東MAXの「行間」とヘミングウェイ

前日からのつづき。

「行間を読む」とは。
Goo辞書では「文章に文字では書かれていない筆者の真意や意向を感じとる」となっている。ライトノベル批判で「行間を読むことができない」とくれば、「底の浅い文章だ」くらいの意味だろうが、東MAX先生の御高説は↓

東  ライトノベルの文体にしても、よく言われる批判は「行間を読むことができない」ということです。しかし、では行間とはなにかと言えば、要は言葉と現実の齟齬なわけです。なんらかの現実を描こうとしているんだけれど、言葉がそれに追いつかないという不可能性の雰囲気。作者はなにかを伝えようとしているんだけれども、この言葉では言えなかったんだろうな、という苦闘の跡が行間ですね。だからそれがライトノベルにないのは当然で、彼らはマンガやアニメの無意識のデータベースから描写を取ってきているのだから、文章は現実そのものなんですよ。この変化がいいのか悪いのかと言ったら、小説読みとしてはそれは悪いと言いたくなる。それは認めます。少なくとも、そこでは一度達成された豊かさが失われているのだから。

 純文学系の小説は、作者が書くべきことをすべて握っていて、言語化する段階で七、八割くらいに再現度が落ち、さらに読者が読む時点では四割くらいに落ちる、という発想で作られている。読者は、これは四割くらいなんだろうなあ、と思って読むわけで、これがいわゆる行間を読むということですね。ところがライトノベルでは、作者は四割ぐらいの情報しか出さず、残り六割は読者のほうで補えという感じで作られている。これが大塚さんの言うまんが・アニメ的リアリズムというものだと思うんだけど、ここでもやはり、じゃあオリジナリティはどこに行ったんだという疑問が出てきますね。

「この言葉では言えなかったんだろうな」「文章は現実そのものなんですよ」ですか。
現実を撮影すると「写真には写らない美しさがあるから♪」w、ああ解像度が低くてこの程度しか写らなかったんだなと受け手が補正する、これを東MAXワールドでは「行間を読む」と言うのか。毛穴くっきりハイビジョンになると「行間を読む」度合いが減ると考えるのか東MAX。データベース文化の優位性を語りたくて再現度が何割落ちとかなんとかわけのわからないこと言っているのか東MAX
するとスミルナの虐殺を描いたヘミングウェイの文章は、再現度が低いからこのような文章になっているのか東MAX。以下の文章も「作者は四割ぐらいの情報しか出さず、残り六割は読者のほうで補えという感じで作られている」のじゃないか東MAXラノベに行間がないという批判は、ラノベがベタ演技で大根役者だという意味だと思うよ東MAX

 不思議なのは――と彼は言った――毎晩、真夜中になると、彼ら避難民たちが叫びだすことなんだ。なんでそんな時間に叫んだのか、わからない。われわれは湾上にいて、彼らはみな埠頭に集まっていたんだが、真夜中になると叫びだすんだな。だから、よくサーチライトを彼らに浴びせて、黙らせたものだよ。
(略)
 あの港は覚えているね。なんとも素敵なものがあちこちに浮かんでいたっけ。私がいろいろなことを夢に見たのは、後にも先にもあのときくらいのものさ。
(略)
何頭という驢馬が前肢を折られて、浅瀬に追い落されるのさ。よくもまあ、やってくれるもんさ。そう、なんともはや、素晴らしい眺めだったね。

というわけで今日の本題。たまたま並行して読んでいたので好都合とばかりに。

ヘミングウェイ『われらの時代に』読釈―断片と統一 (SEKAISHISO SEMINAR)

ヘミングウェイ『われらの時代に』読釈―断片と統一 (SEKAISHISO SEMINAR)

ヘミングウェイ「スミルナの埠頭にて」の解説。

イギリスは、最初はギリシアを支援していたが、トルコの勝利が確かになると、自国の利益から中立を決め込んだ。無数のギリシア人難民がトルコの兵士と民間人による殺害、暴行、略奪、レイプに遭っても、手を出さなかった。この作品のサーチライトのエピソードは、トルコ人の暴虐が真夜中に行なわれたので、ギリシア人は近くに停泊しているイギリスの軍艦に、サーチライトを照らしてトルコ人を追い払ってもらおうとした、ということなのである。
(略)
ギリシア人がラバの脚を折って海中に突き落とした、というのは、まさしくイギリス軍がギリシア人に対してとった態度である。(略)
 このイギリス軍士官の語りは、要するに、イギリスに責任のある事態に対して、一切責任がないことにしている語りである。しかし現場を見ていない本国の政治家たちと違って、士官たちは目撃し、関わった(あるいは関わらなかった)ことの影響を心理的に受けたのである。(略)
[マーク・トウェインは『赤毛布外遊記』で]このスミルナについて細かくその歴史や地誌や騒音や悪臭を書いているのだが、ヘミングウェイは何も書いていない、ということにである。語り手も書き手も、20世紀の今、ここのことにしか関心がない。過去は断ち切られている。いや現在は過去から断ち切られている、というほうが正確だろう。断片としての現代史があるのみである。
 スミルナの悲劇は、当時、ニューズリール(ニュース映画)に撮影され、多くの人に知られた。(略)「筆舌に尽くしがたい真実の映像」とされている。「スミルナ炎上の悲劇のような光景に言葉は不必要」というキャプションが出てくる。スミルナ市街が黒煙を上げて炎上し、燃え広がり、夜にも炎が燃え盛る様子が、パノラマとして海上の船からスキャンされている。避難民が救命ボートでフランスやイタリアの船に近づき乗船する。船にも広い桟橋にも避難民が溢れている。(略)
センセーショナルな語りを排し、「筆舌に尽くしがたい」といったクリシェを用いずに、「スミルナの悲劇」を読む者の感覚に沁み込ませている。

断片化とは

1888年スウェーデンの劇作家ストリンドベリは、『令嬢ジュリー』の前書きで次のようなことを書いている。「私の人物は、文明の過去と現在の段階、書物と新聞の断片、人類のかけら、美しい衣類の襤褸と切れ端の混合物で、人間の魂と同じように継ぎ合わされたものだ」(略)
 つまり、人物も現実も時間も分断化・断片化されるようになった、それが時代の精神・意識となっていた、少なくとも芸術の世界、思想の世界にあっては、ということである。統一ある世界、秩序ある世界、連続性のある、あるいは目的のある歴史的時間は崩壊しつつあるという認識の反映である。(略)この観念が20世紀のモダニズムの前提的な条件となっていたことは疑えない。ガートルード・スタインも、「すべてが砕け、破壊され、ばらばらになってしまったこの二十世紀という素晴らしい時代」と述べた。
(略)
ヘミングウェイの時期は、まさにこうした断片化と再構成化が行われる時期であったのだ。エリオットのいう「新しい全体」が意図された時期である。
(略)
[人間が文字通り断片化される戦場の体験]
断片化、分断化、粉砕化は即物的目撃・体験だったのであり、また精神的・心理的トラウマを引き起こした。それは時代の現象であり心理であった。彼の仕事はさまざまな意味での断片を回収することであり、断片の「それ自体の重み」を描くことであり、それをつぎはぎの体系的記述とすることだったのだ。