未洗礼死産児のサンバ

全7章のうち長谷川まゆ帆による第1章のみ。

カトリック教会は洗礼の徹底・重要性教育のために

洗礼を受けずに生まれた子どもは地獄に落ちるか、永遠にリンボを彷徨うと、未洗礼の恐怖をあおってもいた。(略)行くところを失った遺体は、共同体の墓地には埋葬できず、後々まで彷徨い続けて、生者を脅かすと信じられていたし、そのような子どもを産んだ女は恥として共同体の嘲笑を買った。したがって子どもが母親の胎内で死にかけているならば、せめて息のあるうちに引き出して洗礼を施してしまわねばならない。
[だがそれは母体に負担をかける]

フランソワ・モリソは

カトリックの教えは、子どもの洗礼を重視するあまり、みすみす母親まで死なせてしまい、生きている母子をともに死に追いやっているというのである。この考えをモケ・ド・ラ・モットは引き継いでいた。

なぜ産婆は墓地で子を喰らう悪魔として描かれたか

[母体を救うため胎児の四肢を切断して取り出す方法は古くから暗黙裡に行われていた]
中世末期から産婆が子どもを殺す悪魔として表象され断罪され続けてきたのも、おそらくはこのような背景があってのことであろう。ばらばらになった胎児の四肢を墓地に埋葬しようと密かに市門の外に運び出そうとして見つかった産婆は、子どもを食らう血塗られた魔女として描かれ、子殺しに関与した女はこうした悪魔的イメージを付与されつつ犯罪者として断罪されてきた。また母の命を助けるために胎児を殺すことは、同時に未洗礼の死産児を引き出すことを意味し、そのような子を教会の墓地に埋葬することは許されなかった。母を助けるのか、子どもを助けるのか、助産者はいつもこのダブルバインドにひきさかれていたのである。

規制強化で未洗礼死産児問題化

(1680年ルイ14世プロテスタントは洗礼を軽視しているので出産に関与するなと宣言。母体保護を優先するとプロテスタントと疑われてしまう恐怖が生じた)

[教会が]曖昧に黙認しているうちは、胎児の洗礼はさほど表立って問題になることはなかった。産婆や女たちは当然のことながら産婦の命を優先してきた。その場合には、皆で口裏を合わせて、仮洗礼の後で息をひきとったことにしておけばよかったからである。それができなくなっていくのは、司教の前で誓約した、カトリックの教義に忠実な特定の産婆の利用が、制度として強制されるようになってからのことである。つまり抜け道がなくなり融通がきかなくなっていったからである。(略)
[外科医は「子殺し」幇助の罪を恐れ母体は二の次だった]
女たちが最後の最後まで外科医を呼びたがらなかったのは、外科医を呼ばずに、話のわかる女の助産者の間で「こと」を穏便にすませたかったからでもあろう。

モケ・ド・ラ・モットによる胎内洗礼

「あらかじめ溶かした無塩のバターに浸した」手を、膝のなかに「鰻のように」ゆっくりとすべらせていった。処置によっては、指一本だけの場合もあったが、四本まで入れることもたびたびあり、てのひらや手首、さらに「肘まで」も入れることがあった。彼の手は、さながら「海綿状の鉤の手」であり(略)臨機応変に形を変えて動く精密なゾンデであった。(略)この方法は、生きているうちに子どもに洗礼を施すことができたばかりでなく、彼によれば、三回に一回は、その命を救うことができたという。

「救済の手」

モリソの教えに忠実なモケ・ド・ラ・モットが、モリソもおこなわなかった「手の挿入」という手段をあえて採用し、実践したのは驚きである。しかし、その背後には、洗礼の徹底と王権によるプロテスタントの締め出しという特殊な時代状況が横たわっていた。(略)時代のアポリアに果敢に挑んだ産科医として高い評価を受けることにもなった。しかし忘れてはならないのは、この方法が、女たちの間ではすでに古くからおこなわれてきたものであり、決して新しいものではなかったことである。女たちの場合には犯罪と見なされ、表立って語ることができなかった方法が、ここでは「救済の手」として堂々と描かれた。だが、その手は、母の命を教おうとして犯罪者の烙印を押されてきた、他の多くの女たちの手と、どれほどの違いがあったのだろうか。彼は、その技を男の産科医に伝え、外科医集団の倫理と地位の確立に多大な影響を及ぼした。しかしその一方で、女たちの手は闇のなかに葬られたのである。そして身体の内部に関与する技や経験は、外科医だけのもつ「救済の手」としてジェンダー化されていったのである。

余白もあるし意味なし画像

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