東MAX、また叱られるの巻

どちらにも興味はないのだが、東MAXが「一方的に怒られた」風な事を書いていたのでチェック。下記リンク先と同様、若い支持者の期待に応えるためにこのキャラは崩せないんですよおお、と心の中で手を合わせてる東MAXのSKAしっぷりに大塚が切れていました。
kingfish.hatenablog.com

二章と三章の間に五年の空白。マーケティングを語っていた大塚が五年後、おまえはマーケティングじゃないかと切れてるところがw。
第一章(2001年対談)

大塚 すると東理論を真に受けた子たちは、まさに匿名性のなかで、パーツとして自分が存在していればいいという根拠を手に入れてしまって、ますます角川書店とかブロッコリーにとっては、都合のいい事態になっていくんじゃないの(笑)。国民総背番号、全然オッケーみたいな。

大塚 君のクリエイターの才能は分からないけれども、君の理論が進化していくには、作り手のサイドに首を突っ込んだほうが面白いんじゃないのかという気がする。「引っかける」「引っかけられる」の関係のなかで、引っかける側に回ることによって、自分の理論がもう少しリアルになるとも思う。マーケティング理論を越えたエグいところがいっぱいあって面白いもん。現場主義をあえて言う必要はないんだけれど、『物語消費論』というのは、フリーの編集者で仕事がなかった大塚英志が、電通とか角川書店に食い込んでいくために作り上げたマーケティング理論で、同世代の感覚を企業に売っていくことから出てたものなわけだし。その覚悟があるのかって。

第二章(2002年対談)

大塚 かつて意味や主題を解体させることに関わったからこそ回復する道筋が重要だと自戒と反省を込めて言ってるんだよ。ぼくが気にしているのは、そういう意味を解体していった1980年代以降の後に、データベース化というキーワードが出てきて、もう一度意味や主題が回帰してきたかのように見えるときに、それすらも高度化したサンプリング技術の一つなのか、いわばサンプリングする「主体」の誕生なのかということですよ。

第三章(2007年対談)

大塚 君が批評家であり知識人であり、言論人である、という事実は客観的な事実としてある。でも、なぜそこで、君はスルーしちゃうようなものの言い方をするのか。つまり君が言っていることっていうのは、読者に向かって、君は何も考えなくていいよと言っているようにぼくにはずっと聞こえるんだよね。
東  ええ。それは、そういうふうにぼくはよく言われているので、そういう特徴を持っているんだと思います。
大塚 そうやって居直られても困るんだって。
東  (笑)そうではなくて、大塚さんの批判はぼくという人間の全体とかかわってしまっているので、その部分だけ取り出して修正することができないんですよ。そう答えるしかないでしょう。
大塚 それが知識人なのか。

大塚 その話を聞いてしまったら、ポストモダンっていうのは、何もかもから距離を取れて、すごく楽な思想だっていう話になっちゃうよね。
東  楽と言えば楽ですが、楽じゃないと言えば楽じゃない……(苦笑)。
大塚 楽じゃないか。全部に傍観者でいられる当事者で、それこそ俺には関係ないって言えるような思想がポストモダンなわけ? デリダなわけ? (略)
ポストモダンって本当にそういう思想なの? もしくは、それはポストモダンっていう思想のせいなの? あるいはポストモダンという思想がもたらした時代のせいなの?
東  ポストモダンという思想のせいではないかもしれませんが……だから、ぼくが言いたいのは、ぼくという人格は個別にあるものではなくて、時代性とか、さまざまなものによってつくられているわけです。

東  なぜ人格攻撃かと言えば、ぼくはさっきから誠実に答えているのに、大塚さんはそれに対して具体的な反論を寄せるのではなく、答え方が気に入らないという批判しかしないからですよ。
(略)
大塚 だから現状を肯定しろって言っているんじゃないでしょう。君の言っているのは、結局マーケティングじゃないか。
東  マーケティングでも何でもないです。
大塚 マーケティングだよ。自分の客はこうで、世の中の関心はこうで、だからそこに自分の批評がある、それをマーケティングって言うんだよ。

東  (略)そもそも、ポストモダニズムというのは、政治的には本質的に現状肯定しかできないロジックのはずです。(略)[それなのに]左翼のラジカルな議論がポストモダニズムによって支えられるようになってしまった。でも、それは本当は無理なんです。
 どうしてそんな無理をして政治化しなくてはいけないのか。むしろポストモダニズムの言説の毒というのは、政治性や主体性の議論を無効にするところにあるのではないか。その毒をもっとちゃんと引き受けたほうがいいんじゃないの、というのがぼくの批評のスタート地点にあります。むろん、それをすべて忘れて「公共的な言論人」のふりをすることはできる。(略)でも、それこそが無責任なのではないか。

どうでもいいのでどうでもいいのだが、唯一気になったのが「行間を読む」という話で、それは別の本と一緒にやってみようかということで、明日につづく。