高橋源一郎鼎談-キャラに縛れて東MAX

前回のつづき。
腐女子とちがって知的でポモな皆さんはこれくらいの冗談でエキサイトすることはないですよね
m(。・ε・。)m
(引用以外はあくまでもフィクションDEATH)

僕自身は、相手の弱点を攻撃することへの危惧があり、相手の屍から有意義ななにかが得られるとも思わないので、じつはこの件について改めてお話する気持ちはありませんでした。

鼎談冒頭、ホメ殺しの源さんと言われちゃうくらいの高橋源一郎が「うぜえよ、ブス」とKYブサイコをぶったぎり(評論家に向かって「書いてみないとわからない」と言ったのならともかく、下で引用したように同業者同士で語りあった言葉に横から噛み付くブサイコであるからして自業自得なのである→kingfish.hatenablog.com)。
僕が興味があるのは「小説とも評論ともつかないものを発表」した東MAXなんだな、「初体験どうだった」と口説きにかかるもヒロキは「工リ力」状態。不穏な空気漂うコンパ会場
(あくまでもフィクションDEATH)
『キャラクターズ』での「フィクティヴな存在であるキャラクターに対しても、強い責任をとるという」倫理性と『ゲーム的』での「文学を定義しない」態度はどう並立するのよと源一郎が再度迫るも、「押しつけない」のが僕の倫理性と東MAX

そもそものコンテンツなどだれも知らずに、メタコンテンツばかりがコミュニケーションのネタとして消費される(略)
そうした消費のされ方を前提として書きつづけることが、これからの作家は求められる。

そんな時代の流れについてこれるのかしら純文学てな東MAX節に、ミソ扱いのブサイコが「なによアンタすかしちゃって、わたしはモテたくって必死なのに、男に困ってないならコンパなんか来ないでよ」と噛み付いたものだからさすがの東MAXも「工リ力」面から般若フェイスに。
(あくまでもフィクションDEATH)

初対面の田中さんがなぜ僕を「無責任」とまで言われるのか、その理由を知りたい。文学について語りながら、文学を定義せず、文学と非文学の線引きをしないから無責任なんですか?

すると源一郎、まあこの点はブサイコちゃんの気持もわからないでもないとフォロー

基本的には文学の話をしているのに、東さんは文学は定義できないとあっさりおっしゃるでしょう。そのとき、文学について、
1.あえて定義していないのか、
2.定義しているがそれを表明することは得にならないから隠しているのか、
3.特殊な文学観を持っているのか、
がわからないので、話すほうも通じにくくて困惑する場合があるんです。

ようやくほぐれた東MAXがそりゃあ僕も高橋さんに『キャラクターズ』褒められりゃ嬉しいし高橋さんの『ニッポンの小説』面白かったけど、僕のキャラ設定ではそうは言えないのよと発言

高橋 もしかすると、それこそがさっきから話題にしている「キャラクターヘの責任」ですか? これまでの系列と矛盾していることを急に言明しては、批評家・東浩紀というキャラクターに対する背信行為になると。
(略)
いま、ひじょうに重要なことが語られている気がします。つまり、キャラククターを扱うことって、近代文学で書き手が気にする主体の一貫性よりも、もっと厳密なものなんですね。……しかし、それってたいへんじゃない?(笑)

若い支持者のためにも一貫性は崩せないという東MAX発言に爆笑につつまれるコンパ会場

高橋 その倫理は、どこからくるものなんでしょう?
東 これはうぬぼれかも知れませんが、僕は、ある領域では下の世代の読者に対して影響力が強いので……。
高橋 役割意識?
東 まあ、そうですね。彼らの読書体験を左右するところもあるだろうし。
高橋 それは、父としての役割を担うということですね?
田中 まったき近代主義というか。
東 そうですね。ただし、さきほどの区分で言えば、あくまでも「私的」に個別に父であるということです。だけど、父なんて私的で個別なものに決まっているので、それでいいと思いますが。

ほんとは高橋さんと楽しくお話したかったんですどキャラ設定上できなかったんですと号泣「工リ力」謝罪会見を横目に高橋源一郎のまとめ。

東さんという存在から連想される、ポストモダンという言葉、それに亡霊のようにつきまとう「遊戯的」という言葉、あるいは態度とは、遥に隔たったものです。別の言い方をするなら、その「倫理性」は、とうに失われた、近代文学初期のそれの、厳格さに近いものを持っているような気さえするのです。

(引用以外はあくまでもフィクションDEATH)

「用水」発言にエキサイトする腐女子とちがって知的でポモな皆さんはこれくらいの冗談でエキサイトすることはないですよね。

鼎談内容を紹介したところで、再び吉本隆明を引用してみる。

古典 (吉本隆明全集撰)

古典 (吉本隆明全集撰)

1971年に出版された文章DEATH。

 ほんとに夢がみられたか、梅の花の色あいが袖に映えたか、また空とぶ雁のつばさが春雨に濡れるのがほんとにみえたのか、(略)
こういった虚構か現実かにかかわる問いは、ここでははるか以前に効力を喪っている。言葉だけの虚構の世界に、どんな方法で色彩や匂いを与えるかだけが、大切なのだ。春の夜の夢からさめるときの色合いも、架空のイメージだ。嶺にわかれてゆく横雲の曙の色合いもまたただのイメージだ。

和歌の定型をささえる慣用句みたいなものが、歌人たちの意識をいつもいっぱい充たしていた。歌を詠むということは、それを記憶からとりだしてきて組合せることだし、巧く作るというのは、巧く組合せができるかどうかだ、ということになっていた。その「古今的」な手法の成熟の仕方が、定家には面白くなかったにちがいない。言葉にあらわされた情緒の色合いよりも、言葉にあらわされた鮮明なイメージの方が大切だ。すくなくとも歌を詠むというのは、言葉をつかって鮮明なイメージを産み出すことだ。

 みんな恋の歌だ。しかもたぶん全部、体験の歌ではなくて、恋と題する歌として、人工的に作られたものだ。だがこういう歌を読んで作者自身が恋を苦しがって七転八倒している姿を与えられる。これは言葉の機能としては背理で、虚構をかまえればかまえるほど、生命が内攻して盛り上がったイメージがあたえられる。生命は概念に封じこめられているあいだは、形象をもつことはなくて、ただ糸のように折り畳まれている。ここでは生命が、体験の曲線に沿って言葉を解き放つのではなく、概念のうちで内攻し、せめぎあい、思わずところどころで、裂け目からうめき声をもらしている。

初期歌謡論 (ちくま学芸文庫)

初期歌謡論 (ちくま学芸文庫)

1975年頃書かれた文章DEATH。

空から降ってくる雪を花になぞらえ「雲のあなたは春」と表現するためには、なにかが犠牲になっていなければならないはずである。この犠牲は人間感情の或る部分であり、また通常の価値感の放棄にひとしいものである。いわば自然の動きにたいする物狂い、あるいは気狂いともいうことができよう。なぜそういう途徹もないところに、かれらの時代の詩心は踏み込んでしまったのか。逃避すべきモチーフが現実にあったといっても致し方がないような気がする。ただ「雲のあなたは春」と表現できたら、生命も惜しくないといったほどに深入りして、ラジカルな歌の世界が形成されてしまったというほかはない。
 かれらはほんとうに、ほととぎすのもう一声をききたいために、山路をたずねくらしてしまったという体験をもったことがあったのだろうか。(略)
屏風絵をみて口さきだけで詠んだものだから虚構なのではない。ほととぎすの一声をきくために日を消費してもよいという表現にかれらを駆りたてた動機のなかに、虚構の質がかくされている。

[自然の擬人化は]
むしろ自己の存在感の稀薄さ、感性の不安定さを、自然の事物で補償しようとする心の動きからきている。(略)
 試みに「鶯のこほれる涙今やとくらむ」と詠んでいる人物を想像してみる。かれは実人生の場に虚無しかみていないとおもえる。そうでなければ〈鶯のこおっている涙〉というような微少な比喩に心を奪われるとはおもわれない。かれの虚焦がどこからきたのかわからないとしても、そういう根拠は心の奥にあったのだ。
 たぶん「比興体」にみられる自然の擬人化は、忠岑のころにはま新しいものであった。このま新しさは自然の事物を自在にあやつることができる虚構のうえにはじめて成立った。自然を客観的に描写して心を象徴させるのではなく、自然が心の動きのままに動くさまが虚構される。すでに歌人たちはそういう手法をものにしていた。

 ある古典時代の〈歌〉とそれよりももっと前の〈歌〉をくらべて、作者の個性にかかわりなく変ってしまったものがあるとしたら、変ったことに不可避さが見つかるはずである。なぜ〈わたし〉の好きな時代の〈歌〉は、好きでない時代の〈歌〉に変ってしまったかと嘆くことは意味がない。どうしても変ってしまったのだ。またこの時代の〈歌〉はあの時代の〈歌〉より品下っているといっても仕方がない。〈歌〉もまた言葉の表現の歴史をつくりながら、いつも現にそこにありつづけるものだからだ。