願い出る。これに皇后が激怒、正式決定したわけでもないのに一皇族が拝謁とは何様、「御自分が勝つたと云ふ御態度」と非難し拝謁を却下。ねばる邦彦王は娘の天皇拝謁を願い出る。邦彦王も「内定」では不安で焦っていたのだ。天皇の勅許とまではいかずとも、拝謁という形で天皇の正式な認知が欲しかった。実は怪文書を依頼した来原という男に「三万円強支払はなければ、一切ぶちまけて破談にするぞ」と脅迫されていた。年間歳費が五万円強の久邇宮家には大金。邦彦王の心配は杞憂ではない、山県の仇敵である原首相が問題は未解決という立場を明確にしていたからだ。

[立憲君主国家を目指し、反藩閥、反山県でようやく政党内閣が誕生]
ところが、その原の前に、あらたに理想を妨げるものとして現れたのが、皇族として政治の世界の外で超然としていなければならないはずの邦彦王であった。
 原は鋭い感覚で、某重大事件における邦彦王の行動の危険性を見抜いたにちがいない。皇后に呈した書簡を第三者に見せ、次期総理大臣と噂される政治家に接近し、正体のさだかでない人物に怪文書を書かせるという、原の理想からすれば信じられないことをする皇族。それが原にとっての邦彦王であった。
 大正天皇は心身ともに衰えていた、そして皇太子はまだ若年である、宮中は明らかに求心力を失っていた。そういう状況のもとで邦彦王が皇太子の舅になったらどうなるか。

だが原は暗殺され、11月に皇太子裕仁親王は摂政に。翌大正11年大隈重信山県有朋死去。6月牧野宮内大臣が皇后に拝謁し内定通りの進行を願う。そこで皇后はこう激白。
「皇室に色盲が遺伝するのを黙認するのは心苦しい。しかし皆がそう決めたのなら仕方ない。久邇宮には慎みのある態度をキボンヌ」さらに

皇太子も皇統の純血についてよくわかっていないようだ。天皇の位は預かったもので、われわれの私有ではないことを大切に考えて欲しい

朝融王事件

良子と皇太子と成婚直後、今度は兄の久邇宮朝融王が酒井菊子との婚約を解消したいと言い出す。理由は貞操。良子の時に「内定」を取り消すのはヒドイと文句を言ったくせに、天皇が「正式」に認めた婚約を解消しようというのだ。そんな話通るわけねえだろ!と誰でも思うが、ここでも粘る久邇宮親子。しかも軍事訓練視察で一緒になった皇太子に朝融王が「酒井家との問題は解決した」「相手が肺病(不治の病)だから」という二つの重大な嘘をつく始末。最終的に久邇宮家には摂政の訓戒、被害者にはドロを被ってもらい酒井家から婚約辞退という形をとることに。

摂政の訓戒にたいして、「承知いたしました」でも、「以後、慎みます」でもなく、書面に目を通したまま、黙っていたというのだ。まさか、「婿」に怒られるとは思ってもいなかったのか、邦彦王はあくまでも傲岸であった。

驚愕後日談。昭和22年妻を亡くした朝融王が前田家に嫁ぎ戦争未亡人となっていた菊子に結婚を申し込んでいた。

邦彦王の父。「八月十八日の政変」で我が世の春。帝位に登るために呪詛を頼んだ、天皇の姉に譲位させ自分が後見人になろうとしている、といった噂が立つほどの威勢。王政復古で失脚。慶応4年徳川慶喜と謀り幕府再興を企て広島へ流される(著者は冤罪としている)。その後許されても頑なに京都に。熱田神宮改修にあたり伊勢神宮内を参考にしたいという話に、熱田を伊勢と同格に扱うのはけしからんと上京、天皇に熱弁。

ときに明治天皇39歳、朝彦親王67歳。天皇にとって親王は父孝明天皇が頼りにした「寵臣」であり、また、形式的にとはいえ義理の伯父でもある、なにがしかの感慨があって、多忙のなか、長い時間を割いたのであろう。さらに、維新直後に「冤罪」に陥れられた親王に対し、天皇は同情の気持ちももっていたはずである。なにからなにまで親王の言い分をいれることはありえないにしても、面子は十分に立ててやろうと思っていたであろう。

実質不遇ではなかったのだが、久邇宮家には「不遇」という意識が代々引き継がれていた。

皇族が反旗

さてここで話は前回の『皇族誕生』につながる。大正9年の皇族会議で枢密院決定に皇族が反旗

何人かの皇族を適用除外するなど、宮家の事情にも十分配慮した内容になっている。文句のつけようがない案のはずだ。山県は自分がそれまで皇族に対して抱いていた考えがまったく通用しなくなったことを認識したはずである。
(略)
維新動乱の中を駆け回っていた伊藤博文山県有朋たちは、そのころの皇族の実態をよく知っている。(略)
きわめつけはいうまでもなく朝彦親王である。確固たる信念もないままに、時によってまったく主張のちがう公家や武士たちにかつがれて迷走し、長州人を始めとする多くのひとびとを犠牲にしたこの皇族を、伊藤や山県も好意的な目でみていたわけがない。(略)
安政の大獄で失脚した朝彦親王復権したころ、山県は親王に大きな期待をよせる尊攘派のひとりとして京で活動していた。しかし、結局は親王によって裏切られるのである。山県にとっては、皇族の出すぎた振る舞いがなにをもたらすかは、自明のことであった。(略)
皇族たちはかつてはもたなかった権威や富を保証されているとはいえ、いわば「お飾り」であり、天皇の意思を体しているという大義名分をもった権力者たちの統制下に置かれる存在であった。これは明治国家の「けじめ」であった。(略)
 ところが、そのような山県たちにとっての「常識」が崩れ始めていることが、皇族降下令準則問題を機にあきらかになった。とくに明治生まれの皇族、つまり皇族たちが優遇される時代になってから生まれた成久王、邦彦王、鳩彦王、博恭王などがつぎつぎに反対意見を表明したことは、山県にはショックであったろう。(略)
山県の心中に皇族たちへの不信と不満が一気に芽生え、それがあの朝彦親王の孫でもある良子女王が次代の皇后となることへの警戒心につながった。そう推測することはきわめて妥当であろう。(略)
晴れて皇太子の義父となった邦彦王がますます「矩」を越えて突っ走っていったことは、朝融王事件が示すところである。