皇族誕生

宮家の数を減らすはずが逆の結果に、そのわけは。
大雑把に要約。

皇族誕生 (角川文庫)

皇族誕生 (角川文庫)

明治21年6月枢密院会議で皇室典範草案第33条が承認され「永世皇族制度」が確定。だが会議ではナンバー2の三条実美他が反対を表明。それもそのはず、天皇の意向でなし崩しなっていた太政官布告の原則を皇室典範で復活させようというのが当初の目論見であり、議長であり立案者である伊藤博文永世皇族制度を明確に否定していた。
突き上げを喰らった伊藤博文は皇族の臣籍降下を禁じているわけではないのだから規定してなくてもいいじゃないというぐだぐだな弁解。「種々穏やかならざる所ありて」と思わせぶりなことも。修正しようとしたけど部下の井上が賛成しなかったとも。実質的「立案者」である井上毅は第33条は永世皇族制度を採っており臣籍降下は禁じられていると断言。それでも「賛成14:反対10」で可決。不本意を露骨に示す伊藤の言動から出席者の多くがなにかを察した結果であろう。伊藤変心の裏には、明治天皇の意向があると。

王政復古の五ヵ月後慶応4年、「本人一代に限って宮家を立てることを認める。しかし、その子供達は臣下とする」という主旨の太政官布告。これにより新立宮家は世襲親王家より格下の「一代宮家」だと規定された。
還俗した皇族が新宮家を立てることは、王政復古を謳うために必要であったが、財政が逼迫していた明治政府にとって宮家が増えすぎてしまうのも問題だった。
しかしその原則はなし崩しになっていく。
布告のあった当時は担がれた「幼帝」にすぎなかった天皇であったが、やがて「特旨」を発動し布告は有名無実化していく。皇子が健康に不安のある嘉仁親王だけである明治天皇にとって皇族の数を減らす施策は認められなかった。

  • 「五世以下」

皇位継承資格者は十人確保」
さて話は冒頭に戻る。

[天皇だけでなく、伊藤達も皇位継承者問題は考慮していた]
皇族を絶やさないために、臣籍降下するのは「五世以下」の皇族に限ろうとしたのである。天皇の子が一世、孫が二世、曾孫が三世、玄孫が四世、そして、ここまでの男子皇族が親王である。臣籍降下するのは、それ以下の王と呼ばれる男子皇族たちにすれば、皇位の継承に支障は生じない。
(略)
 さらに伊藤たちは、五世以下の皇族をすべて機械的臣籍降下させるべきだとも考えていなかったと思われる。桂宮家は明治14年に断絶していたから、当時存在した世襲親王家は伏見、有栖川、閑院の三宮家だが、これらの宮家の皇族も全員が五世以下である。また、幕末以降に続々誕生した新立宮家の皇族はすべて伏見宮家の出身だから、これまた五世以下になる。したがって、五世以下というだけの理由で皇族を臣籍降下させれば、皇族は皆無になり、皇位継承者もほとんどいなくなる事態が生じるのは目にみえている。
 そこで、伊藤たちは制度の弾力的な運用を考えたはずだ。おそらく彼らは皇室典範で五世以下の皇族の臣籍降下規定をさだめても、たとえば宮家の長子の系続につらなる皇族は五世以下であっても臣籍降下させないというようにすれば、不測の事態は防げると思ったのではないか。当時、柳原の作成したいくつかの皇室典範試案のなかには、「皇位継承資格者は十人確保する」といった主旨の文言が見られる

  • 十年後、再び

明治31年、伊藤は「臣籍降下」の必要性を訴えた意見書を天皇に提出。皇室経費財政問題より先に、「非望の端」の惧れを挙げた。皇位継承者が増えすぎると、皇位を伺うものが出かねないという「不忠」と謗られかねない警告で自分の真剣さをアピール。20歳になった皇太子の健康状態が安定したこともあり絶好の機会だと思ったのだろう。

明治40年皇室典範施行から18年、「臣籍降下」が法的に確定。
園部逸夫は「皇室法概論」で、臣籍降下を可能にするという例外を定めたにすぎず、永世皇族主義を改めたものではないと主張)
[天皇の心中は]
この時皇太子には三人の皇子があり、直系皇位継承における不安は薄れていた。明治31年からの九年間で五つの新宮家が立てられた(成長した四人の皇女の婿候補の格を上げるため)ことも天皇を安心させていた。

枢密院の決定を追認する場でしかなかったが、今回はさすがに皇族に不満が渦まいておりパスというわけにはいかない。そこで波多野宮内大臣らは「皇族会議員は自己の利害に関する議事に関しては採決に参加できない」という規定を持ち出し、皇族は採決に加われないという理屈で乗り切ろうとした。山県有朋枢密院議長が、そんな姑息なことはせずに、ちゃんと皇族自ら賛成して「臣籍降下」に協力させろと言ったりもしたけど、なんだかんだで開会。議論はあったが、筋書き通り採決はせずに閉会。だが会議後に大事件。

 会議のあと、天皇から出席者に昼食がふるまわれることになっていた。賜餐である。ところが、皇太子と山階宮朝香宮以外の皇族は、食べずに帰ってしまったのである。(略)なんとも露骨な行動であった。もちろん、山県はカンカンになり、皇太子も出席する賜餐をボイコットするとは何事かと、石原宮内次官らに怒りをぶちまけた(略)
[そして猛反撃に出た]
元老の松方正義西園寺公望とともに、天皇に「待罪書」を奉ったのである。(略)
皇族会議ではっきりと決を採らずに、あいまいな形で準則案を承認したことは自分たちの尽力不足によるものだったと言っているのだ。要は嫌がらせに近い。
 宮内当局は困ってしまった。元老三人連名の待罪書がだされた以上、無視するわけにはいかないが、さりとて天皇が山県たちを処分したりもできない。(略)
この一件はこの年の暮れから翌年にかけて宮中を震撼させた「宮中某重大事件」の原因となった。[その経緯については同著者『闘う皇族』にて]

このあと第二部が入隊した皇族、第三部が皇族の事件簿となって、東久邇宮稔彦王が登場。父の朝彦親王公武合体派の重鎮で王政復古後、広島に流され、許されたのち京都に。精力絶倫63歳で「身分」の低い女との間にできたのが稔彦。この稔彦、妻である明治天皇第9皇女を残して大正9年32歳の時パリへ留学したはいいが、三年経っても帰ってこなくて大問題に。マルクスにかぶれた、フランス女とできちゃった、などと噂される。本人も臣籍降下を希望、宮中首脳にはじゃあそうしちゃうなどという強硬意見も。しかしそうなると妻である第9皇女も臣籍降下ということになり、離婚でもしないかぎりまずい。
皇族離脱希望の理由は、明治天皇から食事に誘われた時に下痢してたので断ったら皇太子(大正天皇)にめっさ怒られていやになった。妻の方が天皇の娘ということで周囲から大事にされてオモロクナイetc。「それまでにいろいろ不満があったのが、一時に爆発したのでしょう。あまりに窮屈な、人間あつかいをしないのに何より不満だったので」とは本人回顧。
大正天皇崩御し、昭和2年ようやく帰国して問題発言。

 実に重大な発言である。皇籍を離脱したいと願うのは決してただの思いつきではなく、明治以来、大量につくられた伏見宮系などの傍系皇族という存在について根本的な疑問があるからこそだというのだ。さらに稔彦王は、自分がパリにいる間につくられた皇族降下施行準則についても、「現在の皇族は総て降下するが当然にて、先に設けられたる降下内規も姑息にて徹底したるものに非ずと思ふ」と、疑問を呈する。
 第4章で詳述したように、多くの皇族たちはこの施行準則制定に反対だった。だれも公言はしなかったが、それぞれの宮家に子々孫々にわたって保証されていた既得権がうしなわれることに猛反発したのである。ところが稔彦王は、あれでもまだ「姑息」で「徹底」していないというのだ。王はまさに皇族中の異端児だった。
 当然、倉富は仰天した。まさか、稔彦王がこれほどまでに理論武装したうえで、臣籍降下を願っているとは思いもしなかったであろう。

結局臣籍降下せず。
のちに神兵隊事件に関与する安田銕之助が軍隊を辞めてからも東久邇宮邸内官舎に住まわせていた。(勿論本人は全く無関係だったと強調している)
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